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赤の女王の死に絶える

作者: 古川アモロ

 


 いずれ池の鯉が、俺1匹だけになってしまうのは明らかだった。

 むかしは俺以外にもたくさんの鯉がいたが、最近は本当に見かけなくなってしまった。


 池は今日もイヤな濁りかたをしている。俺が全力で泳いでも、1周するのに半日かかるこの池。

 ああ、世界とはなんと大きいのだろう。


 世界。

 すなわち、この池。


 この池の名前を聞いたことがあった気がする。

 ぜんぜん思い出せないのは、きっと俺がこの世界で40年以上生きているからだろう。



 水面に小虫が浮いていた。

 ガバと口を開け、大水ごと飲みこむ。食った気がしない。


 虫とはバカなもので、多次元宇宙論なんて説を信じているそうだ。

 多次元宇宙。

 複数の世界。

 なんでもこの世には、この池とは別の池があるそうだ。それもひとつだけじゃなく無数に。なかには、この池より広い池もあるという。

 そういう説だ。

 なかには、それを実際に見たという虫もいるらしい。


 そんなバカな。

 まるで夢みたいな話だ。

 世界とは、この池とあの空のことだ。それ以外に世界などあるはずがない。これだから虫はバカだというんだ。だからあいつらは、あんなに短命なんだ。



 短命。


 ふつうの鯉の寿命はせいぜい20年くらいだそうが、俺は倍以上も生きている。もしかしたら、俺は特別に長命の個体なのかもしれない。そうじゃないかもしれない。


 俺といっしょに生まれた兄弟は、みんな寿命を待たずに死んでしまった。

 ある者は病気で。

 ある者は鳥や猫に食われ、ある者は人間に釣られてしまった。


 ようするに俺は、奇跡的な確率で生き延びているだけだ。

 もしかしたら鯉というのは、みんな俺とおなじくらい長生きする魚なのかもしれない。ただ寿命の前にバタバタ死んでいるだけなのかもしれない。そうじゃないかもしれない。


 とにかく鯉というのはロクな死にかたをせず、たまたま俺はそうならずに今日まで生きてこれたに過ぎない。


 だが、長生きがよいことばかりとは限らない。

 俺の巨大な体はどうだ。

 40年、俺の体は成長をつづけ、とうとうこんな大きさになってしまった。


 水面に飛び上がることができなくなったのは何年前からだろうか。

 浅瀬を泳ぐことができなくなったのは、何年前からだったか。


 なにしろ俺の口と言ったら、カメを丸飲みにできるほどだ。

 俺のウロコと言ったら、1枚がハチより大きい。

 俺がすこし本気で泳げば、水中に大渦ができる始末だ。


 かつてウナギという魚を見たことがある。

 長い長いと聞いていたので、いったいどんな大魚なのかと思っていたが、俺の5分の1の体長もなかった。ひと息で食ってやった。



 もっとたくさんエサが必要だった。

 鯉はなんでも食うが、俺の場合はケタがちがう。


 タニシは鯉の大好物だ。

 だからなんだ?

