熾砢房
熾砢房……と名乗った目の前の妖狐は、爽やかに目を細め、ふふっと笑う。
その笑みは、穏やかな春の日差しのような、あたたかな微笑みだった。
けれど先ほど見た、幼い方の狐丸の、あの疑うことを知らない無垢な瞳を思い出すと、今の熾砢房のその微笑みは、いくぶん悲しみをたたえているかのようにも見える。
《熾砢房》は、静かに口を開く。
『僕は、《妖狐》ではないんだ……』
少し苦しげな表情で、熾砢房は、確かにそう呟いた。
(《妖狐》……ではない?)
では何なのだ? と吉昌は、熾砢房の頭についている真っ白な耳と、二本の長いしっぽを代わる代わる見る。
その真っ白な耳は、未だに伏せていて、警戒を解こうとしない。フワフワのしっぽは、神経質そうに揺れ動き、吉昌やミサキのちょっとした動きにもピクリ……と反応する。
それらはどう見てもキツネの耳に、しっぽ。……吉昌は顔をしかめた。
その様子に気づいて、熾砢房は笑う。
『あはははは。そうだよね? 僕にはキツネの耳と、しっぽがあるけれど、でも……《妖狐》じゃなかった。違ったんだ……』
そう言って熾砢房は、さらに悲しそうな顔で、目を伏せた。
『僕が《妖狐》だったら良かったのに。そしたら妖狐たちも、そしてこの《狐丸》も苦しまずに済んだかも知れないのに……』
熾砢房は、銀白色の長い睫毛を震わせながら、ポツリと呟く。
「……」
何かよほどの事があったのだろう……と吉昌は推察する。
(それはつまり、妖狐でありたかった……と言うことなのか……?)
目の前の熾砢房が、いったい何者なのか、吉昌には判断がつかない。
しかし熾砢房の見た目は、明らかに、妖狐のソレだ。
(……しかし何故、いきなり成長した?)
熾砢房は、自身は妖狐ではない。狐丸でもない……と言い張るが、ならば幼かった先ほどの狐丸は、いったい何処へ行ったと言うのだろう?
……自分たちを、混乱させるため。
とも思ったが、どうやら様子がおかしい。
妖怪と言うものの種族の中には、確かに自分の年齢を誤魔化す者もいる。
けれど所詮それは、妖力で補っただけに過ぎず、ただの一般人ならともかく、長年陰陽師として研鑽を積んだ吉昌に通用するわけがない。
それなのに、目の前の《熾砢房》は妖力で補われたモノではなく、明らかに実態であり、ただ単に妖怪から人の姿に形どっただけに過ぎなかった。
どう見ても、成長したとしか、言いようがないのである。
(……いったい、何者なのだ?)
けれど狐丸とは、雰囲気すら違う。
澄真の話だと、《狐丸》はついこの前、生まれ出た妖怪だと言っていた。しかし目の前の《熾砢房》は、そうは見えない。
長年生きていた妖だけが持つ、貫禄とその匂い……。
そう思っていたところで、熾砢房の伏せていた耳が、ピョコンと立つ。
「!」
身構える吉昌。
けれど熾砢房は、自分の口に指を当て、んー……と考える。
『ん? ううん。いや待てよ? 僕は僕だけど、今は狐丸でもあるから、狐丸も妖狐じゃないって事なのかな……?』
そう言って、吉昌とミサキに首を傾げてみる。《どう思う?》と言ったところだろうか。
「な……。何を言って……」
ミサキと吉昌は、顔を歪める。呆れてものが言えない。
そんな事、自分たちが分かるわけがない。そもそも、今の状況に、一番動揺しているのは、こちらなのだ。
ミサキは、ギリっと歯ぎしりをする。
目の前の下等な妖狐に、おちょくられているのだと、理解した。
『そのようなこと、ミサキたちが知りませぬ……』
キッと睨みながら、強い口調で言いながら、腕を力強く薙ぐ!
ごおぉぉおぉぉ……!
物凄い突風が吹き荒れ、熾砢房を襲った!
ピクリっ……と熾砢房の耳が反応する。
ギラリと金の目を光らせ、……けれど熾砢房は、気絶している澄真を抱き寄せ、ふわり……と舞っただけだった。
『な……っ!』
軽く攻撃を躱された。
今まで一度も、攻撃を躱された事などないミサキは、動揺する。
熾砢房は動じない。
ふわりと、花のように微笑んだ。
『ふふ。そうだよね? 僕だって分からない。だって最初僕は確実に妖狐ではなかったから……』
目を細め、澄真を横目で見る。
『……だけど、これだけは分かるよ……』
言って熾砢房は、降り立とうとした岩山のてっぺんを、軽く蹴る。
「!」
トン──。
トン、トン……。
気を失っている澄真を難なく抱え上げ、熾砢房は大きな岩山の微かな足場を頼りに、ぴょんぴょんと跳ね降りた。
「な! 澄真は怪我人だぞ!」
吉昌は悲鳴を上げる。
地に降り立つ反動で、澄真の怪我に響きでもしたら、今度こそ致命傷になりかねない。
……が、そんな吉昌の心配をよそに、熾砢房は身軽な身のこなしで、風のように地に降り立った。
まるで天女でも降り立つようなその軽さに、二人は言葉を失う。
靄のように、狐丸の二本のしっぽが艶めかしく揺れ動く。
『僕は、澄真に出会ったのは、今日が初めてなんだ。……《妖狐》はね、人に恋すると、その人を食べたくなるらしいんだ。だけどさ……ふふ、おかしいよね? だって僕、澄真とは今初めて出会ったんだよ? ……顔色が悪くて血だらけで、おまけに意識のない人間を、どうやって好きになるって言うの……?』
微笑みながら、つんつん……と澄真の頬をつつく。
それから熾砢房は、淡々と続けた。
『僕は、妖狐じゃない。だって、一度妖狐に殺されたんだ。……僕が生贄になって死ねば、妖狐のこの呪いが解けるんだって、ソイツらは言ってた。……だけど、呪いは解けなかった……』
熾砢房の目に、《悲しみ》の色はなかった、逆に怒りの炎が揺らめく。
「な、何を言って……」
吉昌には、熾砢房の言っている意味が分からない。
しかし、尋常ではないその殺気に、思わず足がすくむ。
『僕はね、誰かがこの命で救われるならって思って、差し出したんだ! それなのに、それなのに……っ』
ギリっと歯ぎしりする。
金の目が細く尖る。
背後にいくつかの狐火が、瞬いた。
青白いその炎は、白銀の妖狐を更に浮かび上がらせ、不気味に揺らめいた。