眠る澄真
澄真の眠る部屋は、透渡殿を渡った先にあった。
客を通す部屋ではなく、吉昌は自分の部屋を澄真にあてがっており、蒼人が顔をしかめる。
その事に気づいた吉昌は、慌てて蒼人に釘を刺す。
「言っておくが、私にそのような嗜好はない。勘違いするなよ……」
「……そのような、とはどのような……?」
言いながら、吉昌を睨む。
蒼人の声が低い。
「……」
これは、何を言っても墓穴を掘る……。そう思い直し、吉昌は話題を変える。
「薬の量は、そう多くはない。……しかし、傷に塗りつけたのは確かであるから、もしかすると暫く痺れは残るかも知れない……」
そう説明しつつ、従者を顎で指示を出す。
それに気づいた従者は、軽く頭を下げ、下ろされていた御簾をくるくると巻き上げた。
御簾をたらしているからか、部屋の中は薄暗い。
「……! 澄真!」
上げられていく御簾の間から、澄真の姿を捉え、狐丸が素早く中へと滑り込んだ!
「あ、こら! 狐丸っ!」
蒼人は青くなる。無防備にも程がある。
(ここは吉昌さまの自宅なのだぞ……!)
先程しっかり釘を刺したつもりだった。ここは陰陽頭の屋敷なのだぞっと。
しかし今の狐丸の頭の中には、そのような事は吹っ飛んでしまったかのようだ。目の前の澄真で頭がいっぱいになって、何も考えられないのに違いない。
「くそ……っ」
悪態をついて、慌てて追いかけようとする蒼人を、吉昌は呆れたように息を吐き、押しとどめる。
「この部屋には、何もしていない」
「し、しかし……!」
吉昌の言うことなど、信用出来なかった。
しかし吉昌は深い溜め息と共に、諦めたように目を軽く閉じ、口を開く。
「さっきも言っただろ? 《澄真に危害を加えるつもりはない》。そもそも、ここは厳重に護られている。妖怪に立ち入らせるつもりは、更々なかった。案内している時点で、術など解いたよ……」
言って目を開ける。
「……あの白狐。興味が出た」
吉昌の言葉に、蒼人は目を見張る。
「は?」
素っ頓狂な声を上げ、まじまじと吉昌を見た。
あの妖怪嫌いの吉昌が、妖怪である狐丸に、興味を示したのである。蒼人は顔をしかめる。
「それは、どういう……」
蒼人が吉昌に尋ねようとした時、突如姮娥の金切り声が響いた!
「! 狐丸さま! なりませんっ!!」
「!?」
蒼人はハッとする。
見れば狐丸は、澄真の怪我している右手を掴んでいる。既に包帯は取り除かれ、痛々しいその患部が露わになっていた。蒼人はそれを見て、ギョッとなる。
まさか、狐丸が舐めるのではないかと咄嗟に判断し、蒼人も制止の声をあげた。
「ちょ、狐丸! 患部には触れるな! そこには天雄が塗られているんだぞ……!」
──ボッ!
「!?」
狐丸を止めようと、近づく姮娥と蒼人を阻むように、突如青黒い炎が現れた。
「! なに!?」
蒼人は唸る。
狐丸はこっちを向いていない。鬼火を吐いたようには見えなかった。
しかし確かに狐丸と澄真の周りには、何者も侵入出来ないように、青い鬼火が揺らめいる。
「な……っ」
意味が分からず、蒼人は動揺する。
(見もせずに、そんな事が出来るのか……!?)
