姮娥
時は少し遡り、ここは吉昌の屋敷の前。
狐丸と姮娥が、屋敷に踏み込む前の話。
二人は屋敷の前で、膠着状態だった。
「え……?」
姮娥は唸る。
──そのままは入る……。
狐丸はそれだけ言うと、スタスタと吉昌の屋敷の門へと進んだ。
姮娥は、焦りながら必死で、それを止める。
「お、お待ち下さい!」
袖を引っ張り、狐丸を自分の方へ向かせた。
狐丸はそんな姮娥を睨む。
「──なに?」
「!」
ゾクッとするような目だった。
いつもの優しく可愛らしい、くりくりとした目ではなく、冷たく尖った金色に光るその目は、まさに凶器。
グッサリと姮娥の胸を引き裂き、内臓を引きずり出す……そんな想像が容易に出来そうな、そんな冷たい目だった。
姮娥はゴクリと唾を飲む。
「あ、蒼人さまが、まだ来られていません……。せめてそれを……」
必死に止めた。
蒼人が訪問する際に、門の結界は弱まる。
その時を利用し、侵入しようと姮娥は決めていた。それなのに、これはどうしたものか……。
「そんなの、待ってられない……!」
狐丸は姮娥から目線を外し、吉昌の屋敷を見た。
「澄真……。僕の……僕の澄真が連れさらわれた……何で? 何でそんな事になったの?」
目が泳いでいる。
狐丸は、正気を保っている……と思っていた姮娥は、それが間違っていた事に、ようやく気づく。
本来狐丸は、澄真を自分のモノだと主張する事はなかった。
それが今、当たり前のように口に出している。
よほど混乱しているのに違いなかった。
姮娥は、ゴクリと唾を飲む。
(このまま、侵入して、いいのかしら……?)
けれど、姮娥が悩んでいるうちに、狐丸はスタスタと門番の所へ歩いて行ってしまう。
「あ、あぁ……狐丸さまっ! お待ち下さいっ!!」
しかしもう、遅い。
狐丸は、門番に口を開く。
「いきなり訪問してしまい、申し訳ありません。……こちらに、我が主が運び込まれたとの知らせを聞き、急ぎ参った次第にございます。……私の主……澄真は、ここにおりますでしょうか?」
可愛らしくそう言って、小首を傾げた。
「あ……あぁ。少しお待ち下さい……」
言って、門番はもう一人の門番と顔を見合わせ、頷く。何やら前もって、段取りされていた様な対応だった。
姮娥は青くなる。
門番の一人が中に入って行った。仲間を連れて、出てくるかも知れない……!
「き、狐丸さま! 勝手なことをされては困ります」
悲鳴のような声を上げる!
姮娥は青くなって、狐丸の袖を引いた。
(早く、ここから立ち去らなければ……!)
けれど、狐丸は微動だにしない。
はあ。と小さく溜め息をついて、口を開いた。
「姮娥……」
狐丸は静かに目を伏せた。
「……僕はね。怒ってるんだよ? これでも……」
言って頭を上げる。
「ひ……」
姮娥には狐丸の表情は見えないが、顔を上げた丁度その場所に、もう一人の門番が立っていた。
門番は、小さく悲鳴を上げると、その場に尻もちをついた。
立とうとするが立てず、バタバタともがいている。
恐らく腰を抜かしたのだろう……。
姮娥はそれを見て、息を呑む。
そもそもここは、吉昌の屋敷。
吉昌は、代々続く陰陽師の家系の現当主である。その当主の屋敷ともなれば、当然門番であろうとも、見鬼の才がある者が選ばれているだろう。
普通の門番と違い、人に対しても妖怪に対しても、負けぬ! と言う意気込みの中、門番という職についているはずだ。
ついでに言うと、今回の狐丸の訪問は、その吉昌の罠だ。この門番も、それを心得て、ここにいるのに違いなかった。
しかしその門番が、狐丸を見ただけで怯えている。
「……狐丸さま」
狐丸は静かだが、それでも心の内では、憎悪の炎が渦巻いているのだろう。
けれど、それを必死に抑え、冷静な姿を保っている……。
そんな狐丸の行動を止めることは、姮娥は出来なかった。
(お止めするために、着いて来ましたのに……)
姮娥は思う。
けれど、これ以上狐丸を留めておくのも、酷な気がした。
「狐丸さま。……承知、致しました。……けれど、無理は……ご無理だけはなさいませんよう……」
言って頭を下げる。
すると狐丸は、ハッとして、姮娥を振り返る!
「い、いいの?」
「……。良いも何も、もう振り切ってしまいましたでしょうに……」
姮娥は呆れる。
「ふふ。そだね、……姮娥、ありがとう……!」
言って、腰を抜かした門番に、再び尋ねる。
「ねぇ、僕ね、この屋敷に入りたいの。澄真を無事に返してくれるなら、僕は何もしない。危害も加えない。だけど、澄真に何かあったら僕は許さない。この屋敷に今入れなくても、関係する人間全て見つけ出して必ず──」
──殺す……!
「ひっ」
門番は一声それだけ言うと、意識を簡単に手放した。
狐丸は冷たくそれを見て、静かに立ち上がる。
「ねぇ、姮娥。お話しただけなのに、門番のびちゃった……」
困ったように振り向いた。
無邪気な子どもの顔だった。
「……」
「ねぇ、姮娥? 門番、いないから……入って……入っても、いいかな?」
可愛らしく首を傾げる。
姮娥は溜め息をつく。おそらく、無意識なのだろう。
「ええ。当然でございます。狐丸さま……」
そう言うのがやっとだった。
狐丸は嬉しそうに微笑むと、門をくぐった。
澄真に逢えるのが、とても嬉しいのに違いない。跳ねるように駆けながら、門をくぐる。
下げ美豆良姿の狐丸は、そうやって微笑むと可愛らしく、どこかの貴族の子息のように、艶やかで気品があった。
(まぁ……外面は……ですけれど……)
内心姮娥も怯えながら、狐丸の後を追った。