敦康親王
現れた狐丸を見て、僕は血の気が引いた。
父上がおっしゃっていたことは、間違いなかったのだと確信を持つ。
だって狐丸は顔に護符を貼っていたから。
話を聞くと、額ひたいに護符が貼ってあっても、前は見えるのだと言う。けれどコチラからは護符で表情は全く見えなくて、誰なのか分からない。
ただ見えないのは顔だけで、その絹糸の様に銀に輝く髪の毛と、おしりからユラユラと伸びた三本の狐のしっぽが見えている。その事が、目の前の人物が人ではなく妖怪だということと、あの時助けてくれた白狐なのだと言うことを、知らしめていた。
父上も母上も、妖怪にとって藤の花が毒なのだと言うことを知っているから、狐丸のその護符が不敬だと言う者は、誰一人としていなかった。理由を聞かなくても、見ればそれが《毒よけ》なのだということが分かったから……。
けれど僕は、少し残念だ。
僕を救ってくれたのは、美しい妖怪なのだと、本当は自慢したかったから。これでは自慢もへったくれもない。
まぁでも、そうは言っても、狐丸が僕の住む場所へと来てくれたことは、とても嬉しくて、心が弾む。
一通りの挨拶が済むと、僕は真っ先に狐丸の傍へと走った。
「狐丸? その護符……やっぱり藤の花は、妖怪には毒なのか?」
触れていいものか分からずに、僕はその護符に手をかざすだけにしておいた。もしも万が一、効力が消えてしまったら、元も子もないもの。
「ん? あ、敦康。久しぶり! ……うーん。この護符でしょ……僕は要らないって言ったんだけどね、澄真が取っちゃダメって言うの」
「そう……か。彼は陰陽師だから、言うことは聞いた方がいい。毒になると言うのなら、そうなのかも知れない」
「んー。僕も花のことは、そう詳しいわけでもないけどさ、あの花は大丈夫だと思うんだ……」
狐丸はそう言って、中庭に咲く藤の花を見た。
もうすぐ日が陰る。午後の藤の花は、朝早くに見るそれとは違って、どことなく不気味で、妖艶な雰囲気を醸し出す。
その様子に少しゾクッと寒気がして、僕は身震いする。僕は狐丸の方へと向き直った。少し嫌な予感がしたんだ。
陰陽師が危険だと判断して貼った護符。
邪魔だからと言って《大丈夫だよ》の言葉一つで、軽くとってはダメだと思った。何事も慎重に進めていかなくっちゃ。
僕はそう思って、狐丸に言葉を掛ける。
「大丈夫って君は思うかも知れないけど、でも本当にそれ、取っちゃダメだよ……?」
僕の言葉に、狐丸は目を丸くする。
そしてすぐにふふふと笑うと、口を開いた。
「うん。分かってる。僕ね、いつも澄真に迷惑を掛けているから、これからは気をつけようと思うんだ。僕ももう、大人になるの!」
「大人……? 」
鼻息荒く《大人になる!》と言う狐丸の表情は見えないけれど、その言い方が可愛くて、僕は思わずくすりと笑う。
「あ。バカにしてるだろ! 本当なんだぞ! 僕は大人になるんだ!」
ムキになって言う姿が本当に可愛い。僕はハイハイと頷く。
「分かってるさ。大人になりたいのは、私だってそうだからな。……そうだ、妖怪も《元服》するの……?」
僕の言葉に、狐丸は首を傾げる。
「《元服》……?」
「……」
どうやら《元服》を知らないようだ。
「そう。元服……《人》は大人になる時に元服するんだよ。まぁ、その時期は人によって違うけどね。……確かに妖怪にはないのかもなぁ。だって妖怪になったその時すでに、大人ってヤツもいるんだろ? あの時の妖怪みたいにさ」
僕は狐丸に助けられた時のことを思い出す。
あれは確か、宗源火と言ったかな? あの妖怪の姿は、正に大人の坊主だった。あとから聞いたら、生前寺の坊主だった宗源火は、賽銭や火にともす油を盗んでいた。その報いで、燃える妖怪となったらしい。
元々大人の人間だったモノが妖怪になれば、妖怪としては幼くとも、体は大人なのだから、元服なんてするわけがない。
「あぁ……アレか……」
狐丸は呟く。
「うん、確かにアレは大人だった。妖怪って、元々人間だったのが、ものすごく嫌なことがあって他人を呪ったり、生前の悪行の報いを受けたり、人間たちの恨む心が寄り集まって出来たり、あとは……そう! 人の想いが物に宿ったりして、できるものだから、妖怪が元服する……なんて、ないんじゃないかな? 聞いたこともないし……」
うーんと唸る。
狐丸も、僕と同じことを考えていたようだ。
……だけど、そうなると、気になることがある。僕は恐る恐る口を開く。
「じゃあ狐丸も、なにかを恨んだの……?」
狐丸は出会った時から、こんなだったから、恨みとか呪いとかには程遠い感じがした。だけど《妖怪》って、そのほとんどが何かを恨んで化けて出たものが多い。となると狐丸もそうなのかなって心配になった。
狐丸が妖怪になるほど恨むもの……、それって、どんな事なんだろう? 僕はとても気になった。
尋ねると、狐丸は目を丸くする。
「え? ……あ、そう……だよね? そういうことになるんだよね……? ……えっと、僕……僕はね……」
少し考えながら、狐丸は答える。
「僕は……多分違う。僕は、ある人が創ってくれたの……」
「《ある人》……?」
僕は尋ねる。
妖怪を創る人などいるのだろうか? それは陰陽師のことだろうか? 狐丸を創ったのはあの澄真なのだろうか?
