黒髪の少年
──カ、……コン……。
庭の鹿威しが鳴った。
それと同時に、吉昌は目を見張った。
(……これが、あの、噂の白狐……)
話には聞いていたが、見るのは初めてである。思った以上に、幼い風体をしていることに、吉昌は言葉を失った。
侍従たちの言う通りである。『妖怪とは思えない』……そんな言葉が脳裏を掠めた。
そもそも吉昌の家には、幼い頃から多くの妖怪たちがいた。
その妖怪たちは、時に人の姿となり、吉昌の前へ出て来ては、幼い吉昌をからかっていた。
けれど、目の前の白狐は、その時の妖怪たちと様子が違う。
(……なんだ? これは……)
本当に妖怪なのか? まず気配が違う。子どもの頃ならいざ知らず、今の吉昌は陰陽頭。陰陽師たちを束ねる立場なのだ。例え、どんなに妖怪が巧妙に人間に化けたとしても、見破れる自信が吉昌にはあった。
けれど、目の前の白狐はどう見ても『人』だった……。
(本当に白狐なのか? これは人なのではないか……?)
本気でそう思った。
気配もさることながら、白狐と言われるような特徴が、何一つとしてないのである。
(黒髪の白狐……? いやいや、色を染めているのかも知れぬ。……いや、しかし……)
吉昌の心は揺れる。
確かに、妖怪を捕獲したいとは思ったが、人間を捕獲するつもりはない。吉昌は考える。
(可能性として、ないわけではない……)
どこからか連れさらわれ、《澄真の縁者のフリをしろ》などと強要している……ということも無きにしも非ず。事は慎重に進めなければならない。
見れば、お付の者だろう、濡れ縁の方で待機している者がある。吉昌は、濡れ縁の様子を探った。
(……あっちは間違いなく、妖怪)
薄く目を細める。
もしも、ここにいる幼子が人であれば、あの濡れ縁にいる者が操っているという事になる。逆に、両方妖怪とも考えられた。
(人であれば、救わなければならないが、妖怪であれば、捕獲……)
しかし、今のところ判断がつかない。妙な行動が取れなくなり、吉昌は歯噛みする。
確実に濡れ縁の者は妖怪だから、単純に考えれば捕獲すればいい。
しかし、事はそう単純ではない。
幼子が人であればいいが、人でなければ、化けていることになる。これ程までに上手く化けれる妖怪も、そうそういない。おそらくは信じられないほどの妖力を持っている……そう考えた方が得策だ。
そうなると、濡れ縁の妖怪よりも、この幼子の方が上。例えば濡れ縁の妖怪を捕獲したとしても、目の前の幼子が黙っているはずがない。ここぞとばかりに攻撃を仕掛けて来るだろう。
そうなれば終わりだ。
この屋敷で、唯一力があるのは吉昌である。万が一吉昌が倒れれば、この屋敷は終わり。一人残らず妖怪に喰い散らかされた上に、《手毬》も奪われかねない。
そうなっては元も子もない。
(ミサキを出す……か──?)
それも考えたが、結果は同じだ。
ミサキは、《妖怪であってもミサキの姿は視えない》と言ったが、どこまで本当なのか、試したことがない。いや、そうであったとしても、視ることの出来る者がいるかも知れない。現に吉昌がそうだ。妖怪にもミサキを感知する者はいるだろう。
万が一視られてしまえば、力の弱いミサキなどは、すぐに負けるかも知れない。
吉昌は、ミサキを呼ぶのを躊躇した。
(……)
躊躇して、眉をしかめる。
ミサキの心配をしている、自分に気づいたのだ。
(いや、違うだろ? 正直、ミサキはどうなってもいいが、消された後、どう対応するのだ?)
そもそもミサキが倒れたその後、吉昌自身でどうにかなるのなら、呼ぶ必要がない。最初から自分で手を下せばいいだけだ。呼ぶだけ無駄……。
しかし、これはチャンスではないのか……? 吉昌は考える。
吉昌は、ミサキを快く思っていない。無理やり自分の式鬼に下ったミサキには、嫌悪感しかなかった。
ならばいっその事、ミサキを出して、ミサキを倒してもらえば……。
「……」
(……。私はなにを、グダグダ考えてるんだ……)
吉昌は頭を振って考える。
ミサキを倒す──。
しかし、それは吉昌の敗北となる。今すべき事は、そんな事ではないはずだ。
(何にせよ、向こうの出方次第だ……)
吉昌は、しばらく手を口に当てて考えていたが、ならばまず、すべき事があった……と、顔をあげた。不意に、目の前にいる幼子の顔が見たくなったのである。
震えるように頭を下げている幼子は、やはり本当は人間で、濡れ縁にいる妖怪に、無理を強いられている ──。
そう思うと、本当にそんな気がして、いつまでも頭を下げさせているのが、少し哀れにも思った。
万が一そうでないにしても、顔を見れば妖怪か人間かの区別が、つくかも知れない。
吉昌はそう思い、口を開く。
「あぁ、すまない。少し考え事をしていた。……君は澄真を心配して来たのだろう? なにもそうかしこまる事はない。面を上げて楽にするが良いよ……?」
優しくそう言った。
(さぁ、どう出る……?)
吉昌は懐の護符を掴み、身構えた……!
