決戦
ギン──!
──ぐ、あ……あぁ……。
結界を押し開き、動こうとしていた餓者髑髏が唸る。
見えない何かの罠に捕まったかのように、餓者髑髏は苦しげに頭を振った。
人間たちの放った結界は、脆く崩去ろうとしていたはずなのに、何故、動けない……? そんな言葉が聞こえそうだった。
そして、驚いているのは、餓者髑髏だけではない。その場に居合わせた者たち……特に澄真は、目を見張った。
「!?」
どう攻撃を仕掛けようかと、考えあぐねていた澄真は、思わず息を呑む。
(何が起こった……!?)
どういう状況なのか、澄真には計り兼ねた。が、これは明らかに好機だ。
方位結界に縛られていた餓者髑髏が、世に放たれようとし、そしてそれが今一度、囚われの身となった。
「っ、今だ……!」
澄真は唸る。
この好機を逃す澄真ではない。
バッと懐から護符を取り出すと、素早く術を練り上げた!
「急急如律令! 火神、軻遇突智!! 悪鬼を祓え!」
ビクッと狐丸の肩が跳ねた。
(え……? 軻遇突智?)
狐丸は思わず、澄真を見る。
それもそのはず。餓者髑髏は怨霊の塊。その餓者髑髏を葬るには、いったん浄化する必要があった。浄化には、炎が手っ取り早い。
確かに、炎の神として軻遇突智を呼ぶのは間違いないが、浄化……という点で、軻遇突智は相応しくない。
親殺しの汚名を着た軻遇突智は、浄化ではなく、破壊を目的とする。普通ここでは、迦楼羅神や不動明王を呼ぶのが相応しい。
(それを知らない澄真じゃないのに……)
狐丸は疑問に思って、澄真を見る。
すると、術を行使した途端、澄真の体からなにかが抜け出ていき、命の光が弱くなった。狐丸は目を見張る。
ひゅっと息を奪われた。
「っ、澄真……!?」
慌てて背後の狐丸が、その体を支える。
中身を失ったかの如く、澄真の体は意外に軽かった。狐丸は青くなる。
必死に澄真の様子を窺った。
どうにか意識を保ち、澄真は狐丸にしがみつく。
「あ……すまない。術を……間違えた。少し……立ちくらみが……」
ひどい脱力感に襲われ、澄真は思わず溜め息をもらす。
《少しの立ちくらみ》……と狐丸には言ったが、すぐに立つことが出来ない。力を込めるかのように、グッと目をつぶった。
「術を……間違えたの……?」
狐丸は不安げに尋ねる。
不安ではあるが、澄真の声はしっかりしている。少しホッとした途端、泣きそうになる。
狐丸は顔をしかめ、涙が流れ出ないように頑張った。
確かに、澄真の呼び出したモノが違う。狐丸にも分かったくらいだから、澄真本人も気づいて当然だった。
けれど澄真らしからぬその言葉に、狐丸は再び不安になる。
「……っ、」
悲しげに顔を歪める狐丸に気づいて、澄真は薄く笑った。
「……私でも、間違う事もある。そんな顔をするな……」
そう言って、狐丸の頬を撫でた。
けれど本当は、手を動かすのですら辛い。
澄真は、思わず溜め息を漏らす。
(……なにが、おこった……?)
思わず頭を抱えた。
今まで、こんな事は起きなかった。
狐丸を安心させるために、《間違えた》とは言ったが、術の言い間違えは、陰陽師にとっては命取り。絶対に間違えないように、厳しい訓練を乗り越えて、初めて現場に駆り出される。
優秀だと言われる澄真が、そんな術を間違えるはずはない。
(《間違え》……? いや、あれは……)
間違える……と言ってもその自覚が、実のところ澄真にはない。
浄化の為の召喚ではあるものの、不動明王でも迦楼羅でもなく、軻遇突智が相応しいと、あの時はそう思った。思ったから、術を繰り出した。
「……」
けれど、冷静に考えてみれば、この場で軻遇突智は、おかしい。
(……私は、なにをしているんだ……?)
