結界
「んもおぉぉ……!」
姮娥が牛のように唸る。
「もう! まだですの? まだですの?? 早くしなければ、あの憎っくき吉昌が帰って来ますわ……!」
『まぁ! 待て、もう少し……もう少しだ……!』
『もう少し……って、鉄鼠? さっきからそればかり言ってますよ……?』
玉兎も呆れ声で鉄鼠を見る。
『ううむ。それがおかしいのだ……』
「おかしい……?」
姮娥の問に、鉄鼠は頷く。
『何者かが……我々とは別の何かがいる……』
「……敵。……ですの?」
鉄鼠は首を振る。
『分からぬ。敵なのか、味方なのか……。それはたくさんいてな、結界を噛みちぎっておるのだ……』
『結界を……? それならば、味方なのでは……? どの道、結界を解除できる妖怪など、我々意外には存在しないではありませんか。あれは特殊な力を使いますから。放っておいても、そのうち全て結界に掻き消されすよ。多少の役にはたつのでは……?』
玉兎が口を挟む。
『うむ……。しかし、そこまでして何故味方する? 我々は、《月の手毬》を取り返すだけなのだぞ? 味方などいるはずもない……』
「けれど結界を崩しているのでしょう? それならば、《敵》……吉昌ではありえませんわ! それよりもなんですの? 加勢があるのに、作業がはかどらないのは、鉄鼠が怠けているのではなくって!? ほらっ! 呑気に喋ってないで、早く! 早くしてくださいませっ!!」
姮娥に急かされ、鉄鼠は焦る。
『わ、分かった! 分かったから、しっぽを踏むのはやめよっ!』
「んまぁ! 鉄鼠のしっぽに神経が通っていたなど、初めて知りましたわっ! 少しでも痛いとお思いなら、ほらっ! はーやーくっっ!!!」
ダンダンッ! と鉄鼠のしっぽを踏みにじりながら、姮娥は唸った。
日はもう傾きかけている。
夜に始まると思われた藤の花の宴は、既に未の刻(十三時)から始まっている。体調が思わしくない帝への配慮のためか、長時間の宴は行われないとの情報を得て、三妖怪は焦った。
『普通、《宴》と言えば、夜からだろ? 何故昼間からなのだ……!』
『……例年ならば、朝からですよ。鉄鼠』
『なんと! 朝から!? 一日中宴を催すのか……!?』
「……貴族の遊びですもの。そのくらいは普通ですわよ……」
『それが何故、今回は昼間なのだ!』
「帝のお加減が悪いのですって。……もともとお体の弱い方のようですわ……」
『それで、昼からなのか……』
『時間も短縮され、数刻で終わるそうです……』
『なにぃぃぃいぃぃぃ〜っっっ!!』
慌てたのは鉄鼠だ。
そもそも結界なぞ、のんびりと齧っていれば消える……くらいに思っていたものだから、シリに火がついた。慌てて眷属たちを急かす。
チュウ──!
ネズミたちの掛け声が天に響く。
「こら!」
ばしっ!
『痛い』
姮娥に叩かれ、鉄鼠は唸る。
「隠密行動ですのに、なに意気投合してんの! 叫ぶ暇あったら、働く!」
『姮娥。こっちは煙玉の設置完了です。逃げる合図と共に点火出来ます!』
「薬玉は?」
『突入と共に、私の眷属たちが光のある場所に現れます。そこから薬玉を受け取ってください』
「了解。計画通り、私たちで月の手毬を奪還した後、玉兎と私で交互に毬を持って逃げますわよ! 目指すは《五条大橋》。そこまで来れば、私の眷属が結界を張っておりますから、そこの沼に飛び込んで下さいませ!」
『……ぬ、沼……?』
玉兎が嫌な顔をする。
その表情に、姮娥は溜め息をつく。
「……。もちろん、本物ではありませんわ。沼に見える通路です。そこから直接幻月童女さまの祠へ行けますの」
『あ。うん。分かりました……』
玉兎はこう見えても綺麗好きだ。沼に飛び込むと聞いて焦ったが、通路ならば仕方がない。多少汚れるかも知れないが、ここは我慢のしどころだ。ギュッと拳を握った。
『で? 鉄鼠。その《何か》の動向は探れますか? 今、何をしています? まだ残っている者がおりますか?』
玉兎は尋ねる。
結界を噛み切るのには、それなりの術式が必要だ。
その術式を知っているのは古参の妖怪のみ。鉄鼠は必要にかられ、独自に解除方法を編み出したが、決まった術式でなければ、結界の効力を弱めることは出来ても、完全に消すことは出来ない。
消そうと触れることによって、逆に消されるリスクの方が大きくなる。
『うん? ……あぁ、やつらはタヌキの姿をした眷属だ。儂の眷属と同じように、何かの物を媒体にして作られている……その上……』
言って、顔をしかめる。
別の何かを媒体にして、眷属を作り上げるのも、特殊な技だ。結界を消せる技術といい、眷属の操り方といい、相手はそれなりの大物に違いなかった。
だからこそ、そんな大物が近くにいることが不可解で、作業が滞っていたのである。
しきりと、相手の気配を窺っていたのだ。
『あやつら、まだ外の結界を喰い破っとる……』
その言葉に、姮娥が眉をしかめる。
「……まだ、生き残ってますの? ……そんなに数がいるのですか? タヌキ……なのですよね? そのような大きな生き物……さすがに吉昌の手下どもにバレそうなものですのに」
『いや……。そうではない』
鉄鼠の顔が曇る。
『数はそれほど多くはない。十匹ほどだ……』
ただ……と鉄鼠は続ける。
『結界で消された気配がない……』
『……結界に消されない……?』
玉兎が目を細める。
鉄鼠は、ゆっくり頷く。
『やつら……』
──結界を消している……!
『……』
「……」
三人は顔を見合わせる。
結界を解ける──。
その事実は、謎のタヌキの妖怪は、三人と同様、……またはそれ以上の古参の妖怪である……ということに他ならなかった。
冷たい風が吹いた。
三人はゴクリと唾を飲み込み、これは気を引き締めて掛からないと、とんでもない事になる……。
そう、思った。