支度
ぴすぴす……。
ぴすぴすぴす……。
「ん……?」
耳の近くで何やら変な音と、少し湿ったモソモソとするすぐったい感触に、澄真は目を覚ました。
「あ……。もしかして、寝過ごした……?」
朝日が眩しい。
いや、朝日と言うより、太陽は高く昇っていて、澄真は少し驚く。
こんなにも寝過ごした事などなかった。いつもなら、朝日が登る前には起きている澄真すみざねである。青くなって、身を起こそうとした。
──トンッ。
「ぐふ……っ」
起きようとしたが、何かが体の上に乗っかってくる。
(重っ……い、痛い……っ)
起きたばかりの目を細め、乗っかってきた何かを見ようとしたが、逆光でよく見えない。
その何かは獣ようで、澄真の体の上で立ち上がって見下ろしている。
とりわけ大きな獣……と言うわけではないが、細い前足が胸に乗っかっていて重い……と言うよりひどく痛かった。
なにごとかと唸りながら、澄真はその獣を見上げた。
「……」
その獣は嬉しそうに、白くフサフサのしっぽをフリフリと動かし、澄真の顔を舐め始める。
『起きた起きた! おはよう、澄真! もう、お昼だよ? なかなか起きないから、心配し……ふぐっ……』
「……」
狐丸だったか……。と、薄目を開けながら澄真は、狐丸の鼻面をガシッと掴んだ。
「……やめろ。狐丸。舐めるな」
澄真は唸る。
鼻面を掴んで、口を閉じさせたが、真っ赤な細い舌が少し飛び出していて、未だぺろぺろと動いている。
どうにか澄真を舐めようと、首を傾げ『角度を変えたら舐められるかな……?』とばかりに試している。狐丸は小柄なのに、思っていたよりも力が強い。さすがは妖怪とでも言うべきか……。
しかし寝起きにベロベロと舐められては、かなわない。
澄真もつい力を込めて、狐丸の口を閉じにかかった。相手は妖怪だ。生身の人間では、歯が立つわけがない。澄真はそう思い、狐丸の口を掴む手に、少し《力》を流し込んだ。
『ふぐ……すみ、澄真……! なに? 何するの……!? なんか鼻が、ピリピリするんだけど……!』
フガフガと狐丸が澄真の胸の上でもがく。
「『何するの?』じゃない。それはこっちのセリフだ。《力》を込めてるから、そりゃピリピリもするだろうな……!」
前足で必死になって、自分の口を掴む澄真の腕を払いのけようとするが、上手くいかない。当然、《力》を流しているから、そう簡単には外れない。
狐丸は一生懸命剥がそうとはしているが、自分の爪で澄真を傷つけまいとしているようで、肉球を丸めパタパタと前足を動かした。
「……」
そんな狐丸が澄真には、可愛くて仕方がない。
けれどこの起こし方は、ない。昨夜眠っている狐丸の唇を奪いはしたが、堂々と舐めるよりかはマシだと澄真は自分を正当化する。
バタバタと暴れる狐丸を見つつ、澄真は少しずつ廻り始めた頭で、昨日あったことを思い返した。
昨日傷口に毒を盛られ、不覚にも倒れた澄真は、《介抱する》という名目の上、吉昌よしまさの屋敷に連れさらわれた。そしてそれをどこかで見ていたのだろう狐丸が、吉昌の屋敷に乗り込んで来た。
しかし、狐丸の無謀なその振る舞いに、澄真の肝は冷える。
下手をすれば狐丸は、もうこの世にいない。
妖怪嫌いの吉昌の屋敷へ、直談判をしに上がり込むなど、言語道断。何故タダで済むと思ったのか……。
無事に帰れたことは、ほとんど奇跡に近かった。
考えなしに突っ込む狐丸は見ていて危なっかしく、澄真は生きた心地がしない。
