藤の花
「うわぁ。この人、キツネさんなの……?」
僕の義理の弟である敦成と敦良は、本当によく似ている。
丸っこい大きい黒い瞳をくりくりさせながら、二人は狐丸を見た。
二人はまるで双子のようだけど、背丈が違う。
敦成は敦良より一年早く生まれた分、体も大きく、すばしっこい。その上、悪戯するのも敦良の比じゃないときている。僕は何度手を焼かされたことか……。
二人が揃って現れたら、《猿が出たと思え!》とみんなが言う。
宮中の噂好きの女房だけでなく、実の父親でもある帝すら、そう言ってるくらいだ。けして……けっして、目を合わせてはならない!
「……」
僕は知っている。
礼儀を損なわないように、目の端で二人を追いつつも、みんな二人とは目を合わせないということを……。温和で世話好きなあの姉上ですら、逃げ腰になっているのが見えた。
……まぁ今日、初顔合わせの狐丸には、そのことをまだ教えていないけど。
でも護符で顔を隠しているから、何とかなるかも知れない。
………………多分。
「でも、お顔が良く見えないよ?」
「ねぇ、なんで《紙》を貼ってるの?」
「何か書いてある! なんて書いてあるの? 読んで、読んで!」
「ねぇねぇ、キツネの兄さま。藤の花を見に行こう? いつも下に降りて見に行っていたの。今日はもう行っちゃったの? もう行かないの?」
敦成は、しきりと狐丸の護符を覗き込みつつ、顔を見ようとするが、上手くいかない。
「ん? えっと、まだ行ってはいないよ。僕も行ってみたいんだけど、行ってもいいのかな……?」
狐丸は困惑する。
「大丈夫だよ! いつも行ってるもん。近くで見ると、すっごく綺麗なんだよ!」
矢継ぎ早に繰り出されるその言葉に、狐丸は目を廻した。
……あぁ、失敗した。
思えば二人は妖怪など、見たことがない。妖怪である狐丸がもの珍し過ぎて、既に目が合う合わないは関係なかったようだ。
僕は静かに、心の中で手を合わせる。
狐丸……ごめん。
けれど、どうだろな敦成……。狐丸は妖怪。妖怪に毒だという藤の花の近くに降りるのを、澄真が許してくれるだろうか……?
「……」
僕はそっと澄真の様子を見る。
二人の皇子たちが、いきなり押しかけたことに対して、乳母たちが澄真に謝罪をしているようだ。澄真は苦笑いで、その乳母たちと話をしていて、敦成が今言った言葉を、聞いていないみたいだった。
狐丸もその事に気づいて、少し動揺する。
勝手なことをするな、とでも言われているのかも知れない。
「え、ええっと、えっと。下に行けるか、後で聞いてみるね。……あと、この護符だけど僕も、何が書いてあるのか読めないんだ。ごめんね」
「えぇ〜! ねぇ、顔みたい顔!」
「抱っこ!抱っこがいい! 抱っこして!」
「え? ええっと、えっと。……どうしよう。……ねぇ、どうしたらいいの……?」
助けを求めて、狐丸は澄真を仰ぎ見た。
乳母たちとの話は直ぐに終わったのだろう。いつの間にか乳母たちは姿を消していて、代わりに澄真が目を細めつつ、狐丸と敦成、そして敦良のやり取りを、含み笑いしつつ、見ていた。
けれど、澄真が狐丸を助けることは、ないように思えた。
だって澄真も曲がりなりにも宮中の人間。二人への対応の仕方など、嫌という程に知っている上に、幼いと言えども二人は皇子。敦成などは、将来、帝になる事が約束されている。
「……」
そんな皇子たちを、止められるわけがない。
案の定澄真は、袖で口元を隠し、微かに震えている。……面白がっているようだ。
声を押し殺して、笑っているのが直ぐに分かった。
けれどけして二人とは、目を合わせない。……なんとも、抜かりない。
狐丸に助けを求められて、澄真は笑いを堪えながら、言葉を掛ける。
「お相手差し上げなさい。……もう少ししたら帰るから、それまでは一緒に遊ぶといい」
言って元いたところへと、戻って行った。……いや、逃げて行った。
……まぁ、そうなるよね。
宮中ここでは、油断して二人に捕まるのが悪い……と言うのが常識だ。捕まったのなら、捕まった者が最後まで、この二人のお守りをするのが、この宮中での暗黙の了解なのだから。
だから当然僕も、目を逸らす。
「え? ちょ、澄真!?」
狐丸は慌てて澄真を追おうとするが、それを敦良と敦成が阻む。
「ねぇねぇ、キツネの兄さま。僕たちと一緒に遊んで? 僕、しっぽに触ってみたいの」義弟たちがそうやって、キラキラと目を輝かせながら頼んで来れば、もう誰も嫌とは言えない。
悪ごろの二人だけれど、すごく可愛いんだ。黒い瞳はとても綺麗で、断ればすぐ泣いてしまうんじゃないかと思うほど、いつも潤んでいる。
目の端で狐丸が困った顔で、モジモジしながら頷くのが見えた。
……多分、本当は嫌なのに違いない。
「ちょ、ちょっとだけなら……」
焦った狐丸のその声に、遠くで何人かの大人たちが、苦笑しているのが見えた。
「うわぁーい! ……うわぁ、ふかふかだぁ……!」
言いながら敦成が、スリスリと狐丸のしっぽに頬ずりする。
撫でられると、くすぐったいのか、狐丸はブルブルと身を震わせた。
「……」
僕は少し狐丸を、哀れに思う。
コイツら多分、……遠慮なんてものないから《少し》なんて言葉は、きっと知らない。
バカだな狐丸。三歳の子どもに騙されるとか……。それでも妖怪なの?
