父さま
さわさわさわ……。
風が優しく吹いた。
あたたかさを含んだその風は、少し夜の気配を滲ませていて、背筋がゾクッとした。
さらさらさら……。
美しく垂れ下がる、薄紫色の藤の花が、風に揺られ、可愛らしい小さな鈴のように静かに鳴った。
僕を含め、もちろん澄真も……それから父上も母上も小さな義弟おとうとたちの乳母も、そして妖怪嫌いで有名な吉昌でさえも、その情景に見とれていた。
濃い紫と薄い紫。
それからほんのり赤色を含んだ藤の花の通路に、真っ白な狐丸がふわふわの白く長いしっぽをなびかせて、きゃっきゃと喜ぶ敦成を抱っこし、微笑んでいた。
金のその双眸が夕日に照らされて、妖怪……というより、どこからか迷い込んだ、天女に見えた。
「……」
僕はゴクリと唾を飲む。
まだ恋だの愛だの知らないけれど、澄真が狐丸に執着するわけが分かった気がした。
これは、妖狐の妖力のひとつなのだろうか?
それともこれは、狐丸が妖怪である為に、僕たちが魅了されているのだろうか?
けれど妖怪が、こんなにも神々しいってこと、あるんだろうか……?
先程狐丸は、幼い皇子を抱きかかえ、誘拐よろしく縁から飛び降りた。それなのに、誰一人として狐丸のその行動を咎める者はいない。
咎めないどころか、抱かれている敦成がまるで祝福でも受けているかのような、そんな状況にみんなは黙って、ただ二人を眺めていた。
ずっと見ていたい……。
そんな情景だった。
沈黙を破ったのは、澄真だ。狐丸に制止の言葉を掛けた。
正直僕は、それが少し残念だった。
……本当に、まだ……ずっと、見ていたかったんだ……。
「狐丸……! 何をしている。そこへは行ってはいけない……!」
「……」
その言葉に狐丸は、優しく微笑む。
「何言ってるの? 澄真。だから来る時に言ったでしょ? 僕は、《この花は大丈夫》だって……」
言って、ひと房の藤の花に手を伸ばす。
「!? ……やめろ……!」
澄真は唸りながら、縁へと駆けた。
けれど、澄真の制止の言葉も駆け寄りも、狐丸がひと房の藤の花を手折る妨げとはならなかった。
「ふふ。ほら、いい匂い……」
言って藤の花に、自分の鼻を寄せる。
「キツネの兄さまも藤の花が好きなの? 僕も! 僕も、藤の花、大好きだよ……!」
狐丸に抱かれた敦成が、きゃっきゃと笑う。
その笑みに狐丸は微笑み返し、でもね……と言った。
「藤の花に毒があるのは、本当なんだ。だから食べたりしちゃダメだよ?」
その言葉に、敦成は目を丸くする。
「え……? 僕、たくさん匂いを嗅いじゃった……。僕、死んじゃうの……?」
半泣きになる敦成に、狐丸はふふふと笑いかける。
「ふふふ。匂いを嗅いだぐらいじゃ死なないよ? ……花もね、食べれることは食べられるんだ。死にはしないだろうけど、お腹が痛くなっちゃう。特に種はダメだよ? お豆と間違えて食べるととんでもない事になるんだ」
僕は、食べた事あるから知ってるんだよ。……狐丸はそう言った。
──『食べた』。
「……」
その言葉に、心配して階きざはしまで近づいて来ていた澄真は、その足を止める。
信じられないって顔だった。
……藤の花が、妖怪には毒だって聞いたけれど、あれは間違いだったのだろうか……? 僕は軽く戸惑う。
だって父上が心配して、そう言っていた。
父上は帝だ。父上に間違った事を伝える者はいないし、父上自身もその高い立場から滅多なことは口にされない。確実だと分かった時のみ口を開くので、必然的に口数が少なくあられる。
だったら、狐丸が特別なのだろうか?