それなのに、呑気に自分の上に飛び乗って、まるで《昨日は何もありませんでした》とでも言うように、しっぽを振る狐丸が憎らしい。
ムッとして鼻に皺を寄せると、狐丸の口を掴んでいるその手に力を込める。
『いだだだだだだ……!! なに? なんなの? 澄真! 痛いんだけど!?』
「狐丸……お前、なかなか無謀な事をしてくれたな……」
言いながら、更に力を込める。
『いだだだだだだ……!』
「あそこは吉昌さまの屋敷だ! 妖怪が行くところじゃない……!」
澄真のその低い威圧的な声色に、狐丸はヒッと小さく悲鳴をあげて、大人しくなる。
『う……。ご、ごめんなさい……』
──吉昌さまの屋敷には来てはならない……。
それは、澄真だけでなく、蒼人も言っていた。それだけでなく、妖怪の姮娥ですら警戒していた事だった。
けれど、狐丸は聞かなかった。
──澄真を助けなくちゃ……。
そればかりが狐丸の思考を支配していた。どうしようもなかった。譲るわけにもいかなかった。
《だけど……危ないってことも、ちゃんと分かってた……》
狐丸は耳を伏せる。
自分が悪かったとも思うから、狐丸は素直に澄真に謝った。謝りながら、澄真の胸の上でシュンとなって、体を伏せる。
《分かってたんだ。無謀な事だったって……》
自分のしでかした事に、狐丸は反省する。反省はするが、あの時はああするより他なかった……と思う気持ちは消せないでいる。
澄真の胸の上で長くなりながら、狐丸はクゥンと鳴いた。
立ち上がっていた狐丸が伏せると、胸の痛みは幾分収まる。
反対にフワフワとしたあたたかさが、直に伝わってきた。
今まで一緒にはいたが、こうして間近で、キツネの姿になった狐丸を見るのは初めてで、澄真は妙な新鮮さを感じる。
(……本当に、キツネなんだな)
純白のその毛並みは意外にも毛足が長く、柔らかそうで、思わず撫で廻したくなる。
それをぐっと堪えながら、少し触れるだけに抑え、澄真は話を続ける。
「あの屋敷は、陰陽頭である吉昌さまの屋敷なのだぞ……」
言いながら、狐丸を撫でる。
フワフワとしたその純白の体毛は、まるで絹糸のように細く柔らかい。
今はあたたかいその体だが、下手をすれば今頃は硬く冷たくなっていてもおかしくなかった。いや、祓われれば、死体すら残らない場合もある。
言葉にすると、その恐ろしさが、腹の底から湧き上がって来た。有無を言わさず妖怪と見れば祓っていく陰陽頭、吉昌。
吉昌の前に現れた妖怪が無事だったことは、未だかつてない。
その時取り逃したとしても、必ずおびき出し、調伏する。
吉昌は、人に降臨した《不動明王》とさで言われている。その信念の固さには、ほかの陰陽師でさえも、辟易するほどだ。
何を言っても《妖怪は人に仇なす者》と、絶対に譲らない。基本的には、式鬼しきの存在すら認めてはいない。
そんな吉昌と対峙したのにも関わらず、今まさに、狐丸がここにいることは奇跡に近いのだが、それもまだ油断は出来ない。今頃、狐丸を祓う算段でもしているかも知れなかった。
「……」
澄真は思わず、狐丸を抱きしめる。不安でしょうがなかった。
『うわっ! ……と、え? あ……澄真……?』
「……何かあったら、どうするつもりだったんだ」
消え入るように呟きつつ、その毛並みに顔をうずめた。
しなかやなその体は、意外にも柔らかい。
フワフワの毛でおおわれているからかも知れないが、抱くと信じられないほどに心地いい。