僕は不思議に思って、再び聞いてみる。
「じゃあ、狐丸を創ったのは、澄真……なの?」
「……」
その言葉に、狐丸は更に驚いた様子で頭を振る。
「ち、違うよ! 澄真じゃない。……澄真よりもっと……」
言いかけて、狐丸は首を振る。
「……ダメだ。僕、思い出せないの。創ってもらったのは確かだけど、その人の事も、ちゃんと知っているはずなのに、何故か思い出せない」
狐丸はそう言って、少し悲しそうな顔をした。
僕はそんな顔をさせてしまったのが申し訳なくなって、慌てて首を振った。
「い、いいんだよ。私だって産んでくださった母上の顔を、もう上手くは思い出せないんだ」
言って笑う。
それもそうだ。母上がお亡くなりになったのは、私が二歳の頃。覚えていなくて当たり前だったけれど、不思議とこの藤の花を見た日のことを覚えている。
母上は藤の花が、たいそうお好きだった。
「敦康も覚えてはいないの……?」
狐丸は申し訳なさそうな声で、僕に尋ねる。
その顔が可笑しくて、僕はふふふと笑う。
「普通は覚えてはいないよ。……妖怪は羨ましい。産まれたての赤子であっても、その時のことを覚えている者もいるのだろう……?」
狐丸はふふふと笑う。
「ふふ。そこのところは僕、覚えてるよ? 辺り一面真っ白の雪で覆われててね……」
「まぁ、お二人とも……。楽しそうに、何をお話していらっしゃるの?」
不意に声が掛かった。姉上だ。
長い黒髪は艶やかで、藤の花に見立てた若紫色の着物の上にサラリと拡がっていた。優しいその微笑みは、今は亡き母上の顔と重なる。
(あぁ、そうか)
……と僕は思う。
二歳の頃の記憶なんてあるわけない。きっと幼心にも、母上と姉上がとてもよく似ていると思って、無意識に記憶をすり替えたのかもしれない。姉上も、藤の花が好きだから……。
僕は姉上を通して、ずっと母上を見ていた。だから幼い日の思い出なのに、覚えていられたのだと思う。
「あ。姉上……。この者が、私を助けてくれた白狐の狐丸です」
僕は姉上に狐丸を紹介する。
すると姉上は、にこりと笑って、狐丸を見た。
「あぁ。狐丸さま。その節は敦康をお助け下さり、心よりお礼申し上げます……」
言って軽く頭を下げる。
「姉上……!」
僕は驚く。
普通、僕たちは頭を下げない。そう教えられてきたし、禁じられてきた。けれど姉上は、なんの躊躇もなく、妖怪である狐丸に頭を下げた。
人である前に、狐丸は妖怪だ。
僕は当事者だから、気さくに話しかけてもいるけれど、本来なら話すことも許されない。そんな状況で、姉上は頭を下げたので、僕は焦った。
周りがどう思うのかと、思わず見廻す。
「……!」
すると父上と目が合った。
目が合うと父上は嫌な顔ひとつせず、こくりと小さく頷いて優しく微笑まれた。
……僕の心は少しあたたかくなる。
父上も、僕を助けてくれた狐丸を認めて下さっている……そう思えたから!
