鉄鼠、毟られる。
「大変ですわっ!!」
そう叫びながら、姮娥が物凄い勢いで飛んできたのは、日もずいぶんと昇りきり、そろそろお昼になるのではという時間だった。
血相を変えて飛び込んできた姮娥に、鉄鼠と玉兎は、目を丸くする!
『『姮娥!? 狐丸さまはどうした!?』のですか!?』
余程気になったのだろう。二人の声が重なる。
「どうしたもこうしたもありませんわっ!」
言いながら姮娥は、説明を始める。
「狐丸さまは、今、あの吉昌の屋敷の前で、私が戻るのを待っておられます……!」
『え!? 吉昌!? ……姮娥! 狐丸さまをそんな危ない所へ連れて行ったのですか!?』
玉兎が血相を抱えて、姮娥に詰め寄る。
「ぎょ、玉兎! ちょ、……落ち着いて下さいまし……っ!」
『落ち着いてなどいられますか! 吉昌なのですよ!? 吉昌が今まで、妖怪たちにしてきた事を、忘れているわけじゃありませんよね!?』
ずずいっと、玉兎は姮娥に詰め寄る!
「し、仕方がなかったのです! あの吉昌なる者、事もあろうか澄真さまを自宅へ連れ込んだのですから……!」
『自宅へ連れ込む? それはどういう事だ? なぜそんな事になる?』
今度は鉄鼠が唸る。
澄真は発動中の護符を握りしめ、怪我をしただけだ。その治療をするだけなら、何も吉昌は自分の家へ澄真を連れ込む必要などない。
護符の出した呪詛を祓い退け、後は普通に怪我の治療をするだけでいい。陰陽寮であっても、十分事足りるハズだった。
ところが、姮娥は状況が変わったのだと説明をした。
事細かな状況を、姮娥は説明する事が出来た。
澄真を抱き上げた吉昌は、陰陽寮にある濡れ縁で、蒼人に対して懇切丁寧に説明していたのだから。
近くの大銀杏の木に控えていた狐丸と姮娥にも、事の詳細はよく聞こえた。
「あの吉昌の奴は、事もあろうか澄真さまの傷口に、麻痺の薬をキズ薬と間違えて塗りこんだそうですの!」
鼻息荒く、姮娥が説明する。
『《麻痺の薬》?』
玉兎は目を細め、聞き返す。
こう見えても、玉兎は薬を司る月の使者である。地上に薬を作る妖怪が多いと言っても、薬について自分の右に出るものはいない……と自負している。
しかし、《麻痺の薬》なるものは知らない。
おそらく吉昌が独自に作っている薬なのだろうと玉兎は目星をつける。しかし薬の正体……成分が分からなければ、どうする事もできない。
顔をしかめながら、姮娥の答えを待った。
「麻痺の薬は、あの吉昌が開発したものらしいのです。なんでも本来は飲み薬らしくて、治療をする時に伴う痛みを軽減するものなのだとか……」
聞きながら玉兎は顎に手を当て考える。
《要は麻酔薬か……》
麻酔薬は手掛けていない。あれば治療のしやすさは格段に上がるだろう。澄真の事を一時忘れ、玉兎はその《麻痺の薬》に興味を示した。
かたや姮娥は、それほど薬に詳しいわけではない。玉兎が考えやすいように、情報を提供するだけしかできない。
けれど月の使者として、玉兎と一緒に過ごすようになって、多少の知識を得てはいる。その数は多くないが、情報を提供するくらいは出来る自信があった。
そんな姮娥ではあるが、その麻痺の薬に含まれると言われる《天雄》。
それには、聞き覚えがあった。
思い出しても、腸が煮えくり返る。
フーっフーっと息を吐いて、怒りを抑えながら、姮娥は玉兎に向き直る。目が殺気じみている。鉄鼠はごくりと唾を呑み込んだ。
「落ち着いて聞いてくださいませ。……あ、あの麻痺の薬には《天雄》が使われているらしいのです……!」
『なっ……!』
あからさまに玉兎の目が見開かれる。と、同時に、真っ青になった。
『て、天雄? 天雄と言いましたか!? ……吉昌は、ついに人に……人に手を掛けたのですか……っ!?』
言いながら、狐丸の様子がひどく気になった。
確かに玉兎は、狐丸を《嫁にしたい》とは言ったが、狐丸が好意を寄せている相手……つまり澄真がいなくなればいい……などとは、これっぽっちも思っていない。
むしろ、相手は所詮人間。
その短い命の間だけでも、狐丸と穏やかに過ごして欲しいとさえ思っていた。
それだけに、今回の姮娥の報告は、寝耳に水。
大好きな狐丸が傷つけられたと感じ、怒りがフツフツと湧いてきて、どうにも止められそうにない。今なら何一つ悪びれる事なく、吉昌を切り刻むくらい出来そうだった。
「……!」
姮娥は、そんな殺気を取り巻いた玉兎を見てゾッとする。
正直、今までイライラする事も少なくない程おっとりした性格の玉兎だった。
それが今はどうだ。烈火の如く怒っていて、黒い瘴気すらその身にまとっている。
近くにいる鉄鼠ですら、怯えている始末だ。
「あ……ぎょ、玉兎……?」
思わず名を呼ぶ。
(玉兎は狐丸さまが、好きなのではなかったの……?)