「……」
僕は吉昌を見る。
「……っ、」
吉昌はまるで、鳩が豆鉄砲を食らったかのように、目を見開いていた。
陰陽頭でもある吉昌がこれ程驚くのだから、おそらく狐丸は、規格外なのだろう。
……多分その配下である澄真も、きっと今は複雑な表情をしているはずだ。けれどその表情は、藤棚の花が邪魔をして、僕のところからは確認することは出来ない。
ただ、敦成を抱いた狐丸が、そんな澄真を見て、困ったように笑ったのは見えた。
狐丸は、ゆっくりと澄真へと足を向ける。
さらり……と、衣擦れの音がした。
狐丸は僕の前をすり抜け、澄真の傍へと迷いもなく進む。
今日はいつもと違って、衣に香を炊きしめてあるのだろう。
よそ行き用に少し背伸びした、大人っぽい色合いの着物に着飾っている狐丸からは、とてもよい香りがした。
けれどさすがは父上が認める澄晴の血族。香の調合は、香を習い始めた僕にも分かるほど、素晴らしい出来のものだった。多分、狐丸の性格に合わせられているのだと思う。不自然さはなくて、むしろ凄く狐丸らしいスッキリとした、優しい香りの香こうだった。
藤の花を握った狐丸が心配になったのか、はたまたその香のかおりに誘われたのか、僕はフラフラと狐丸を追うようについて行く。
狐丸は進ながら、口を開く。
狐丸は、全く僕のことなんか見えていないみたいだった。見えているのは、ただの一人だけ……。
「ごめんね。澄真……せっかくの護符が……」
「……」
「……。でも、信じて。本当に僕……大丈夫なの。この花は知っている花だから……」
言って、手折った藤の花を澄真へと掲げる。
「《多祜の浦の底さへ にほふ藤波を 挿頭して行かむ 見ぬ人のため》……ね? 澄真」
狐丸はそう言って、階の上の澄真に背伸びをして藤の花を渡そうとする。
澄真は澄真で、狐丸が和歌を詠むとは思ってもみなかったようで、目を丸くする。
けれど直ぐに目を細めて、笑いつつその花を受け取った。
「柿本人麻呂? 《多祜の浦の水底にまで美しく映えている藤の花を、髪に挿してゆきましょう、見に来られなかった人たちのために》? ……なぜ、狐丸がこの和歌を知っている? その藤の花を絢子にも見せたいのか? 言っておくが、私が髪に挿すよりもお前が髪に挿していた方が見ている者も喜ぶだろう……。藤の花は、本当に大丈夫なのか……?」
澄真は、階の下まで降りながら、狐丸に尋ねる。
狐丸は、自分の言い分をやっと聞き入れて貰えたと、その顔に満面の笑みを浮かべ、跳ねるように澄真の元へと走った。
澄真の前へ来ると、狐丸はふわりと微笑む。
「うん。僕、食べた事もあるんだよ? 吐いちゃったけど」
くすぐったそうに笑いながら、澄真を見上げる。
「ほら、澄真。僕の顔色ってどんな? 毒で苦しんでいるように見える?」
言って顔を差し出す。
「……。いいや」
狐丸の顔色は、かなり良かった。
陶磁器のように滑らかな白い肌は、ほんのりと赤味がさして、艶やかだ。どこをどう見ても、毒に侵された者には見えなかった。
けれど澄真は、少し困った顔で狐丸を見下ろした。
「ね? 大丈夫でしょ?」
笑って薄く開けるまぶたの奥に、魅了するような金の瞳が見えた。
「……」
澄真は小さく溜め息をつき、諦めたようにそっとその髪に、藤の花を挿し入れた。
その時僕は聞いてしまった。
澄真が微かに歌を詠んだのを……。
けれどそれは、たまたま僕が澄真の風下にいて、偶然聞こえたものなのだろうと思う。
あんなに近くにいた狐丸ですら聞こえた様子は見せなかったから。
澄真は、その形の良い唇を微かに動かし、歌を詠む。
《春日さす 藤の裏葉の うらとけて 君し思はば 我も思う》
「……」
僕は解釈に、少し戸惑う。
《春日差しの中の藤の花は、輝くばかりに神聖で、お前が大丈夫だと言うのなら、そうなのだと思おう》と言っているの……かな……?
和歌は……少し難解で、僕は苦手だ。
狐丸は薄く目を閉じ、花を受け入れると、静かに口を開く。
「……。僕、少しだけ思い出した……」
言ってその目を開ける。
「この花は、僕と……それから……」
──父さまの、好きな花……。
さわさわと風が吹いた。
優しく甘い藤の花の香りが、辺り一面に拡がった。
狐丸のその言葉に、澄真は明らかに動揺の色をその顔に浮かべ、宴の席に座る吉昌を仰ぎ見た。
ひどく嫌な予感がする。
その予感は、まだまだ先の事になるんだけれど、的中する事になる。
狐丸の本当の《敵》は、吉昌ではなかった。
正確に言うと、吉昌だけではなかった。
この藤見の宴から、数年経ったある新月の夜の日に、それは起る。
けれどそれは、まだまだずっと先のことで、この日宴に参加した者たちの中で、その事を予測していたのは、多分父上ひとりだけだったかも知れない。
あまりにも静かで、平和なこのひと時が、その事をみんなの記憶から、消し去っていた。
そして、時は淡々と流れる。
今思えばそれは優しくも残酷で、とても穏やかな時だった。
この京の都に住む全ての者が、
狐丸に仇なす、その日までは──。
澄真の詠んだ和歌は、源氏物語に、出てきます。
意味合いは全く違います。
いいんです。私の解釈で
事を進めているんですから……! (;A;)
次回、歌も解釈もいじくりまくって解説します。
和歌が分かる人が見れば違和感バリバリかも……?www
……多めに見てやってください。。。
ついでに言うと、後半の不吉な物言いは、
当初の計画通りに進めば、こうなるはずなわけで……。
行き当たりばったりで、予定通りに進まない私が
予定通りに事をおこせるのだろうか……?
という不安はあります……。
……が、ま、いっか(ノ≧ڡ≦)☆てへ。