「狐丸さま……っ」
姮娥は悲痛な声を上げる。
「……誰も来ないで……」
狐丸はこちらを見もせずに、低く呟く。
そしてゆっくり、澄真の傷に顔を近づけた。
「待て! だから天雄が塗られている! 天雄は猛毒だ!!」
けれど狐丸は止まらない。
なんの躊躇もなく、傷をペロリと舐めた。
姮娥の悲鳴が微かに響いた。
炎を飛び越えようともしたが、結界の役割を果たすその鬼火はまるで生きているかのようにうねり、近づく事すらままならない。
「狐丸さま!」
泣きそうな顔を見せながら、頭を振る姮娥に、吉昌は興味を覚える。
(ふ……ん。妖怪でも、あのような表情をするのか……)
率先して関わろうとしなかった妖怪である。その表情など気にもとめなかった。人のような感情を示す姮娥や狐丸は、見ていて面白かった。
(消すのは、惜しいな……)
柄にもなく、そんな事を思う。
一方、狐丸はというと、澄真の傷口に塗られた薬のせいで、多少の痺れが廻って来たらしい。時折唸りながら、澄真の治癒に力を注いだ。
「狐丸! だから、やめろと言っているだろ!? 天雄は痺れを伴う。分かるだろっ!?……っ、吉昌さまっ! この鬼火、どうにかならないのですか……!?」
必死なのは、なにも姮娥だけではない。蒼人もまた、狐丸の暴挙を止めようと、焦っている。
「ふむ。ここにも、面白いモノがいる……」
「吉昌さま……っ!」
非難がましく蒼人が叫ぶ。
「っ! ……何もなさらないのなら、澄晴さまへ、そう報告致しますっ!!」
ぴくり……と、吉昌の肩が震えた。
「……報告」
「そうです! 知りませんからね、章親がどうなっても!!」
甥の名前が出て来て、吉昌は顔をしかめる。
「……。それは困る」
「では、どうにかして下さいっ!!」
しかし面白そうな状況。吉昌は見ていたかった。
「……あれは、薬だ。害はない」
「吉昌さまっ!」
ギロリと睨まれて、吉昌は溜め息をつく。
「……分かった。分かったから、そう睨むな」
仕方ない……といった残念そうな表情で、吉昌は渋々印を結んだ。軽く両目を閉じる。
「オンアロリキャソワカ オンアロリキャソワカ オンアロリキャソワカ……。……ん?」
唱えつつ、吉昌は片目を開け、鬼火の様子を確認した。
途中から、手応えがなくなったのだ。
覗き見ると、鬼火の威力は薄くなり、今にも消えそうなほど弱々しげに揺らめいた。
「……」
吉昌は印を解くと、あげていた手を下ろす。
真言を唱えるまでもない。鬼火は狐丸が倒れると共に、完全に消失してしまった。
「! 狐丸さまっっ!」
姮娥が走りよる。
狐丸は澄真の胸の上に頭を預け、低く唸りながら、目を閉じていた。
「……う、」
澄真が薄く目を開ける。
「澄真さま!」
今度は蒼人が澄真の名を呼ぶ。
「あ、……蒼人……?」
気だるそうに名を呼び、辺りを見廻す。
「……吉昌……さま、も……?」
痛む頭を抱えて、何が起こっているのか、澄真は必死に考えた。
(そう……だ、陰陽寮で、私は倒れて……)
けれど、指の間から見える風景は、陰陽寮ではない。見知った蒼人の家でもない。
(ならば、吉昌さまの……屋敷……?)
澄真の記憶には、吉昌から妙な薬を塗られて、痺れたところまでは覚えている。その後の記憶はないが、状況から察すると、その後倒れた澄真を吉昌が、自宅に連れ帰ったのだろうと思われた。
(おそらくは、……薬の解毒剤が、自宅にしかなかったのだろう……)
痛む頭を抱えながら、澄真は思う。それ以外に、自分が吉昌の屋敷にいる理由が思い浮かばなかった。
けれど吉昌ほどの者が、傷薬を間違えるなど有り得ない。なにか底知れぬ陰謀のようなものを感じ、澄真の背筋がゾワッとなる。ひどく痛む頭が、警鐘を鳴らしているようにも思えた。
(……長居は無用だ)
咄嗟にそう思い、身を起こそうとした。
「……ん、重……い……?」
思うように起き上がれず、澄真は自分の上に乗っかっているモノを見た。
白銀の下げ美豆良に、ふわふわの白いしっぽ。澄真はハッとする。
「 ……な、狐丸!?」
自分の上にのしかかる人影を認めて、澄真は青くなる。
「狐丸!? 狐丸、どうしたんだ!?」
どうにか起き上がり、狐丸に手を伸ばした。
ひどく、嫌な予感がする。
自分の血の気が引く音に、澄真は軽い目眩を覚えた。