憶測ではあったが、姮娥は驚きが隠せない。
玉兎にとって澄真は、恋敵であるはずだ。けれどこの怒りようはその感情を凌駕している。
『……姮娥。私も、……私も行きます。行って澄真さまの仇を……っ』
その言葉に、今度は鉄鼠が反応する。
『な、吉昌は、そんなに悪どい事をしたのか!? 姮娥! それなら儂もゆくぞ! このままアイツらの好きになどさせはせんっ』
鼻息荒く、今すぐ飛び出して行きそうな勢いだ。
慌てたのは姮娥である。
両手を二人に向けて、バタバタとふった。
「いや、ちょ、……ちょっとお待ちなさいっ! 先があるのです! 最後まで聞いて頂けなければ、計画が水の泡ですっ」
血相を抱えて言う姮娥に、二人は鼻息荒く、息を整える。
ここは、流石の古参の妖怪。
狐丸だとすぐに突っ込んで行きそうだが、二人はグッと耐えて、真剣な面持ちで姮娥を見た。
姮娥は、自分も落ち着こうと、大きく息を吸い、吐く。
ギュッと目をつぶり、暫く息を整え、口を開いた。
「麻痺の薬に使われた天雄は、解毒剤が未だに見つかっていない、劇薬です」
低い声で姮娥は話す。
劇薬……と聞いて、鉄鼠のこめかみがピクリと反応したが、それだけだ。黙って話の続きを待っている。
姮娥は緊張の糸が張り詰めた今の状況に、ごくりと唾を飲み込みながら、話しを続ける。
「薬に使われた天雄は、ごく少量で、吉昌本人は大丈夫だと言い張ってはいますの」
その言葉に玉兎は顔をしかめる。
『その根拠は、なんなのですか! 天雄が猛毒だと、子どもでも知ってることですっ』
『……』
薬の知識など微塵もない鉄鼠は、そんな事すら知らない。子どもでも知っている! と怒る玉兎が、自分を叱っているような感覚を覚え、別の意味で青くなる。
『……』
……そっと、目線を逸らす。
それらを見て、姮娥は溜め息を吐く。
「玉兎……それは、言い過ぎですわ。あなたの言う《子ども》とは、あなたの手伝いをする分身の子ウサギたちの事でございましょう? 天雄と言う言葉では普通、分かりませんわ……」
呆れて姮娥は言う。その言葉に、鉄鼠が胸を撫で下ろすのが、目の端で見て取れた。
『……』
普段それほど仲がいいわけではない鉄鼠を思わず庇った形になり、正直姮娥は面白くない。
ゴホン! と咳払いすると再び口を開く。
「ま、良いですわ。続けますわよ……」
言って、身を乗り出した。
二人もつられて身を乗り出す。
「とにかく、私の見た限りでは、確かに澄真さまは眠っているだけのようにも見えましたわ。澄真さまの知人であると言う蒼人なる人物が、瞳孔、血の気、熱……それから呼吸を確認しておりましたが、特に異常は見受けられませんでしたし……」
『ふむ。なるほど。それでは何か? 状態が安定しているのにも関わらず、吉昌は澄真さまを連れ去ったと? それは……何故だ?』
眉を寄せる。
玉兎も真面目な顔で思案する。
『そんなの、分かりきってますよ。……私たちをおびき寄せるためでしょうね』
ポツリと呟いた。
「……何のためにですの?」
姮娥は唸る。
鉄鼠は腕を組み考える。ふと思い出したように、口を開いた。
『この前、吉昌の屋敷を見に行った時、少し様子が違った……』
言って鉄鼠はその時の話しをする。
『あんなに結界で固められた屋敷だったのに、あの時少し緩んでいたのだ……』
「緩んでいた?」
姮娥が尋ねる。
