作戦
姮娥は急いだ。
一旦、鉄鼠に会うために、狐丸を吉昌の屋敷の前に置いて来たが、素直に待っているという保証は何処にもない。
(もしかしたら、勝手に突入しているかも知れませんわ……)
そんな不安が、頭をよぎる。
澄真を連れ去る吉昌を見たあの時から、狐丸は明らかに、冷静さを欠いていた。
今にも飛び出していくのではと、何度も肝を冷やしながら、姮娥は狐丸の着物を引いた。
後をつける段になっても、気が休まらない。ギラギラとした殺気が、いつ行動を制限している自分に向かうのかと、ハラハラして、正直生きた心地がしなかった。
狐丸から本気で抗われたなら、姮娥など、ひとたまりもない。
その腕の一振で、簡単に致命傷を負わされるのではないだろうか……そんな風に姮娥は思った。
(……あの殺気で、よく襲わなかったこと……)
姮娥は思い返す。
いくら姮娥が袖を引いていたとしても、力の差など歴然。振りほどこうと思えば、いつでも出来た。
けれど、狐丸は動かなかった。
立ち上がる素振りも見せず、じっと木の枝に座り、冷静に吉昌を見ながら、気配を消すことに徹していた。……だから、見つからなかった。
(……確かにあの時、吉昌は、こちらを見ましたわ)
姮娥は、思う。
吉昌は馬に乗り、姮娥たちのいるイチョウの木を、見上げた。
見間違えなどではない。確かに見た。馬まで止めたのだから、木の上から睨む、姮娥たちの気配を感じ取ったのだろう。
(目が合った……と、思いましたのに……)
確かにあの時、目が合ったと姮娥は思った。
もうダメだ。見つかった……と。
だから姮娥は、攻撃に出ようと身構えた。
けれど吉昌は、その瞬間、何事もなかったかのように馬を走らせた。走りゆく吉昌を見送り、何が起こったのかと姮娥はしばらくの間、理解が出来なかった。
(吉昌には、私たちが視えなかった……?)
ふと、そう思った。
姮娥には、それが不思議でたまらない。
吉昌は、ただの陰陽師などではないからだ。
ぽっと出の、そこら辺にいるような、……急に物の怪が視え始めた、にわか仕込みのような陰陽師ではない。
代々続く陰陽師の家系に生まれ、それなりの訓練を受けた、生まれながらの陰陽師だ。
その証拠に、あの《ミサキ》を式鬼として、使役している。
古参の妖怪である姮娥にすら視えない妖怪……ミサキ。そのミサキを使役しているとなると、吉昌には、当然ミサキが視えているはずだ。
そんなミサキを視ることが出来る吉昌の目に、姮娥たちが視えない……というのは、どうにもおかしかったのだ。
(何故、視えなかったのかしら? わざと視えない振りをしていた可能性も、あるけれど……)
状況から考えると、どうやら吉昌は、姮娥たち月の手毬に関係する妖怪を、おびき寄せているのでは……と思われる。
現に吉昌は、姮娥たちの持っていた《月の手毬》をミサキに命じて奪っている。それは確認済みだから、間違いない。
もともと妖怪嫌いの吉昌のこと。芋づる式に、いっぺんに妖怪を始末したいと思っているはずだ。月の手毬を狙う妖怪を、みんなおびき寄せる腹積もりなのだろう。
しかし妖怪たちが、そのお宝を狙っているとしても、如何せん場所が悪い。
陰陽頭の屋敷など、妖怪がノコノコと現れるところではない。
(だから、吉昌は、考えたのかも知れません……)
屋敷に妖怪をおびき寄せる為には、張られている結界が邪魔をする。まずは屋敷を護っている結界をゆるめる必要があった。
しかし、その全てを取り除けば、妖怪は何事かと疑う。そうあからさまに消すことは出来ない。
けれど、結界がそれなりに作動し、視ることの出来ないミサキが出張っていては、屋敷の奥深くに潜らせる前に、妖怪たちは逃げていく。だから自分の式鬼であるミサキを遠ざけた。
それは前に鉄鼠が言っていた。
──気配が薄くなっている……。
と。
(どうあっても、忍び込ませたいはずですわ……)
姮娥はそう考える。だとすると、あの場で、自分たちを視つけ、交戦するのは得策ではない。
(……だから、視えない振りをした……?)