もう逃げられないぞ……?
「あ、……うん。……良かった……」
狐丸は心にもないことを言っているのが、傍目でも……もちろん護符を付けたその顔でも、嫌という程によく分かる。……声が、涙声になってる……。
そんな狐丸を助けようと、たまりかねた僕の義母上が、にこやかに現れた。
二人の母親である義母上は困った顔で、ほほほと笑い、狐丸に言葉を掛ける。
「敦成も敦良も、少々やんちゃですの。……悪い事をしたら、遠慮なく叱ってやってくださいませ」
これは、社交辞令なんかじゃない。本当に心の底から言っている。
「え? えっと、……あの、そんな事はないです!」
にこやかに返す狐丸は、明らかに戸惑っていた。僕は苦笑する。
……大人になろうと、頑張っているのは分かる。分かるけれど、この状況は、大人の対応と言うより、むしろ親の対応ではないだろうか?
大人になるのを通り越して、一気に親になる必要はない。時には突っぱねることも大切だ。
特に、この二人に対してだけは……!
狐丸が戸惑うのも、仕方のないことなんだから。だって、この二人だもの。
身分がどうの……とかいう次元を遥かに超えてて、何をどう接したらいいのか分からないはずだ。
矢継ぎ早に繰り出される言葉に、質問されたからと答えると、二人はもうそこにはいない。見るもの全てが目新しいものばかりで、じっとしていられないのだ。
それに二人の声はよく似ていて、話している姿を見ていたとしても、一瞬どちらが言ったのか、分からない時がある。
そんな性格の似通った二人なだけに、相対する者は、たまに混乱するのだ。面識が余りなく、狐丸のように、初対面だと尚更だ。
僕は笑いながら、狐丸に声を掛けた。
可哀想だから、少しあしらい方を伝授する。
「慌てなくても大丈夫だよ。全部答えるんじゃなくて、適当にウンウンって言って、半分だけ聞いてればいいんだよ」
するとすぐに、姉上が会話に加わった。
「ま、敦康。そんないい加減な説明ではいけませんわ。狐丸が更に困ってますもの……」
「あ、あぁ。そうか。貝覆いの説明すら、いっぱいいっぱいなのだからね。二人の皇子たちの世話などにもなると、ひどく難しかったかな……」
言いつつ僕は、ぷっと笑う。
「あ! またバカにして! 僕だって《ウンウン》くらい出来るからね! ほら、ウンウン、ウンウン……」
狐丸は何を思ったのか、激しく頭を振って頷き始めた。
「ぶっ! ……い、いや、そうじゃなくて……っ」
もう堪らない! 本当に狐丸は、なにを考えているのか……っ。
「……」
プクッと見事に膨れた狐丸の頬を、護符越しに見ながら、僕は思う。……あぁ、狐丸は今日、帰ってしまうのか……と。そう、ぼんやりと思った。
今日別れてしまえば、もう二度と会うことなど、ないかも知れない。
僕にはそれが酷く苦しい……。
そう思いつつ、狐丸と敦成のやり取りを見ていると、不意に吉昌がやって来た。
僕は少し身構える。
妖怪には手厳しい吉昌だ。油断は出来ない。僕が狐丸を守らなくっちゃ……っ!
