炎の妖怪紋
『! ……なにを考えて……』
燃え盛る屋敷の屋根に飛び降りた狐丸を見て、ミサキは怯んだ。
今にも崩れていきそうな場所へ、自ら足場とし降り立つ理由が、ミサキには分からない。《気でも触れたのか……!?》と言わんばかりに、狐丸を凝視した。
狐丸はそんなミサキの気配を感じて、薄く笑う。
ゆっくりと振り返り、ミサキを見た。
『……なっ、』
ミサキは唸る。
こちらを振り向く狐丸のその頬には、《妖怪紋》が赤く血のように浮かび上がる。
自分の弱点である紋様をその顔に浮かべ、狐丸はミサキを見ると、改めて嬉しそうに微笑んだ。
『バ……バカにして……っ!』
ミサキはブルブルと震える。
──《妖怪紋》。
自分より格下の妖怪と対峙する時、その印を露わにする。
自分はお前より強い。だから弱点を教えてやる……そう言った意味になる。
普通は自分より格下の妖怪相手だとしても、この紋を見せることはない。
弱点をさらけ出すのは、それなりのリスクを負うことになり、いくら相手が格下だとしても、割に合わなくなるのだ。
けれど狐丸は、ミサキに見せた。
《このミサキが、妖狐如きに格下と……?》
ミサキはギリッと歯噛みする。
ミサキは、妖怪の中でも古参の妖怪。
普通に考えれば、ミサキよりも格上の妖怪など、そもそも存在するわけがない。本来ならば、妖狐である狐丸の方が、ミサキよりも格下となるはずなのだ。それなのに、この態度……!
確かに、《主》とした吉昌は、狐丸の主候補である澄真よりも、その妖力量においては劣る。しかし、その事でミサキが狐丸よりも格下であるとは限らない。
むしろミサキが、誰かを主と定めたことが、奇異なのだ。
ミサキは怒りで、おかしくなりそうだった。
《ミサキが視えぬからと言って、調子にのるとは……!》
力をためると、ミサキは疾風の刃を狐丸に向けた!
シュン──!
シュン、シュン──!
『!』
「狐丸っ!」
目にも止まらぬ速さで、風の刃が飛んで来る!
澄真は咄嗟に護符を取り出したが、間に合わない! ザクザク……ッと音を立てて、狐丸の身が切れる。
『うぐ……っ、』
狐丸は唸る。
「狐丸、傷が……!」
慌てふためく澄真を見て、ミサキはつまらなそうに目を細めた。
狐丸は、妖怪紋を見せるほどの実力の持ち主だと思っていた。だから怒りはしたものの、それなりの警戒をしていたミサキだ。
けれど、簡単に自分の攻撃が通ってしまい、ミサキは肩透かしを食らう。
『……見掛け倒しとは、このこと。お前は、ミサキの敵ではない……』
ミサキはふわりと衣をなびかせて、宙を舞う。
《……妖怪紋を出すほど、自分の力に自信を持っているのだと思ったけれど、疾風の刃すら躱せぬなど、……》
ミサキは溜め息をつく。
少しは骨があるのだと思っていた。
けれどあの妖狐は、ただの威嚇の為に妖怪紋を見せたのだと思うと、それだけで嫌気がさす。
『こんな愚か者の相手をせよと、吉昌さまは仰るのですね……』
ミサキは溜め息混じりに呟いた。
妖怪紋を見せたことで、狐丸はミサキを自分の下だと見下し、バカにした。けれど、事はそれだけではない。ミサキは、陰陽頭である吉昌の式鬼なのである。対する狐丸は、その部下澄真の仮の式鬼。
全体を見渡せば、狐丸はミサキの主である吉昌までも愚弄したことに他ならない。
『口惜しい……』
ミサキは唸る。
自分だけならまだしも、大切な吉昌を貶める事は許されない。たかが《妖怪紋》ではある。けれど《愚か者》の一言で済ませられるほど、ミサキの心は広くなかった。
ミサキはギリッと二人を睨む。
「狐丸……だから、油断するなと言っただろ? 私に、その傷を見せろ……!」
ミサキの睨みに気づかない澄真はそう言って護符を出した。傷を治すこと不可能だが、血を止めることなら護符でも出来る。
真っ白な狐丸から流れ出る血液は、目が冴えるほど真っ赤で、澄真は血の気が引いた。
(こんな事になるんだったら、意地でも帰すんだった……)
溢れ出る血液を護符で抑え、澄真は止血の呪を施した。
ブルブル震えながら止血をする澄真を見て、今度は狐丸が焦る。
『す、澄真、震えてるの? そんなことしなくったって、僕は大丈夫なんだって、ほら、コレくらいなら舐めると治るんだよ……?』
言って狐丸は、自分の傷をペロリと舐める。すると傷は、たちどころになくなった。
澄真は青い顔でホッと溜め息をつくと、疲れたように狐丸にもたれ掛かる。
そしてそれを宥めるように、狐丸は澄真の背を、その鼻面で擦った。
『え……?』
驚いたのはミサキだ。
確かに獣の妖怪は、傷を舐めて治す。
けれどそれは血止めにしかならない。ひどい怪我であれば、血止めにすら不可能だ。
今、ミサキが狐丸に与えた傷は、けして軽くはない。舐めて治すのには、限界があるはずだった。
けれど狐丸のひと舐めは違う。
あれほどあった裂傷は、《血止め》どころかことごとく消えてなくなったのである。深い傷もあったと言うのに……!