姮娥はグッと拳を握る。
(そっちがその気なら、受けてたちますわ……っ)
咄嗟のことで驚きはしたが、それはこちらにとっても、好都合である。
(罠と分かっているなら、用心のしようもありますもの……!)
作戦を立て、姮娥たちも吉昌の屋敷に忍び込む事にした。いや、こちらから出向く事にした。あくまで、自分たちが計画した事であって、おびき寄せられたわけではない。
そこが、一番重要だ。
(人間如きに、我らが操れるものか……!)
姮娥は、そこが我慢ならない。どうにか、一泡吹かせてやりたい! そう思った。
だから、吉昌が、澄真を餌としたとき、姮娥は、密かに喜んだ。
(これは、使えますわ……!)
おそらく、狐丸が姮娥たちと接点があると、吉昌は気がついたのだろう。
(けれど、それを、利用する……)
姮娥は、薄く笑う。
正直、利用するには手に余る狐丸ではあるが、仕方がない。
(ここは、狐丸さまに従いつつ、情報収集といきますわ……)
力の強い狐丸の陰に隠れて、吉昌の屋敷に潜り込み、月の手毬の在処を抑える……! それが姮娥の作戦だった。
保管場所さえ分かれば、後は簡単だ。
(一気に乗り込み、手毬を奪い返す……!)
それには、鉄鼠の、この毛が必要だった。
「……」
しかし、必要であると言っても、あの鉄鼠の毛。
鉄鼠から毟ったその毛は大量で、ずっと握っていると、気持ち悪くなってきた。
仕方がないので、ぺぺぺっと袖の中に詰め込んだ。
袖の中でチビ鉄鼠がウロウロしている想像をしてしまい、姮娥は余計に気持ち悪くなる。
「うえぇぇぇ……。早く仕事を済ませませんと……!」
姮娥は先を急ぐ。
吉昌の屋敷は、もう、目と鼻の先。
(その角を曲がればすぐ……)
「!」
目を見開く。
「……あ、姮娥。待ってたよ……おかえり」
狐丸は待っていた。
屋敷の前にある別の建物の陰に隠れて、様子をうかがっていた。
「た、ただいま……です、わ……」
姮娥は目を見開く。
本当のところ、待ってはいないのでは……と、内心諦めていた。
(……あんなにも、怒ってらしたのに)
姮娥は驚きを隠せず、狐丸をマジマジと見た。
「……? なに?」
狐丸は眉を寄せ、姮娥のあからさまなその態度に、不機嫌そうな目を向ける。
「い、いいえ。何でもございません……」
言って姮娥は、これからの事を狐丸に伝える。
狐丸は静かに頷く。
それが、あまりにも落ち着きを払っていて、姮娥は逆に、恐ろしくなる。
(どうしてこう、落ち着いて……)
「!」
そう思って、覗き込んだ狐丸の目を見て、姮娥は、思わず、悲鳴を上げた。
狐丸は、冷静などではなかった。
金色のその目は細く尖り、見るもの全てを凍りつかせた……!
──ぞくっ……。
ゴクリと唾を飲み込むその音が、ひどく頭の中に響いた。
(もう……止められませんわ……)
利用するつもりでいた狐丸に飲み込まれそうになり、姮娥は目眩を覚えた。
けれどもう、後には引けない。
(ただ、屋敷の中が分かるだけでいいですのに……)
姮娥は、紅く長い自分の爪を噛む。
これではもう、何が起こるか分からない。
後は、運を天に任せるしかなかった……。
──何事も、起こりませんように……。
姮娥は、小さく祈った。