「ふふ。皇子さま方、本当に大きくなられて……。そうそう敦成さま?」
吉昌は僕の警戒に、にやりと微笑むと、敦成に向かって手を振る。
「うん? なぁに?」
てとてと……と、敦成が、吉昌の元へと行く。
「あ。こら……!」
僕の注意をすり抜け、敦成は吉昌を見上げる。
吉昌は、敦成の背丈に自分を合わせるために、膝を折る。
「ふふ。良いことを教えてあげますよ……」
そしてそう言いながら、敦成の耳に、何やら耳打ちした。
僕はムッとする。
本来なら、軽々しく会話できるような身分ではない。けれど今回は色々なことが大目にみられている。当然、そこには自由に話す機会を許されはしているのだけれど、幼い敦成に耳打ちするとか……。僕は何故だか胸が騒いだ。
誰もが避けようとするこの二人に、あえて近づき耳打ちする吉昌のその様子に、ひどい違和感を覚えた。
何か……何か、企んでいる……?
僕は眉間にシワを寄せる。
「吉昌。敦成に何を吹き込んでいる?」
そう咎めると、吉昌はニヤリと目を細め、口を開く。
「いえ。敦成に少し助言をしたまでですよ?」
「助言?」
僕は眉を寄せる。
「ええ。藤の花を見に行きたいと仰せでしたので、もう一度狐丸をお誘いしてみては。……と」
言って吉昌は、にやりと笑った。
言われて僕は、ハッとする!
慌てて狐丸の方を見たが、遅かった。
敦成は狐丸を仰ぎ見て、嬉しそうに何やら話している。
狐丸は狐丸で、僕がさっき教えた《ウンウン》を実行していた。
「こらっ! 狐丸っ!!」
思わず叫ぶ! 目の端で、父上が驚いた顔をこちらへ向けたが、構うものか……っ!
……ったく! 狐丸め! あいつっ。あいつは、バカなのか? 言われたことをそのまま実行に移してどうする?
僕は青くなる。
確かにウンウンと言ってればいいと言ったが、状況に応じて普通は対応するだろ? 毒である藤に、自分から近づいてどうする気だ!?
さっき誘われた時は、確かに警戒していた狐丸だ。敦成に誘われても、《後で聞いてみる》と言って、一旦断っている。
それなのに今頷いているのは、一重に吉昌が許可を出したに違いなかった。
──狐丸と藤棚へ、いらせられませ……。
と。
怒鳴りつつ傍へと走ったが、狐丸は多分聞こえていない。
そっと敦成を抱えあげると、そのままひらり……と蝶のように飛んで、藤棚のある中庭へと降りてしまった。
僕以外にそのことに、いち早く気づいた者がいた。
「狐丸!?」
ハッとしたような澄真の声が響く。と同時に、吉昌がそれを押しとどめた。
「よ、吉昌さまっ! お離し下さいっ。狐丸が……!」
けれど吉昌は動じない。
「護符は万全なのだろう? ならば近づいたとしても、問題はなかろう?」
「し、しかし……!」
澄真の顔色が悪い。
「……っ」
僕は階下に置いてあった沓を履き、二人を追った。
あの様子だと、本当に妖怪にとって藤の花は毒なのだろう。
狐丸に出会ってから、妖怪や怨霊に関する事柄を僕なりに調べてみた。そこには必ず陰陽師の存在があり、妖怪にとっての天敵は陰陽師であるのだという事を知った。
それと同時に、僕は吉昌の噂も聞いた。
陰陽寮の不動明王……。
どんな妖怪も怨霊も、けして赦しはしない。片っ端から片付けていくその手腕によって、今の地位を築いた。陰陽頭。
「……油断したっ」
僕は藤棚をくぐり、二人を見た。
「あ……!」
ザザ───ッ!
「!」
強い風が吹いた。
地に落ちた藤の花びらを巻き上げるような、そんな強い風で、僕は息が止まる。
暮れゆく朱色の光の中、金の目が見えた。
何をどうやったのか、あの敦成のやつが、狐丸の護符を剥ぎ取り、嬉しそうに笑っていた。
護符はまるで雪のように細かくちぎれていき、その一つ一つが白い蝶となって飛び立った。
「狐丸……!」
蝶の存在に気づき、澄真が転げるようにこちらへ走ってくるのが見えた。
真っ白な狐丸のその姿は、薄紫色の藤の花に映えて、とても綺麗だった。