朧月夜の夢
月が登る。
優しい色をたたえたその日の月は、ほんのり霞が掛かる朧月。
「狐丸……」
澄真はそっと呟き、その頬に触れた。
「……」
いつもはあたたかいその頬は、こころなしか氷のように冷たくて、死んでいるのではないかと不安になる。
「……っ、」
再び名を呼びたくなって、グッと堪えた。
狐丸はただ単に、薬の効力が切れずに、まだ眠っているだけだ。無理して起こす必要はない。
そうとは分かっていても、目を開かない狐丸の様子が心配で、澄真は眠ることが出来なかった。
「……澄真さま? まだ、起きていらしたのですか?」
燭台の灯りを持った絢子が、声を掛ける。
絢子に心配を掛けたくなくて、部屋の明かりは消していたのだが、気配で気づかれてしまったようだ。
澄真は苦笑いをする。
いつも人の心の機微には疎いくせに、こういうときは敏感な絢子が憎らしくも思う。
「あぁ、もう寝ようと思っていたところだよ……」
咄嗟に嘘をついた。
まだ眠れそうにない。
その事に気づいた絢子は、はぁ……と小さく溜め息をつくと、縁えんに座った。
「妖怪は、あなた様のように弱くはありませんよ……?」
「……」
見透かされたようで、澄真は居心地が悪い。
ムッと顔をしかめ口を開く。
「……。そんなんじゃない」
言ってみたものの、心配でどうにかなりそうだった。
そっと指先で、狐丸の頬をくすぐる。
冷たいその頬は艶やかで、弾力があった。
(……死ぬわけじゃない)
そうと分かっていても、心配な事にはかわりがない。
「……」
絢子は、再び溜め息をつくと、澄真に声を掛ける。
「何か、お持ち致しましょうか?」
けれど澄真は頭を振った。
「いやいい……」
「……」
絢子はその言葉に、少し悩んで腰を上げる。
「……いいえ。お茶をお持ち致します。澄真さまは今日、朝餉を召し上がられてから、何も口にしていないではありませんか。帰ってからもこの調子でしたもの。……せめてお茶くらいは飲んで頂かなくては……」
その言葉に、澄真は慌てる。
「絢子、……心配を掛けるつもりはなかったんだ。すまない。……しかし、茶はいいよ。もう、休むといい。私もすぐに休むから……」
そう言って微笑む。……笑顔がぎこちない。
そんな澄真を見て、絢子はムッとすると、目を細めた。
「……ったく、何を言いますのやら! ダメです! お茶はお持ち致します。あなた様が飲まないとおっしゃるのなら、そこの妖怪にでも、ぶっ掛けて下さいましっ」
ぷんぷんと怒って出ていく絢子を、肩のすくむ想いで見送って、澄真は眠っている狐丸に、目を落とした。
「……」
狐丸は静かに眠っている。
自分自身も、同じ薬を受けた澄真だからこそ分かるが、吉昌の調合した薬は、天雄という猛毒を含んでいたにも関わらず、そう深刻がるものではなかった。
毒を受けて気を失っている……と思えば心配にもなるが、ただ薬で眠らされていると思えば、そうでもない。
緩やかな規則正しい寝息は穏やかで、少しも辛そうではない。
時折くすり……と笑うその顔が可愛らしかった。
幾分月は細くなっていたが、何故か辺りはひどく明るい。
ずっと暗闇にいたせいで、目が慣れたのかもしれない。
朧月と言っても、ほんのりと柔らかいその光に包まれて、銀髪の狐丸は夢物語の主人公のように、美しかった。
「……」
そっとその頬に手を添える。
すり……と、頬を寄せられたように感じた。
「狐、丸……」
呟いて、その唇に自分の唇を重ねる。
自分のその行動に、少し驚いて、罪悪感も感じたが、澄真は自分を止めることが出来なかった。
……どうせ眠っていて分からない……、そんな身勝手な言い訳とともに、自分を容認する。
手で触れた時よりも、ほどよいあたたかさを感じ、澄真は嬉しくなって、求めるように深く口づけた。
穏やかな呼吸が、頬をくすぐる。
狐丸の柔らかさに、酔いしれる……。
(早く、自分のモノにしたい……)
仮契約を完了させたら、全て自分のモノになるのだろうか……? そんな淡い期待が澄真の心を支配する。
「ん……」
「……っ」
微かな狐丸の声にハッとして、慌てて唇を離したが、狐丸は起きなかった。
「……」
今度は、その頬に口づける。
「……あったかい」
首元を見れば、規則正しい鼓動が見て取れた。
「狐丸……はやく、……起き……て……」
自分の身で、狐丸の安否を確認したからか、ホッと安堵し、急に眠気が襲ってくる。
澄真は狐丸の頬におでこを寄せながら、あがらうことの出来ない眠気に、その身を委ねた。
狐丸と寝息が重なる。
「澄真さま。……お持ち致しましたよ。……澄真さま?」
茶を入れた急須と湯呑みを盆にのせ、絢子が部屋を覗く。
「あら。……まぁ……」
呆れた声を出しながら、盆を床に置いた。
「本当に、まだ子どものようですこと……」
くすりと笑って、澄真の髪を撫でた。
「このような所で眠られては、風邪を引きますのに……」
言って立ち上がる。
絢子は苦笑しつつ、隣の部屋から打ち掛けを持ってくると、澄真の上に、ふわりと掛けた。
──幸せな夢が、見られますように……。
そっと、術を掛ける。
術……と言うより、呪いに近いかしらねー……などと不吉な言葉を残して、絢子は自室に戻った。
静かな静かな月夜の晩。
子ギツネと子どもは、おでこを引っつけて、すやすやと眠りにつきました……とさ。