柔らかさとフワフワ加減。そして、ほんのりあたたかい狐丸の体は、ほのかに蓬萊柿の甘くいい匂いがする。
ずっと嗅いでいたいその香りに、顔を寄せていると、狐丸が急にうふふふふと笑い出した。
『ふふ、ふふふふふ。……澄真、くすぐったい。僕、首、弱いの。くすぐったい』
くすくすと笑いつつ、プルプルと身を捩った。
「……」
くすぐったい……と言われると、悪戯をしたくなる。
澄真はやめるどころか、ワザと知らんぷりをして、狐丸をくすぐり出した。
『ちょ。澄真! ……くすぐったい……くすぐったいってば……!』
狐丸はくすぐられる感覚に堪らなくなって怒り出し、ガブッと澄真の肩に噛み付いた。
「痛い……っ」
驚いて思わず唸ったが、痛くはない。ちゃんと加減して、甘噛みしてくれたらしい。
「……」
その事実が、澄真は少し嬉しい。
ついこの前までは、澄真の事を嫌がって逃げていた狐丸が、今は懐いた子犬のように、じゃれてくれる。けれど、そういつまでも、遊んでいるわけにもいかない。そろそろ藤見の宴へ行く用意をしなければ、迎えが来てしまう。
……そう思って、澄真が口を開いた時だ。
「ぎいぃゃあぁぁぁあ! 狐丸っ! 澄真さまに、何してるんですかっ!」
突如、悲鳴が上がった。
……なんの事はない。絢子だ。
出掛ける用意の手伝いをしに、こちらへ来たのだろう。
『え!? 絢子!? ……ちょ、誤解だから! 僕ちゃんと甘噛みしたし! ねぇ? 澄真、痛くなかったでしょ……? ねぇ? ねぇ?』
「……」
澄真は不安げに尋ねる狐丸をしばらく見て、目を細める。
昨日の仕返しでもしてやろう……、そんな顔だった。
澄真は口を開く。
「い」
『「い」……?』
狐丸は首を傾げる。
「い……痛たたたた……」
言いつつ澄真は、自分の肩を押さえる。
……かなり、ワザとらしい。絢子はそっと横を向き、苦笑する。
「う……、私の肩はもう動かせないかも知れない。絢子、後は頼んでおく……」
と言いつつ、パタリと倒れた。
『え? ちょ、澄真!? 澄真? 本当に……!? 人間って、そんなに弱いの!? ぼ、僕……知らなかったんだ。ねぇ、治すから! 傷見せて! ……ねぇ? 澄真? 澄真聞こえてる? ねぇってば……っ!』
一生懸命、澄真の顔色を見ようと、狐丸は覗き込む。けれど苦笑を堪える澄真は、その顔を見られるわけにはいかない。上手い具合に狐丸から、顔を背けた。
『澄真ってばぁ……!!』
半泣きで叫ぶ狐丸の首根っこを、絢子は苦笑を堪えながら、むずっと掴む。
『ふぎゃ!』
狐丸は変な叫び声をあげた。
「はいはい。分かりましたから、狐丸はこっちですよ。今日は支度があるんですからね、いつまでもキツネの姿で遊んでないで、人になって下さいましっ!」
『あ、絢子! だって澄真が、澄真がぁ……!』
「はいはい。澄真さまは、自分でお支度をしてくださいましね」
「あぁ。分かってる」
口元を袖で隠し、笑い顔を見られないようにしつつ、澄真は答える。
「ささ……、狐丸は髪を結いますからね。こちらですわよ」
ジタバタと叫び暴れる狐丸を引き摺り、絢子は隣の部屋へと消えて行った。
それを見て澄真は、ふふふと笑う。
日はもう高い。
そろそろ吉昌が手配した牛車が到着する頃だ。
「さて、私も用意をするかな……」
呟きながら、澄真は立ち上がった。
今日は藤見の宴。
本当なら狐丸を内裏などへ、連れて行きたくなかったが、こればかりはどうしようもない。
澄真は小さく溜め息をついて、重い腰をあげたのだった。