吉昌の屋敷
通された部屋は、意外に趣深い部屋だった。
上げられた御簾の向こうには、内庭である小さな庭園が顔を覗かせる。
苔むした石の手水鉢には、若竹で作られた鹿威しが取りつけられており、時折忘れた頃になって小気味よい音を響かせた。
「こちらでお待ちください」
そう勧められて狐丸は小さく頷き、お行儀よくちょこんと座る。
掃除の行き届いたその板間は、よく磨きあげられていて、居心地がいい。けれど澄真を心配する狐丸は、どことなく上の空だ。
侍従は狐丸が座ったのを確認すると、別の侍従へ何やら言付けをし、部屋の中ではなく濡れ縁へ座る。
「……」
ちらり……と侍従は姮娥を見て、モゾモゾと神経質そうに体を動かした。
……どうやら姮娥が、怖いらしい。
「……」
姮娥はそれを見て、ムッとする。
こう見えても、天下に名を馳せた姮娥なのである。亭主の薬を盗んだために、天帝から叱りを受け、今はガマの妖怪などにされてしまったが、元は天女。自分は美女だと、密かに鼻に掛けていた。
それがどうした事か、この対応。
自尊心が傷つけられた。
姮娥の今の立場は、狐丸のお付。
本当なら、傍にいたいところだが、主としての狐丸の傍に座ることは出来ない。
小さく溜め息をつくと、侍従と共に濡れ縁へと座った。
当然、侍従とは反対の方に座ったのだが、姮娥を恐れてなのか、その侍従の肩が微かに震えたのが分かった。それがまた、癪に触る。
(……ったく。失礼にも程がありますわ)
姮娥は唸る。
そもそも吉昌は、姮娥たち妖怪を快く招いているわけではないので、《失礼な態度》は当たり前なのだが、姮娥には解せない。
狐丸は力でもって、この屋敷に侵入したわけではない。きちんと礼を持って、玄関から断りを入れ訪問しているのである。確かに、そのことに対しての不服が姮娥にはあるが、事実は事実。それなりの態度で対応して欲しいものだ。
(そして、この従者のこの態度……)
思いながら流し目で、侍従を睨む。
「ひっ……」
視線を感じたのか、侍従はこちらも見ずに、顔を引きつらせる。
「……」
(いっそ、隣に座ってやろうかしら……?)
そんな意地悪なことを思ってしまう。
(けれどそれも、狐丸さまは喜ばないのでしょうね……)
狐丸が何を思って、このような形で吉昌の家に来たのかは分からない。
分からないが、今までの様子を見る限り、ほんの少しの問題も、起こしたくはないのだろう。そんな素振りを見せている。
(本当は、すぐにでも澄真さまの元へ、飛んで行きたいと思っているのでしょうに……)
姮娥は溜め息をついて、狐丸を見た。
狐丸は、ぼんやりとその庭を見ていた。
広い空間のその中央で一人佇んで座る狐丸には、強行突破しなかったわけがある。
(……だって、澄真は喜ばないだろう……?)
仮にも吉昌は、澄真の仲間なのだと狐丸は理解している。
(僕は……。僕は、仲間にはなれないから……)
自分は妖怪だということを狐丸は、十分理解している。
例え仮契約で澄真との縁が出来ていても、それはそれ、これはこれなのだ。妖怪としての自分は、澄真とは相容れぬ存在。本当の仲間になれるとは思っていない。
(だから、吉昌が澄真との縁を切るような行動を僕がとったらダメなんだ……)
そんな風に思っている。
自分では埋められない何かを、人であり仲間である吉昌には埋められる。その何かが何であるのか、狐丸自身にもよく分からないのだが、その何かを奪うようなことはしたくない。奪えばきっと、澄真は傷つくに違いないのだから……。
(でも、それはあくまで、澄真が無事であることが前提だけどね)
今狐丸は、澄真の気配に集中している。
気配とは、結構便利なものだ。
たとえ遠く離れていたとしても、この気配を探りさえすれば、ある程度の状態は把握出来る。同じ屋敷内にいる澄真の気配は、安定していた。
体には異常はない。死にゆく者であれば、こんなに穏やかな気配を出すことは出来ない。陰陽寮で吉昌自身が、他の陰陽師に言っていた通り、ただ眠っているだけのように感じられた。
(でも、見えていないから、それも正確かどうかは分からない……)
そうも思う。
(もしかしたら、手の他にも怪我をしているかも知れない。……もしかして、あの吉昌とか言うやつ。澄真が寝てるのをいい事に……)
妙な考えが頭をよぎり、人の姿をしているのにも関わらず、狐丸の全身の毛が、ぞわりと逆立った。
「「ひっ……」」
「……」
濡れ縁の方から、侍従と姮娥の悲鳴があがる。狐丸の気配を察知しての事だろう。
その事に気づいて、狐丸は顔を伏せた。
(……。落ち着け……落ち着け……。そんな事ない。そんな事ない……)
呪文のように心の中で繰り返し、狐丸はギュッと目をつぶる。
──ふわり……。
優しい風が吹いた。
風は狐丸の思いなど、少しも知らぬと言った様子で、いつものように流れていく。
けれどそれとは逆に、狐丸の鼓動は激しい……。
どうにも収めることが出来ないでいる。
「……っ、澄真ぇ……」
狐丸は苦しげに呟く。
──早く。……早く、逢いたい。
(早く来い。早く来い!)
ここで待つように言われたのは、つい先程のことなのに、もう随分時が過ぎたように感じた。
(早く、……早くして……。もう、我慢の……限界……)
狐丸は必死に、自分を掻き抱く。
……大丈夫、まだ澄真は大丈夫だから……と、そう、自分に言い聞かせながら……。
──カ、コン……。
鹿威しがなった。
その音と共に、吉昌は現れ、狐丸はホッして……しかしそれでも、自分を抑えるために、深く頭を下げた。