そう思いつつ、頭を振る。
間違いに気づいたのなら、すぐにでも術を練り直さなければならない。今の状況は、一刻の猶予もならない状況だ。
あの餓者髑髏が屋敷の外へ出て暴れでもしたら、それこそ目も当てられない……。
そう、分かってはいても……澄真は、立ち上がることが出来なかった。
(……っ、くそっ!)
澄真は歯噛みする。
今まで、どんなに大きな術を繰り出しても、疲労感など感じたことがない。けれどこれは……。
「!」
いきなり、激しい気の流れを感じた。
澄真の肩が揺れる。
状況の変化を感じ、咄嗟に澄真は、頭を上げた。
かすむその目に、餓者髑髏が吠えるのが見えた。
餓者髑髏を襲う炎の中に、嬉々とした軻遇突智が見える。
「……っ、」
餓者髑髏よりも、禍々しいソレは、あきらかに澄真の命を吸い取り、予想以上に大きく膨れ上がっていた。
ごおぉぉおぉぉ……!
その炎は、渦を巻きながら餓者髑髏を襲う!
──ぐあぁぁあぁ……!
餓者髑髏は堪らず、悲鳴をあげた。
当然、餓者髑髏の腹の中にいる人間たちも、熱さのためか、苦しみだす。
「あ……!」
澄真は、その時初めて、餓者髑髏の腹の中にいる人間たちの存在をみとめる。
(な……っ、人が餓者髑髏の腹の中にいる……!?)
思わず、悲痛な声をあげた。
「人が! 人がいる……! 術を解除……」
澄真は、慌てて手に持っていた護符を引き破ろうとした。悠長に、術を練り直している暇などない……!
「! ダメだよ! 澄真!!」
護符を破って、術を解除しようとした澄真の手をいち早く掴み、狐丸がそれを止めた。
「……っ、」
思っていたよりも、狐丸の力が強い。
それもそのはず、見た目は単なる少年だが、狐丸は妖怪だ。人間の澄真の力では、本来立ち向かえるはずもない。
その上、必要以上の術を繰り出し、疲弊している今の澄真には、狐丸手を払い除ける術すら、失っていた。
「な……狐丸! 離せ……っ」
「ダメ、ダメだって……!!」
狐丸は必死になって、澄真を押さえつける。
「やめろ……! 狐丸。人が……人がいるんだ……!」
《術を解除》……。
狐丸にとって、その言葉には嫌な響きしかない。
澄真は以前、狐丸の目の前で術を解除した事がある。
すぐにそれとは分からなかったが、そのお陰で、澄真は吉昌の屋敷に連れ去られた。
(あの時は、簡単な術だった。だけど、それでも澄真は倒れたじゃないか……!)
狐丸は唸る。
実際澄真が倒れたのは、吉昌の仕業ではあったが、その隙を作ったのは、あの怪我だ。そんな状況を、今ここで作るわけにもいかない。
ましてや、餓者髑髏に向かって放った術。
ネズミに放ったあの時の術とは、規模も能力も全然違う。
術の解除自体は簡単だった。手にした護符を破りさえすればいい。
けれど──。
「術が……術が返ってくるだろ!?」
狐丸は叫ぶ。
「澄真は今、《火神》を呼んだ! 軻遇突智は、簡単な神さまなんかじゃない。他の火の神さまより獰猛で怖いんだ! 術を返されれば、澄真が死んでしまう……!」
そう悲痛な声を上げた。
狐丸は必死だ。
今度こそ澄真を失うのではないかと、真っ青になった。
「っ、狐丸。でも、アレの腹には……っ」
言って身をよじる。
澄真にも意地がある。
よく見れば、餓者髑髏の腹の中には、何人もの人がひしめき合っていた。
一人二人であったのなら、澄真もすぐに気づいたかもしれない。
けれど餓者髑髏は、既に多くの人間をその腹に収め、パッと見ただけでは、それが無機物な物なのか人なのか、判断がつかない。
特に今は夕暮れ時。星もチラホラと瞬き出している。
まだ少し、辺りは明るいとはいえ、昼間ほどではない。日は既に落ちきり、刻々と視界は悪くなり、数箇所に焚かれた篝火だけを頼りに、状況を判断するには些か無理があった。
けれど、この目で見たからには、黙っている訳にはいかない。見殺しになど出来なかった。
しかし狐丸は、手を離さない。