『な……っ!』
ミサキは目を見張った。
病や怪我を治すことで有名な《月のウサギ》ですら、薬を用いるより他ない。それなのに目の前にいる妖狐は、いとも簡単に旋風による裂傷を治して見せた。それは《脅威》と言うよりほかない。
ミサキはワナワナと震える。
『ほら……ね? 綺麗に治ったでしょ? だから、心配しなくっていいんだよ?』
狐丸は澄真に笑ってみせる。
けれど澄真はムッとして、狐丸を睨んだ。安心した途端、怒りが込み上げてくる。
「《ほら、ね?》ではない。今からでも遅くない! 狐丸、お前は私の屋敷に戻れ。戻って絢子に伝えろ。屋敷の結界を強化……」
『嫌だよ!』
狐丸は澄真の言葉を遮る。
『嫌だ。一人で帰るなんて絶対にイヤ。僕は澄真と一緒に帰る!』
「……そんなワガママを」
『ワガママなんかじゃない!』
狐丸は唸る。
『だってもう遅い。ほら見て、澄真! 僕、吉昌の式鬼相手にこの《妖怪紋》を見せた。もう逃げられない! あの式鬼は僕に腹を立てているはずだから!』
「妖怪紋……?」
なんの事だ? と澄真は思ってハッとする。
以前狐丸は、澄真に妖怪紋を見せたことがあった。
その時澄真は、純粋に《綺麗だ》と思ったのだが、後で教えて貰った話では、相手をバカにする行為だと言っていた。
澄真は青くなる。
「き、狐丸……まさか、吉昌さまの式鬼に、喧嘩を売ったのか……?」
ワナワナと体が震えた。
吉昌の式鬼は、弱い式鬼ではない。むしろ吉昌ですら祓えなかった妖怪なのだ。そんな妖怪に、喧嘩を売るなど、もってのほかだ。
けれど狐丸は、無邪気に頷く。
『うん。そうだよ』
「……! 《そうだよ》って、お前……っ、」
呆れてものが言えない。澄真は軽い目眩を起こす。
「いや、そんなことより……」
言って澄真は、狐丸の頬に現れた朱色の妖怪紋を見た。
そして、そっとその頬に触れながら呟いた。
「狐丸……、お前の弱点って……」
妖怪紋が何なのか、分からなかった澄真ですら、見るだけで分かる。
その《紋》が何を指しているのか……。
『うん? 僕の弱点? ……ほら、見たらわかるだろ?』
そう言って、澄真が見やすいように顔を傾ける。
──僕の弱点は『炎』だよ?
「……っ、おま……」
にっこり笑って言う狐丸に、澄真は言葉を失った。
弱点をさらけ出すなとか、人に喧嘩を売るな……とか、そんな問題ではない。今まさに、狐丸はその弱点である炎の中にいる。
いや、そもそも、その弱点の上に降り立ったのは、紛れもなく狐丸本人だ。
「……っ、」
澄真は、何を言えばいいのか分からなり、頭を抱えた。
何もかもが、注意をしなければならない事ばかりで、かえって伝えなければならない言葉が、分からなくなった。
『澄真。僕は負けないよ』
「……」
狐丸に怯えの色はない。
むしろ弱点の渦中にいるというのに、余裕さえある。
「……狐丸」
澄真の顔色は悪い。
(狐丸は幼い。まだなにも分からない。……私が護らなくてはならないのに……)
そう思えば思うほど、深みにハマっていく。
どうすればこの状況から逃れられるのか、澄真には分からなかった。もう、なるようにしかならない。
『大丈夫だから、安心して……?』
可愛らしく首を傾げる狐丸の姿に、澄真は腹を括るしかなかった。
「分かった。……まかせる」
そう、小さく呟くので、精一杯だった。