ゆっくり幼子は、頭をあげる。
さらり……と絹のような黒髪がこぼれた。
「!?」
その顔を見て、吉昌はギョッとなった。
顔をあげたその幼子は、ポロポロと涙を流して泣いているのである。
警戒していた事も、相手が白狐ではないかということも忘れ護符を手放し、吉昌は慌てて傍へ駆け寄った。
「な、なにをそんなに泣く?」
駆け寄りながら吉昌は思う。
(これは、人だ……。間違いない)
駆け寄ってその顔を覗けば、不安に満ちた無垢な少年の顔が見えた。
漆黒のその瞳は丸々と大きく、つり上がってもいなければ、つり下がってもいない。
その大きな目を潤ませて、ポロポロと涙を流すその姿は、儚げで、守ってやりたくもなり、相手の素性が分からないこの状況でも、抱き寄せたくなる。
艶やかなその白い頬は、泣いているためか、うっすらと赤味がさして、幼子にしては妙に色っぽい。
吉昌は唸る。
(……これは、澄晴さまが、好みそうだな……)
咄嗟にそう思った。
澄真の縁者とはいわゆる、《澄晴の家の者》である。
澄晴の家にいた稚児ならば、そういう稚児の可能性が高い。
「……」
吉昌にはそういう趣味はないが、稚児趣味を持っている澄晴ならば、この様な幼子も、自分の手元に置いているかもしれない。
吉昌は、絶句する。
(無下に扱っては、とんでもない事になる……)
咄嗟に頭の中で計算した。
澄真の父の澄晴は、身分的にはさほど高い地位にいるわけではない。しかし、帝の覚えがめでたく、その上あの容姿。誰もが虜になり、今や貴族の裏社会を牛耳っている。
澄晴が眉をしかめれば、その者は事実上、この世では生きてはゆけない。
ゴクリ……吉昌は、唾を飲み込む。
思わぬ大物の存在をその後ろに感じ、吉昌は青くなる。
妖怪捕獲計画は、綺麗さっぱり頭から吹っ飛んだ。
「あ。……あの、僕、僕……」
目の前の幼子が、震えながら必死に言葉をつなぐ。
ふるふると震えるその姿は、演技とはとても思えない。
(やはり間違いない。人だ。手を出さなくて良かった……)
そう吉昌は、安堵の息を漏らす。
優しく幼子を見て、吉昌は微笑んだ。
「ん? 澄真が心配なのか? 彼は大事ないから、そう泣かずとも良いのだぞ……?」
そう言った瞬間だった。
「……そう」
幼子は小さくそう呟くと、形のいいその唇の端を釣り上げる……!
──シュルシュルシュル……。
下から静かに、……しかし驚くほど素早く、白くて長いものが吉昌に絡みついて来た……!
「な……っ!?」
(……っ、やはり妖怪!?)
気づいて咄嗟に護符を掴もうとしたが、遅かった。
既に身動きが取れないほどに、妖狐のしっぽでがんじがらめに絡め取られてしまったのである。
(しまっ……、あのまま護符を握っていればよかった……!)
目の前の幼子が、あまりにも人のそれであったがために、油断して護符を離してしまった事を吉昌は後悔する。
ちらりと、濡れ縁にいる侍従を見た。何としても、彼だけは逃げて欲しい……。
しかし侍従は、吉昌の状況を見るや否や、吉昌を救おうと動いた。
「あ! 吉……ふぐ……っ」
──シャッ……!
侍従は動いたが、しかし傍には姮娥がいるのである。黙って見ている姮娥ではない。
当然、姮娥も動いた……!
素早くその長い舌を飛ばし、侍従に巻つける。
──シュルシュルシュル……。
叫ばれないように、口をぴっちりふさいでから姮娥は、ゆらり……と立ち上がった。
「……!」
吉昌は目を見張る。自分の油断が、侍従を巻き込んでしまったのだ。軽く混乱した。
妖怪だとは思ってはいたが、これほど動ける妖怪だとは思っていなかった。
仮にも侍従であったとしても、吉昌の侍従。そこらの妖怪には負けはしない。確かに、油断もあったかもしれないが、それでもこんなに易々と捕まる侍従ではない。
その侍従が為す術なく、長い舌に巻かれ、身動きが取れないのだ。あまりの光景に、言葉を失くす。
美しいその顔から、べろりと長い舌を垂らし、姮娥は気だるそうに歩を進める……。
ズリズリ……と従者を引き摺りつつ、御簾の中に入って来た。
吉昌は息を呑む。
侍従の顔は、恐怖に引きつっている……。
姮娥は、そんな事は気にも止めず、部屋に入るなりキッ……! と御簾を結び上げていた紐を睨んだ。
プツ。
プツプツプツ……!
ぱさ、ぱさぱさぱさ……っ。
四方の出入口に掛けてある御簾全ての紐が、一斉に切れた。
結び止めているものがなくなって、御簾は軽い音を立てて、次々に垂れ下がる。
姮娥は嬉しそうに目を細めた。
これで、外からは中の様子が見えない……。
「……っ、」
吉昌は震えるように、息を吐く。
──カ、……コン……。
庭の鹿威しが静かに、鳴った。
吉昌は歯噛みする。
(まずった……)
少しの油断が命取りになる……。
そんな事は痛いほどに分かっていたのに、なんという失態。
どうにかして、この状況を抜け出さなくては……。
そんな事を考えつつも、身動きの取れないこの状況に、吉昌は、なすすべがなかった。