 どんなにまるまると太ったタニシでも、俺の鼻の穴よりも小さいじゃないか。


 寒い時期、水面に蚊が浮いていたことがある。珍しいなと近づいたら、それは松ぼっくりだった。俺には小虫くらいの大きさにしか見えなかった。


 俺は空腹だった。

 池にあるエサは、いつの間にかすさまじい小ささになっていた。


 いや、エサが小さくなったんじゃない。

 俺が大きくなりすぎたのだ。


 だから、どんどん大きなエサを食わざるをえなくなった。


 カメを食ってみた。

 噛み砕いて丸飲みにする。

 俺はまた大きくなった。


 鳥を食ってみた。

 噛み砕いて丸飲みにする。

 俺はまた大きくなった。


 ブラックバスとかいうのを食ってみた。

 噛み砕いて丸飲みにする。

 俺はまた大きくなった。


 巨大化するにつれ、俺の動きはどんどん鈍重になっていった。それでも腹は減る。腹が減ったら食わねばならない。

 俺は水中を大暴れしながら獲物を追い続けた。無我夢中でカモだのヘビだのを追い回した。俺に食われるのは、たいてい群れでいちばんノロマな奴だった。


 やがてカメは、俺の近づけない浅瀬で生活するようになった。

 鳥は池に近づきもしなくなった。

 ほかの小魚は、もうとても捕まえることはできなかった。俺に食われるようなノロいのは、ぜんぶ食ってしまったからだ。


 ナマズがいた。

 すばしっこいメダカみたいなのを追いかけて、次から次へと食っている。よくあんな素早い小魚を捕まえられるものだと感心しながら見ていた。

 満腹になったらしいナマズは、のんびりと優雅に泳いでいた。だから俺でも簡単に捕まえることができた。

 噛み砕いて丸飲みにする。

 俺はまた大きくなった。



 腹が減った。

 池でいちばん底にある砂だまりに、どしんと横たわる。以前は腐った木が沈んでいて、そこに開いた大穴が俺の巣だった。


 しかしある日、俺の巨体に耐えられずに巣は砕けてしまった。おかげで俺は、隠れる場所もなく水底にじっとしているばかりだ。

 そうやって体力を温存するのだ。


 やがて腹が減った。


 こうなったらエサは死骸でもいい。死にかけの生き物なら、なおいい。俺でも捕まえられる動けないエサはどこかにないだろうか。



 ふと、上を見上げてみる。

 鯉がいっぱいいた。

 俺より若い鯉たちだ。


 若者たちが、忙しくあっちへこっちへと泳ぎ回っている。水生の昆虫を食べているようだ。うらめしさのあまり、俺の腹はグウと鳴った。


 なんだ、あんな小さなエサ。

 俺だったら、まとめてごくんと飲みこんで終わりだ。腹の足しにもならない。ああ、小さなあいつらが憎らしい。


 ふわり。

 すこしだけ浮いてみた。

 俺は動きが鈍重と言ったが、それは泳ぐときの話だ。浮くときの俺はツバメみたいに早い。一瞬で若い鯉を2匹、まとめて食った。


 今まで鯉だけは食わなかった。

 俺とおなじ鯉だからだ。

 とくに理由はない。なんとなく食べてはいけないような気がしていたのだ。だが、食ってみるとなんの差し障りもなかった。


 それから俺は鯉をよく食べるようにした。

 俺以外の鯉は小さかった。もちろん俺と比べての話だが。小さな鯉たちは身軽で、泳いで追いかけたのではとても間に合わない。


 しかし奴らがエサを食っているときは別だ。食事に必死になるあまり、真下から迫る俺に気づいたときにはもう遅い。たちまち俺が食らいつく。

 俺は毎日、この狩りかたで鯉を食べた。

 噛み砕いて丸飲みにする。

 俺はまた大きくなった。



 そして最近、鯉を見かけなくなった。

 池のどこを探しても、もう鯉は見つからなかった。


 ぜんぶ食いつくしてしまったらしい。だが俺は困らなかった。淡水貝が山ほどいたのだ。鯉がいなくなったことで、貝はどんどん増えたらしい。

 ミミズもいっぱいいた。

 俺はそれらをひとりじめに出来た。

 そんな小さなエサでも、大量に食えば満足できた。


 だが、やがてそれも見かけなくなった。

 池のどこを探しても、もう貝もミミズも見つからなかった。


 そのとき俺の体は、もう大木ほどの大きさになっていた。

 だからもう、池の深いところしか泳げない。いままでもそうだったが、いよいよ岸には近づけなくなっていた。


 虫や鳥の死骸を食うことも出来なくなってしまった。小動物の死骸というのは、浅瀬に浮かんでいることがほとんどだからだ。ああ腹が減った。



 だが鯉をみつけた。

 メスの鯉だ。

 しかも、なんだか不思議な鯉だった。

 

