醜鬼の眷属
暮れゆく柔らかな光の中で、醜鬼はぼんやりとあるものを眺めていた。
小さなネズミたちが、必死になってカリカリ……カリカリ……と結界を噛みちぎっている。
木の上からのんびりとそれを眺めていた醜鬼は、感心する。
(そうか。そんな方法があったつね……)
結界は、そもそも万全ではない。
対象とするものを、あらかた特定して展開する。
だから、対象となり得なかったモノに対しては、ほとんど効力を発揮しない。ネズミたちはそこをついて、事に当たっているのである。
(ネズミ……か。強いな)
醜鬼は唸る。
醜鬼は今、自分の作った手毬を見つけ、どうのようにして手に入れようかと、悩んでいたところだった。
何故悩んでいたかと言うと、その手毬がどういうわけか、封印されている。
とある陰陽師の屋敷の一角にある、小さな池。
……その池に、目指す手毬はあった。
手を伸ばせば、直ぐに取り出せそうな場所にも見えた。けれど違う。
厳重な《呪》が施され、不用意に触れれば危険な状況だった。
だから醜鬼は手をこまねいていた。
けれど諦めたわけじゃない。屋敷には不自然な気配がたくさんあって、その気配がこの結界を打破出来るような気はしていた。
(確かに、期待はしていたけど……)
醜鬼はネズミたちを見る。
ネズミたちは異様に小さい。人の小指の爪ほどの小ささだ。それが何匹も何匹もいる。
(うわぁ……気持ち悪っ)
醜鬼は目を細める。
おそらく百……いや千単位のその数は、木の上から見ると巨大なアリにも見えて、背筋に妙な悪寒を感じた。
(……けど、上手いなぁ……)
人の住む場所には、必ずネズミが存在する。
要は結界を張る時に、ネズミがかからない程度の目の荒い網を張る。……と言った方が、分かりやすいだろう。
大物の妖怪はすり抜けられないが、小物の妖怪や小動物は、難なく網目の間を縫って、逃げることが出来る。結界とは、そういう仕組みだ。
(妖怪なんか、本物なんか分からんネズミを、いちいち引っ掛けとったら、効力薄れるけんね……)
醜鬼はニヤリと笑う。
当然結界なので、妖力の大きさでも引っ掛かるのだが、《眷属》になると話は違う。眷属には二種類ある。
自分の姿に似通った、実際の生き物を眷属する場合と、媒体となるもの……自分の体毛や呼気、それから砂やチリなど細かい無生物を使った眷属も作り出すことが出来る。
前者であると、妖怪用の結界には引っ掛からないが後者は捕まりやすくなる。けれど無生物であるために、こちらが傷つくことはない。
だからこそリスクの少ない前者……自分の姿に似通った、実際の生き物を眷属にする者も妖怪の中には多い。
もちろん、鉄鼠もその一人だ。
市中を蠢くネズミの眷属は、結界の隙間を縫って潜り込めるので、偵察にはもってこいである。普段日常に存在するネズミだからこそ、その力を存分に発揮する。
結界の対象外となるのは、なにもネズミばかりではない。他の小動物も、例外となる。
(そう。猫とかネズミとか。犬とか……それから……)
タヌキもね……と醜鬼は呟いた。
ネズミほどではないが、タヌキも市中には多い。特に春先や秋には多く見られるから、眷属を増やしても不自然ではないだろう。タヌキは醜鬼の眷属だ。
いや、正確に言うと、醜鬼はタヌキではないけれど、タヌキのようなものを沢山作り出せる。
(……本物のタヌキじゃなかけん、結界には引っ掛かりやすくはあるとだけどね……)
けれど、この方法は面白い。
張られた結界を掻い潜り、こっそり齧って、結界を解く。
ネズミの齧りやすい歯はないが、タヌキにも出来ないわけじゃない。結界を解く特殊な力も必要だが、その点においても醜鬼は問題ない。
こう見えても、かなり昔から生きている。結界の解き方など、見ればすぐに分かる。
ただ問題は、その解除に時間がかかるということだ。時間がかかればかかるほど、結界に呑まれやすくもある。ことは敏捷に……かつ広範囲に攻めるのが得策だ。その点において、眷属を使う方法はかなり有効的であると言える。
それに万が一、結界に捕まったとしても、眷属を本物にしなければいいだけの話だ。要は鉄鼠の体毛と同じく、何か別のモノを……。
だったら……と醜鬼は辺りを見廻す。ちょうど近くにあった、イチョウの葉を適当に数枚引きちぎった。
「これをこうしてっと……」
ぐにぐにとそれらを丸め込み、パッと辺りに散らす。
すると──。
ポポポポン……!
軽い音を立てて、それらはタヌキに化けた。
タヌキはクルクルと宙を舞いながら、見事に着地する。
『お呼びですか? 心穏さま……!』
言ってひれ伏した。
心穏……と呼ばれた醜鬼はムッとする。
バリバリっと稲妻を右手に溜め込み、タヌキたちを威嚇した。
「うちは、心穏やない! 今は醜鬼っちゅうと! 心穏って呼ぶな……っ!」
『は、はひぃ! わ、分かったの!』
タヌキたちは、ぴょこん! と立ち上がると、まるいお腹をたぷんとさせつつ気をつけをする。
「……」
ちょっと頼りなさげの眷属に、醜鬼は眉を寄せたが、やる事は一つだ。別に構わないだろうと、命令を下した。
「ならば命ずる! この屋敷の結界を完全に取り払え!」
「は! 分かったの!」
タヌキたちの行動は、意外に俊敏だった。
あっという間に消えゆくと、屋敷の結界を崩しに掛かる。
淡く虹色に掛かっていた結界が、ゆらりと揺れた。
「へぇ……頑張ってんじゃん」
醜鬼は満足気に揺らめく結界を見る。
結界は、それほど強固なものではなかった。けれど、池の水に見立てた結界を施すほどの力を持つものが、屋敷の結界をおろそかにするはずがない。きっと罠だろうな……と、醜鬼は思う。
「まぁ、何ばするにも、まず退路ば確保してからじゃなかとね……」
呟きつつ、再び気にもたれ、横になった。
どちらにせよ、簡単にこの結界は、消えてくれそうにはなかった。