般若と男
しいなここみ様「純文学企画」参加作品。
純文学と言えば芥川。芥川と言えば雨月物語と人間のエゴ・・・という発想で書いていたらホラーっぽくもなったので公式企画「夏のホラー2024」にも参加させていただきます
村外れの道を歩く男の着物は、元の色が分からないほど汚れていた。
男は未曽有の飢饉で何もかも失った。
その道は、人はおろか動物の気配もまるでない。ただ虫ばかりが大量に纏わりついた。
少し前なら死臭に鼻をしかめたり、腐敗した行倒れに目を背けたりしたものだが、もうすっかり慣れてしまった。
ある場所に来た所で男は立ち止まった。そして周りを見渡した。
(おそらくここだ)
背の高い雑草のせいで視界が悪いが、道の右側にはうっすらと人が踏み入れた跡のようなものがある。
そして、なにより慣れた鼻にも感じられる死臭が濃くなり、虫の羽音が一層耳に着いた。
男は意を決してそこに足を踏み入れた。
共同墓地に般若が出る。
男が聞いたのはそんな噂だった。
何人もの侍が退治に向かったが、帰っては来なかったとのこと。それを受けて褒章金が出ることになった。
すると今度は『退治いたしました』という者が殺到し、役場は般若の首で溢れかえった。
むろん本物のわけがない。
何しろ死体はそこかしこにある。適当な女の死体の首を切り落とし、それを般若を打ち取った証と偽る者が後を絶たなかったのだ。
結局誰も報奨金を受け取らないまま、虚言の罪で首を刎ねられた死体が更に増えただけだった。
(実際、ここまで来た者は、ほとんどいないのだろう。退治から帰らなかった侍というのも怪しいものだ。体よく逃げただけかもしれぬ)
男はそう実感した。それほどに争いの痕跡など感じない場所だった。
歩くにつれて、ますます草の背が高くなった。
人の体臭を嗅ぎつけて、やぶ蚊が寄ってくる。
それらを手で払いのけていると、バチッと、頬に石礫のようなものが当たった。
男はビクリとして腰の太刀に手をかける。
少し離れた草むらでバラバラと音がした。おそらく甲虫か何かが当たったのだろう。
そう解釈すると男は太刀から手を離した。
薄汚れた男の風貌に似合わない、たいそう立派な太刀である。
実際それは、道中の行倒れから失敬した物だった。ここでは太刀など飯一杯の価値も無いので、誰も見向きもしないのだ。
(そんなに大事にする者でもないか)
男は思い直して太刀を抜き、山刀のように草を薙ぎ払いながら進んだ。
やがて目的の共同墓地に出た。
そこにつくと、それまで様々な種類がいた虫達が消え、おびただしい蠅だけが飛び交っていた。
丸々と太った蠅である。
皮膚に当たると先ほどの甲虫と同じような痛みを感じた。
男は手拭いを振り回しながら、墓地の周りを周った。
墓地とは名ばかりで、実際は、大きな穴に骸を投げ入れただけのものである。
かつては土葬をしていたのだが、あまりに数が多いのでそうなったという。それでもここに遺棄されるのはまだマシな方で、最近は道端に打ち捨てられることの方が多い。
墓地の周りを半周ほどすると急に蠅がいなくなった。
そして、それはいた。
それは一目でこの世のものでないことが分かった。
なぜなら美しかったからだ。
赤、白、金が鮮やかな公家女房のような着物を着ており、絹糸のような滑らかな黒髪を足元まで垂らし、肌は磁器のよう白く滑らか。
全身汚れ一つないのだが、口の周りだけが、たった今、生餌を食らったように血塗られていた。
女は男を見つけると、目を細め、口角を上げた。お歯黒をしているのか歯は見えない。
肌の白と目の黒、そして口周りの赤が際立った。
「般若か!」
刀を構えて男は言った。
「最近はそう呼ぶ者もおりますね。だとしたらどうします?」
女は聞き返した。笛の音のような高く響く声だった。
男は言葉が出ない。
「刀はしまっていただけないのですね」
そう言うと女は片手に持っていたものを、ぼとりとおとした。それは千切れた人の腕のようだった。
「ならば歓迎しますよ」
女は言った。
「屍肉にも飽いた所ですから」
そう言って更に目じりを下げ、口角を上げた。
「歓自在菩薩 行深般若波羅密多時 照見五蘊皆空・・・」
男は刀を正眼に構えたまま眼を怒らせ心経を唱える。
「愚かな」
女は顔をしかめた。
「私に心経が効くという『噂』は私も知っています。実際、多くの者が唱えました。しかし、本当は効かないという『噂』は流れません。なぜだかご存知ですか?」
女は一歩にじり寄った。合わせて男は後ずさる。
「唱えた者はお前が殺したからか?!」
男は絞り出すような声で答えた。こめかみから顎まで汗が伝い落ちる。
「それもあります。しかし、わざと何人か逃がしてみても一緒でした」
女は男の構える刀を無造作に掴んだ。見事に気配の消された動きで、男はまったく反応出来なかった。
太刀を素手で掴む女。普通ならこのまま刀を引けば指が落ちる。しかし、男はそれが出来なかった。
何か動けば、その拍子で返り討ちにあうのが握られた刀を通じて伝わったからだ。
「結局人は自分の信じたい『噂』しか信じないのですよ」
女は握った刀を飴細工のようにパキリと折った。そしてまた一歩近づく。
「きっと、得体の知れぬ者にも勝つ術があるという希望が欲しいのでしょうね」
更に歩み寄る女。
男はなす術もなく、近づく女の顔をまじまじと見た。すると不思議な感覚に陥った。
美しい。
「これも妖術なのか?」
男は聞いた。
「何がですか?」
女は小首を傾げる。
「勝つ希望が無いことは分かった。しかし、思ったほど恐ろしくない。いや、恐ろしさが消えて来た。雌螳螂に食われる雄は、こんな気分なのだろうか・・・」
女の顔から表情が消えた。そして口元を抑える。肩がわずかに震えた。
「くくっ、ほほほ、あーっはっは」
女は笑った。そして刀を離した。
「そんな術はかけておりません。そう思うならきっと、貴方が元々死にたいのでしょう」
女は言った。
「勝つ希望など元々無い。それ以前に、生きる希望も無いのでは。しかし、自ら命を絶つ踏ん切りもつかない。だから死ぬ口実を求めて来たのでは?」
男は刀を捨てた。
「おっしゃる通りです。。。」
「だから希望する死が美しく見えたのてす。愚かな。。。死にたいなら好きになさい。しかし、私は興が覚めました」
そう言う女の顔は、口の周りの血糊が無くなっていた。
「あっ」
男がそれを尋ねようとすると、女は踵を返し、音も無く去っていった。
男は追うことも出来ずに佇んだ。
「信じたい噂を信じるか・・・」
男は口に出して呟いた。案外、女の姿も見たい姿で見ていただけなのかもしれない。
気が付くと、また周りに太った蠅が纏わりついてきた。
それを振り払いながら男は帰路に着く。
しばらくして界隈にある噂が流れた。
件の般若は神仏の類だった。ある男が彼女から啓示を受けた。『来年は豊作になる。それに備えよ』と。
真偽のほどは分からない。ただ、道端の屍は随分と減ったようだ。
ーー了ーー