牛車のゆくて
帰りの牛車に乗り込むと、澄真はすぐさま、狐丸の髪に挿してある藤の花をむしり取った。
「うわあああ! 何するの、……ちょ、澄真? 何してるの……!?」
狐丸はただただ、それに抗おうと、じたばたと手を動かしたが、先手を取った澄真には敵わない。むしり取られた藤の花を拾おうとしたが、それも阻まれ、手を掴まれる。
「なに? 離して……っ」
自分の手を掴む澄真の手を払おうとするが、逆に《じっとしていろ!》とばかりに、押さえつけられた。
「《なに》じゃないだろ? 確認してるんだ……!」
「確認って……」
狐丸は言いよどむ。
まじまじと自分の手を見て、何かを確認している澄真の行動が、狐丸には少し不可解だった。
──この花は大丈夫だよ。
そうは言われたものの、澄真は完全に納得したわけではない。
藤の花は、悪鬼を寄せ付けないモノの一つだ。
それは、ただの言い伝えなどではない。
護りの道具として悪鬼を退けるために、陰陽師が実際に使っている代物なのである。
たいていそれは、藤の花を乾燥させた粉末だったたり、精油だったりする。それらを香袋に入れたり、肌に塗りこんだりしてその身につけ、悪鬼が近づけないようにする。
加工の仕方は様々だが、その効力は生花に劣る。要は、生花の方が高い効力を発揮する。
大丈夫だと狐丸は言ったが、そんなはずはないのだ。
加工品ではなく、生花をそのまま身につけた妖怪の狐丸が、ただで済むとは澄真には思えなかった。
澄真は狐丸に促されて、自分が狐丸の髪に藤の花を挿しはしたが、ずっと心配で仕方なかった。
確かに見ため的には、何の被害も被ってはいないように見受けられた。
ニコニコと走り廻る狐丸を見ていると、妖怪が藤の花を苦手としているのは嘘なのではないかと思ってしまう。
けれど、そんなはずはない。自分の思い違いかと、一瞬思ったが、近くにいた吉昌も同じ反応をしていて、間違い出ないことは明白だった。
──妖怪にとって、藤の花は毒なのだ。
皇子たちと遊ぶ狐丸には近寄れなかったが、牛車の中に入れば二人きりだ! とばかりに思い立ち、ことに及んだ。
青くなりながら、薄暗い状況の中、必死に狐丸の手と、花を挿した頭皮を念入りに調べあげた。
「……」
「もう! 澄真っ! 満足した!?」
狐丸が怒って叫ぶ。
狐丸の手にも頭皮にも、何の不備もなかった。
澄真は確かに、狐丸にとって藤の花は、毒ではないのだということを自分のその目で確かめた。
……毒ではないのなら、狐丸に危害を及ぼすわけがない。
「……」
見届けたが、逆に不安になる。
(傷ひとつ……痣一つすらない……!)
サーと血の気が引く。
何の不備もなかった……と言うのは喜ばしいことなのかも知れないが、逆に狐丸が妖怪ではないという証明にもなる。
「……っ」
澄真は指を噛んだ。
底知れぬ、わけの分からない、嫌な予感が澄真を襲う。
「え……っと。あの……澄真?」
狐丸はそんな澄真の様子を見て、少し不安になる。
僕はまた何か、してはいけないことをしたのだろうか? 狐丸は青くなった。
今までも、これが正しい! と思って行動していた事が、とんでもない事だったり余計なことだったりしただけに、自分の行動にイマイチ自信がない。
狐丸は、そっと澄真の顔を覗く。けれど、澄真は考え事で頭がいっぱいなのだろう。狐丸の事が見えていないようにも見えた。
「……」
狐丸は少しムッとする。
こんなに一生懸命聞いているのに! と言わんばかりに眉を寄せながら、口を開く。
「そんなに信用出来なかったのなら、僕の髪に花を挿さなければ良かっただろ……! ……ほら、もぉ! せっかくの花が……。澄真なんか、嫌いだ……!」
半ば泣きべそをかきつつ、投げ捨てられた藤の花を拾う。
その状況を見て、澄真は微かに慌てふためいた。
今にも泣きそうな顔で、《嫌い》などと言われたことは、未だかつてない。どうすればいいか分からなくなった。
「……あ、あの状況で、挿さないわけにはいかないだろ……っ」
狐丸の言葉に、澄真は自分の顔が真っ赤に火照ったのが分かった。必死になって言い繕い、ふいっと横を向く。
澄真もまた、修子の解釈の通り、狐丸の和歌を自分に向けた恋心と受け取っていた。
(多分……狐丸は、そんなことなんか思ってない……)
そうは思ってはいても、自分に向けられた愛の証なのだと思うと、毒であると思われる藤の花であっても、返さずにはいられなかった。
狐丸は首を傾げる。
「澄真? ……なんで赤くなるの。……毒じゃなかったんだから、素直に喜べばいいのに……」
悪態をつきつつ狐丸は、澄真に投げ捨てられた藤の花をそっと撫でると、牛車の御簾の隙間から、紫色に煙る薄夜空を眺めた。
月はまだ出ていない。
けれど小さな星々が、静かに瞬き出していた。
(……父さま)
狐丸の脳裏にふと、そんな言葉が頭をよぎった。
(……《父さま》? 僕にそんなの、いたっけ……?)