「ダメだから! それは僕が許さない……っ、ねぇ、澄真。お願いだから……っ」
懇願するような狐丸の声に、澄真の抗うその手が止まる。
「っ、狐丸、分かってくれ……」
諭すように澄真は狐丸を見た。
狐丸の言い分も分かる。けれど、人の命が掛かっているのだ。素直に、『はい、そうですか』と言う訳にはいかない。
力ある者が術を行使するのには、それなりの責任があると澄真は常々思っている。
自分の持っている異形の力は、人を助ける力にもなるが、当然傷つける力ともなり得る。
そんな異形の力を、使うと決めたその時から、澄真は決心していた。
《けしてこの力で、人を貶めるようなことはしない》……と。
だから、間違って使ってしまったと気づけば、その時点で解除する覚悟は、もう既に出来ている。
いや、そもそもの非は、確認を怠った自分にある。
それを認めるのも、また大切なことだと澄真は思う。
(冷静に状況を把握すれば、餓者髑髏の腹に人がいるなど、簡単に分かったことではないか……)
澄真は唇を噛む。
(私は、焦っていた……)
澄真は思う。
吉昌の屋敷の《地の護り》……。
その存在である千埜が、狐丸を《熾砢房》と呼んだ。
澄真はずっと不安だった。
いずれ、狐丸を失う事になるのではないかと、不安に思っていたことが、千埜の登場で、現実味を帯びてきたように感じた。
平気なフリをしたが、恐ろしくなかった……と言えば、嘘になる。
だからつい、気が急いて、状況を把握しようと試みたが、思考が定まらなかった。
(……だから、たから軻遇突智を召喚したのか? ……どちらにせよ、無謀な事には変わりない。それもこれも、私が至らないせいだ……)
だったら尚更、術を解除しなければならない。
自分勝手な思い込みと不安感で、他の者を巻き込むことなど、出来るはずもない……。
澄真は叫ぶ。
「狐丸……っ、離せ……!」
手を捻り、狐丸から逃れようとする。
「っ、澄真ぇっ……」
狐丸も負けてはいない。
確かに軻遇突智は、力のある神。
解除すれば、ただ事では済まされない。
(けれど、それでも──)
澄真の意思は変わらない。
「……」
自分はただ、逃げてるだけなのかも知れない。澄真はそう思う。
狐丸を失う事が、ひどく怖い。
その恐怖を味わうくらいなら、いっそ──。
「ダメだから……っ!」
狐丸が、一際大きく叫んだ。
「!」
澄真はハッとする。
思わず、狐丸を凝視した。
「ダメ。……ダメだから……だから、お願い。お願いだから……っ!!」
目の端に涙を浮かべながら、狐丸は懇願する。
「……狐丸」
思わず澄真の手から力が抜けた。
泣かせようと、思ったわけではなかったから……。
「!」
それを見計らい、狐丸は素早く護符を奪い取る。
バッと身を翻し、澄真から遠のいた!
「……! 狐丸!!」
慌てて取り返そうとしたが、もう遅い。
ぽん……っ!
軽い音を立てて、狐丸は白狐の姿に変化した。
変化すると共に、着ていた着物が裂ける。
《……絢子に、怒られる》
一瞬そう思ったが、それでも澄真から護符を奪えた。絢子の怒りなんて、甘んじて受けよう……。狐丸はそう思う事にした。
そしてぱくり……と護符を口に放り込む。
「うわっ、狐丸……っ!!」
慌てた澄真の声が、離れたところで聞こえる。
それが狐丸には、少し可笑しくて、嬉しくなる。
《これで澄真は、ひとまず安心……》
心の中で、小さく微笑んだ。
『澄真、僕。……僕がどうにかするから。だから澄真は、そこでじっとしてて』
心做しか声が弾む。
言って狐丸は、飛んだ……!
「待て! 狐丸……!!」
けれど狐丸は聞かず、燃え盛る餓者髑髏目掛けて、飛び込んで行った。
唸りをあげる軻遇突智の炎。
その炎は、新たに加わった狐丸ごと飲み込み、大きな火柱となった。澄真は血の気を失う。
「っ、狐丸──!!!」
澄真の叫びは、その炎に呑まれ、小さく霞んでいった。