 全体的に赤くて、まるで紅葉したカエデみたいな色だった。いままであんな派手な鯉が、どこに隠れていたんだろう。

 だが、まだ生き残っていたのだ。鯉はまだ生き残っていたんだ。死に絶えたわけじゃなかったんだ。


 そいつは、俺に気づくなり大あわてで逃げていった。


 逃がすものか。

 逃がしてなるものか。

 俺は死に物狂いで追いかけた。


 たぶん生まれてから5年くらいしか経ってないはずのメスの鯉。やたらヒラヒラした尾びれまで赤い。

 

 追いかける。

 追いかける。

 向こうのほうが早い。だが逃がすものか。


 鯉は、浅瀬に逃げ込んだ。俺が入りこめない浅いところにだ。


 これでは食べられない。

 だが、しめたぞ。

 浅瀬は袋小路のようになっている。だから俺の巨体で入口をふさいでやった。さあどうだ、閉じこめてやったぞ。


 俺は待ち構える。

 鯉を逃がさないように見張りつづけた。


 せまいせまい浅瀬。

 馬鹿め、そこには食べるものなんか無い。たちまち腹を減らして、やぶれかぶれに逃げようと向かってくるぞ。そこを食うのだ。


 鯉はおびえた様子でこっちを見てくる。もう食いたい気持ちを抑えきれず、俺は大口を開けた。


「私を食べないで」

 赤い鯉は言った。

 


「なぜだ」

 俺は驚いた。

 なぜそんな理不尽な要求ができるのか、こいつは。

「お前を食べなければ俺が死ぬ。お前を食うのだ、食うのだ」


「この池に鯉はもう私とお前しかいない。私を食べても、結局お前は飢え死にする定めではないか」

 赤い鯉は言う。

「私を食べても一時しのぎにしかならない。だから私を食べても意味がない」


「食べなければ、それだけ早く死ぬではないか。食べれば、そのぶんだけ生きられるではないか。どこが意味がないのだ」

「お前は自分とおなじ鯉をも食うというのか。そうまでして生きたいのか」


「生きたいとも。だからいままで食わなかった物をも食えるようにならねばならぬ。俺がこの池で生き続けるために、俺は変わり続けねばならぬ」

「私もおなじだ。こうなったら私がお前を食ってやる。お前が飢えて死ぬのを待って、お前の死体を食う」


「小さなお前のほうが、先に飢えるに決まっている」

「いいや。大きなお前のほうが先に飢えるに決まっている」


「俺はこの池の王なのだ。巨大の池にとどまる巨大の王なのだ」

「私はこの池の女王だ。こんな浅瀬にとどまることは許されない」


 こうして俺と鯉のガマンくらべが始まった。

 始まると思った。


 でも、いきなり鯉はいなくなった。

 パチャンと水音が鳴ったと思ったら、その瞬間に鯉は消えた。


 なんだ、と上を見上げると鳥だった。

 おおきな鳥が、赤い鯉をつかんで飛んでいた。


 俺のエサを!

 と思ったところでもう遅かった。



「ひいい、助けて。助けて」


 空高くで赤い鯉は叫んでいた。必死に暴れまわっているが、鳥の鋭い爪からは逃れられるはずもない。

 ああ、俺のエサが。

 もうあんな砂粒みたいだ。

 どこまで高いところへ行ってしまうのか。ああ、俺のエサが。


「ひいい、はるか遠くに池が見える。その向こうにも池が見える。世界が、世界がたくさんある。ひいい」


 やがて赤い鯉の悲鳴は聞こえなくなった。

 俺はざぶんと体を反転させた。


 もうこんな息苦しい浅瀬に用はない。俺は池の底へ戻った。



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終身刑の魔女より

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いま書いてるやつよ。





イタいぜ!



チャッカマン



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