こくりと頷きながら、鉄鼠は言う。
『うむ。儂は、あやつの式鬼の匂いが、少しだけだが分かる。しかしあの時式鬼の匂いすら薄まり、ほとんどなかったのだ……雨で薄まったのかとも思ったのだが……』
『やはり《おびき寄せ》られていますね。確実に……』
玉兎のその言葉に、二人は頷く。
『いい度胸じゃないか! 儂の結界を破る力、目にもの見せてくれるわ!』
鉄鼠が息巻く。
しかし玉兎はあからさまに、顔をしかめた。
『ここで重要なのは、我々がおびき寄せられたことではありません。我々をおびき寄せる為に、澄真さまが拐われ、狐丸さまが巻き込まれたと言うことです……!』
怒りが頂点に達し、玉兎から紫色の靄が立ち上がる。
『「ひっ……!」』
鉄鼠と姮娥が慌てて、自分の鼻と口を手で覆い立ち上がる!
「玉兎! 気を鎮めてっ!」
『や、やめないかっ! 毒! 毒霧吐いてるぞ……っ!!』
二人の叫びにハッとして、玉兎は慌てて力を抑えた。
『す、すみません……つい、感情的に……』
しかし二人はブンブンと頭を振る。
「い、いいえ、いいえ……! とにかく玉兎は来ないでくださいまし! 味方すら攻撃しかねませんもの!」
烈火の如く叱られて、玉兎の耳は垂れ下がる。
『そ、そんなぁ……!』
情けない声を出した。
しかし鉄鼠も同意見だ。
『そうだな。お前は住処で大人しく養生してろ!』
仮病を使ったと知っている鉄鼠が、嫌味ったらしく言葉をかけ、ふんぞり返る。
『しかし、儂はゆくぞ! 狐丸さまの危機であるからな! お助けせねばならん!』
ふふんとふんぞり返る鉄鼠に、玉兎は抗議の声をあげる。
『ず、狡い! 私は狐丸さまを嫁にするのですよ! 未来の夫が行かなくてどうするのですか……!』
「……《嫁》?」
姮娥が、聞き捨てならないと言ったように呟く。
『お、姮娥聞いてくれ! こいつはな……』
言って鉄鼠は姮娥に近づく。
玉兎の将来設計を話すつもりだろう。ニヤニヤしている。
が──。
『ぎぃやあぁぁっ!!』
おもむろに、鉄鼠の毛をゴッソリ毟った。
『は? はいぃ? な、何をする!? 何をするんだ? 姮娥っ!』
ゴッソリ抜けて円形脱毛よろしく禿げた胸元を、ワナワナ……と鉄鼠は見る。
『儂の毛……! 儂の毛がぁ……!!』
ショックでビシビシとしっぽを振る。
「……。うるさいですわ。あぁ、申し訳ありませんけれど、《人形》を取れぬお二人は邪魔なだけですの!」
言って姮娥は、フリフリとその右手に掴まれた鉄鼠の《毛》を振る。
「ひとまず役に立つのはこれ。あなた方は、住処で昼寝でもなさいまし」
『な! どういう事だ!』
姮娥の言葉に鉄鼠が噛み付く。
「言った通り、そのままですわ。……私と狐丸さまは、吉昌の屋敷に忍び込みますから、その時この《毛》で分身を作ってくださいまし」
『……分身?』
玉兎が目を細める。
その言葉に姮娥は頷く。
『中から忍び込めば、排除は難しくございましょう? 私が毛を屋敷中にばら蒔いてきますわ』
『ばら蒔……いや、しかし、どうやって忍び込むのだ!? 結界が張り巡らされているのだぞ!?』
鉄鼠の問いに、姮娥は背を向けつつふふふと笑う。
「どうやって忍び込む? 普通に入るだけですわ……」
言って姮娥は、消えてしまった。
残された二人力なく座り込んだ。
『普通に入る……?』
とにかく、朗報が入るのを待つしかないようだった。