君を失って世界が止まった
風はまだ少し冷たく、けれどどこかで夏の匂いを含んでいた。
教室の空気は、いつもと同じようにざわついていたけれど、僕の心は何ひとつ動かなかった。
昼休み、廊下の窓辺に立っていたときだった。
「君、たまに、すごく透明になるね」
声がして振り返ると、彼女がいた。知らないはずの、でもどこかで見たことがあるような、そんな顔だった。
「……僕、に?」
「うん。なんていうか、光が通り抜けそう。……あ、ごめん。変なこと言った」
彼女はそう言って、照れ隠しのように笑った。
それが、僕と凛の最初の会話だった。
「ここ、座ってもいい?」
その日から、凛は放課後の図書室で、僕の隣に座るようになった。
きっかけはあの日の廊下。僕が無表情のまま頷いたから、たぶんそれだけだったと思う。
静かだった。けれど、その静けさは居心地が悪くなかった。
凛は、本を読んでるようで読んでいなかったし、僕も文字を追っているだけだった。
たまに、意味のないことを話した。テストのこととか、クラスの子の噂話とか、昨日食べたアイスの味とか。
そんな他愛もない会話が、なぜか少しだけ温かかった。
でも、凛は時々、窓の外を見て黙ることがあった。
笑っているのに、どこか寂しそうだった。
その横顔を見て、僕は少しだけ、胸の奥がざらつくのを感じていた。
彼女と話す時間は、少しずつ当たり前になっていった。
放課後の図書室だけじゃなくて、昼休みにすれ違えば挨拶を交わすようになったし、
週に一度くらいは、下校のタイミングが重なることも増えた。
「今日の国語、テスト返ってきたね。あれ、悔しかったー」
「そう? 僕は……まあ、あんなもんかなって」
「“まあ”って言うけど、いつも上位だよね。ずるいなあ」
「別に。勉強だけしてれば、他のこと考えなくて済むからさ」
「……そっか」
そんな風に、ちょっとだけ本音をこぼしても、彼女はそれ以上は聞いてこなかった。
それが、僕にはちょうど良かった。
ある日、彼女が図書室の席で静かに水を飲むと、カバンの中から小さなピルケースが見えた。
彼女はそれを当たり前のように取り出して、口に含んだ。
「……風邪?」
僕が尋ねると、彼女は笑って首を振った。
「ううん、ちょっと体質的にね。毎日飲まなきゃいけない薬」
それ以上は聞かなかった。聞けなかった。
その日の放課後、彼女がぽつりと言った。
「ねえ、もしもさ。もしも、私が突然いなくなったら……どうする?」
「どうもしないよ。人ってそういうもんだろ」
「……そっか」
彼女は少しだけ、目を伏せて笑った。
その笑顔がやけに寂しく見えたのは、あのときが初めてだった。
その日は、何でもない放課後だった。
空は低く曇り、風は少し湿っていた。
僕は傘を持たずに帰った。図書室にも寄らなかった。
翌朝、彼女の席が空いていた。
先生は「体調不良だそうだ」とだけ言った。
……次の日も、次の日も、彼女は来なかった。
数日後、担任が朝のホームルームで言った。
「残念なご報告があります。有坂凛さんが……亡くなりました」
一瞬、何も理解できなかった。
だけど教室がざわつく中で、僕の中だけが妙に静かになっていた。
彼女の葬儀には、クラスの何人かが参列したらしい。
僕は、人混みを避けて別の日に、静かに墓前に立った。
図書室の席にも、一度だけ足を運んだ。
あの場所には、もう何も残っていなかったけれど、
ほんのりと、彼女の気配が机に染みついているような気がした。
ページを開いても、文字は目に入ってこなかった。
それでも僕は、そこにただ座っていた。
それから季節がいくつか過ぎて、今日も僕はここにいる。
小さな墓標の前に、花をひとつ手向ける。
静かに風が吹く。
あの日と同じ、よく晴れた空だった。
君がいなくなってから、僕はいろんなものを思い出すようになった。
祖父が死んだときのこと。
弟がいなくなった朝の風景。
母の背中の小さな揺れ。
僕が失ってきた、たくさんの「何か」の重さを。
だけど――
それらすべてを足し合わせても、
君を失ったときの重さには、到底届かない。
君の言葉、声、仕草、笑い方。
その全部が、僕にとって希望だった。
気づいたのは、君がいなくなってからだった。
僕は静かに目を閉じる。
風の音が、今日も変わらず耳に届く。
その音の向こうに、ふと、君の笑い声が混じっているような気がした。
もちろん幻だ。
でも、それでいいと思った。
誰かにとっては何でもない日でも、
僕にとっては今日が“君を思い出す日”なんだ。
それだけで、今は十分だった。