そしてもう一人……。
こちらを見ていた者がいた。
澄真だ。
「…………」
……澄真とは、……目は合わなかったけれど、彼はひどい顔色をして狐丸を見ていた。
そう……だよね。
保護者としてこの状況は、気が気じゃない状況なのだと思う。
うん……。
「敦康……?」
姉上が不思議そうな声で僕を呼び、顔を覗く。
僕はハッとする。
「あっ、すみません。考え事をしていました」
僕は慌てて、狐丸の方を向く。
「狐丸。こちらは私の姉宮……修子内親王だ」
紹介すると狐丸は、姉上に向かって三つ指をつき、深々と頭を下げた。
「修子内親王様におかれましては、つつがなくお過ごしのご様子。心よりお喜び申し上げます。この度はこのような会にお呼び頂き、ありがとうございます……」
「……」
僕は一瞬、呆気にとられる。所々ごにょごにょ……と誤魔化しつつ、狐丸は決められた口上をどうにか口にした。
「ぷっ……」
僕は可笑しくて、思わず吹き出す。
「あ。……もう、敦康っ! 笑わないで……!」
狐丸はプーっと膨れた。
多分、付け焼き刃で澄真に仕込まれたのに違いない。
妖怪が頭を下げる姿も珍しいけれど、どことなくぎこちない狐丸の所作が、可愛らしかった。
ふふふと、姉上も笑う。
「ふふ。そう、かしこまらないで下さいね。わたくしも、狐丸さまとお近づきになりたいのですから……」
そう姉上がおっしゃると、狐丸はモジモジと指を動かす。
「あ、……あの。その……内親王さま……」
「はい?」
「ぼ、僕……まだ、その……言葉を、言葉をよく知らなくて……」
「?」
「……」
狐丸はモゴモゴと言いつのり、僕は《ははぁん》と思う。ニヤリと笑って、姉上を見た。
「姉上。狐丸は《決められた所作》は出来ても、所詮付け焼き刃。かしこまった言葉は使えないのですよ」
「うぐ……」
図星をさされ、狐丸は項垂れる。
姉上は、そんな狐丸を見てふふふと笑う。
そうなのだ。姉上は優しい。そんな事で怒りはしない。
「まぁ、そのようなこと、構いませんのに。……ほら、顔をお上げになって? わたくしの事も《修子》と呼んで下さいませ? 敦康だけ名前で呼ぶなど狡い。わたくしも《狐丸》と呼びますから……ね?」
手を取られて、狐丸は明らかに動揺の色を見せる。
けれどおずおずと、姉上の名を口にする。
「え……えっと、……な《修子》……?」
「ふふ。そうですわ。……なぁに? 狐丸?」
首を傾げ笑う姉上は、まるで芍薬の花のように華やかだった。
普通《名前で読んでくれ》と言われて、はいそうですか……と鵜呑みにする者はいない。大抵は当たり障りのないように、やんわりと断るが普通だ。もしくは名前で呼んだとしても、必ず《さま》をつける。
……けれどそれは、普通の貴族や皇族に対してだと僕は思う。
僕もだけど多分姉上も、何も知らずにそのまま名前を呼び捨ててくれた狐丸が、むしろ好ましく思える。
帝の亡き皇后の子として、僕たちの地位はとても危うい。
中宮に入った義母上ははうえは、とても優しい方だけれど、発言力があるわけではない。義母上の父は政治を牛耳ろうと、正妻のいなくなった父上に中宮として義母上を差し出した。
……だから僕たちは、余計なお荷物なのだ。
姉上はともかくとしても、僕……帝の嫡男である僕は、目の上のコブ……では収まらないくらい、邪魔なはずだ。
「……」
僕を次期帝へ……と推せば、おそらく僕の命はない。
父はその事をよく理解されているのだと思う。だから逆らうことなく、僕の廃嫡を認めた。義母上は……義母上はひどくお怒りになったけれど……。
そのせいで、実父の道長とは疎遠になっていると聞く。
そうやって幼い頃から僕たちは、知らなくてもいい政治の裏側を見てきた。だから、おべっかを使う信用ならない者たちよりも、政治のことなど何も知らない狐丸のように、ただの敦康、ただの修子として見られることの方が心地いい。
目の端で、離れたところに座る澄真が、動揺しているのが見て取れた。
それに気づいて、僕は笑う。
それはそうだろう。内親王に対して呼び捨てたのだから。
「ふふふふふ……」
「ん? 敦康? どうしたの? いきなり笑って。……あ、また僕のことバカにしたんでしょ!」
狐丸がプンプンと怒り出す。
「違う違う。単なる、思い出し笑いだよ……ふふっ」
「えぇ? 絶対僕のことだと思うんだけど……」
狐丸は納得いかないようで、声が訝しんでいる。その声が可愛い。
僕は声を立てて笑った。こんなにも笑ったのは久しぶりだ。
姉上も扇で顔を隠し、笑っていた。口元は見えなかったけれど、肩が小刻みに震えている。とても嬉しそうだ。
これはちょっと、藤の花どころではないかもしれない。
藤の花のよりも狐丸の方が、見ていて何倍も面白かった。
御所にいる最後の藤見の宴。
本当は期待していなかった宴だけれど、十分楽しめそうだと考えを改めたのだった。