狐丸は思ったが、《父さま》は間違いなく存在する。
何故だか急に、思い出した。
(ううん。確かに《父さま》はいる。思い出したのはきっと、父さまの好きだった藤の花を、あんなにたくさん見たからかも知れない)
うまく思い出せないけれど、父さまは確実にいる。モヤに掛かったような、あやふやな記憶の中の父さまは、藤の花が好きだった。
先程歌った柿本人麻呂の和歌も、実のところ、その父さまに教えてもらった。
歌と共に狐丸の父さまは、《この藤の美しさを、万人に見せたい……》といつも微笑んでいた。だから狐丸は、この和歌を……この和歌だけは、諳んじることが出来る。
(あれは……何処でだっけ……?)
御所にあった藤棚も素晴らしかったが、父さまと見た藤の花は、もっと凄かったように思う。
「……」
狐丸は思い出す。
御所にある藤棚も、見事なものだった。
《棚》は、木材で組み立てた藤棚ではなかった。自然に自生する藤がそうであるように、御所の藤の《棚》には、松の木が使われていた。
こちらもずいぶん年季の入った松の木で、流石にその松の木には、杖が立てられてはいたものの、辺り一面を覆い尽くすほどのその枝振りは、見事なものだった。
その大きな松の木に、藤の花は取り付くように垂れ下がっていた──。
おそらくは夫婦円満を祈願しての事だと思われる。
男性を模した松の木に、女性を模した藤の花が枝垂れかかる……。
見ようによっては、寄り添う仲のいい夫婦にも見えるが、場合によっては男性に執着する悪女にも見えて、恐れる者もいるのだとか……。
「ふふ」
狐丸は小さく笑う。
(その話を教えてくれたのも、多分《父さま》……)
懐かしく思いながら、狐丸はそっと目を閉じる。
冬の夜に、たった一人で生まれた狐丸に《父親》……など有り得ないのだが、確かに狐丸の記憶の奥底には、その《父さま》がいて、その存在は大きなものだったのだと、何かが狐丸に、そう教えてくれていた。
「父さま……」
狐丸は牛車の柱に頭をもたせながら、思わずポツリと呟いた。
「……!」
その言葉に、澄真が反応する。
ピクっと体を震わせ、衣音を立てながら、狐丸に近づいた。
サラ……という衣音に気づいて、狐丸はハッと身を起こす。
「澄真……?」
警戒を露わにして、狐丸が澄真の名を呼ぶ。
「それは……誰のことだ……?」
澄真は眉を寄せ、狐丸に詰め寄った。
「え……?」
「《父さま》とは誰のことだ? お前を生んだ者か? その者は妖怪なのか? それとも人……なのか……?」
澄真の目は真剣だ。頭を抱えられるようにして、首元に手を差し込んで来る澄真に、狐丸は身を強ばらせた……!
「わ、分からないよ……! 突然思い出したんだ」
言って澄真から、目をそらす。振り切るように、その手を弾いた。
「……僕は、確かに生まれた時、一人だったんだ……。誰も、誰も僕の傍にいなかった……。でも……」
狐丸は考える。
「でも確かにいる。……僕の父さまは確かに……」
言って空を見上げた。
「人……ではないよ? だって、僕……《僕たち》を創ったから……。でも、でも。よく、思い出せない……」
「狐丸……」
狐丸のその少し不安気な横顔を見て、澄真は口篭る。狐丸の目は彷徨っていた。狐丸本人も戸惑っているのが、痛いほどに分かった。
ガタン──!
「!」
車が揺れた。
澄真の表情が変わる。
狐丸が目を見張りつつ、澄真を振り返った……!
「澄真!」
「しっ……!」
澄真は狐丸の口を塞ぐ。
小声で、狐丸が澄真に言葉を掛ける。
「……澄真……? この車……澄真の家に向かってない……」
「分かってる……。多分、吉昌さまの仕業だ……」
少し考えて、狐丸は口を開く。
「僕……澄真を乗せて、空を駆けられ……」
そこまで言って、狐丸は口をつぐむ。
(……忘れてた。絢子との約束……)
空を駆けるには、白狐になる必要がある。
今着ている着物は本物で、鬼火ではないから、白狐に戻れば、着物は裂けてしまう。絢子とは、《衣装を乱さない》と約束していたのだった……。
「狐丸……?」
「う……っ。ううん。何でもない。どうしょう? 澄真。澄真が帰りたいって言うのなら僕……」
「いや、いい。……少し危険かも知れないが、私も吉昌さまが何を考えているのかが知りたい……」
狐丸……と言って、澄真は狐丸の顔を覗き込む。
「私に何かあっても、身の危険を感じたなら、すぐさま逃げろ」
「え……」
言われて狐丸の目が泳ぐ。《そんな事出来ない》……とその目は言っていた。
けれど澄真は、構わず続ける。
「私は《人》だ。吉昌さまが私に危害を加えるような事は出来ない。けれど妖怪のお前は違う」
言って狐丸の頬を撫でる。
「出来るだけ護るが、信用出来なくなったなら、すぐさま逃げろ」
「……」
狐丸は眉を寄せる。澄真の言っている言葉に、とてつもない嫌悪感を感じた。
けれどそれを口に出すことはしない。
狐丸もまた、吉昌が気になっていた。
「……」
澄真の手から抗うように顔を背け、言葉を綴る。
「僕は……僕は、自分が思ったように動く……!」
「……」
その言葉に、澄真は顔をしかめたが、そっと手を引いた。
夜は更けていく。
煙のような紫色の帳は降りきり、闇が辺りを染め出した。
墨のようなその闇は、静かに確実に、辺りを染め上げていった……。