使者の書簡
──カ……、コン……。
鹿威しが鳴った。
ふいに濡れ縁に、人の気配がした。
三人は、パッとそちらの方を見る。見ればそこには侍従がいて、静かに頭を下げた。
「吉昌さま。使者をお連れ致しました……」
「あぁ、通せ……」
「は」
従者が静かにそう返事をし、ススス……と身を引いた。
侍従が下がると共に、薄青色の衣をまとった若者が現れた。若者は静かに身を屈め、御簾をくぐり抜けて、室内へと入って来る。
手慣れたその所作は綺麗で、その流れるような動きに誰もが目を奪われた。
「!」
狐丸は目を丸くする。
ふわりと春の風が吹き込んだ。
風が使者のその見事な黒髪をなびかせると、品の良い香のかおりが室内へと拡がった。使者はゆっくりと、辺りを見廻す。
「……」
吉昌は頭を抱える。
使者は状況を確認すると、おもむろに口を開いた。
「あ……れ? 狐丸? どうしてここにいる……?」
使者に尋ねられ、狐丸はパクパクと口を開閉する。
吉昌は唸りながら、口を開いた。
「あぁ、そうだった。キミにはここへ来ていいと言っておいたな……。あまりにも遅いから、すっかり忘れていたよ……」
吉昌の言葉に、使者……蒼人が不愉快そうな声をあげた。
「お言葉ですが吉昌さま。私はあくまで澄晴さまの使者。私を《蒼人》として見てもらわれては困ります……!」
ムッとして蒼人は、吉昌を睨む。
吉昌は、苦笑いをしながら、蒼人を見る。
「あぁ、分かっているよ。……そもそも澄真に危害を加えようとは、コレっぽっちも思っていない。……狙いは……」
小さく囁いて、吉昌は狐丸を見る。
狐丸は相変わらず目を白黒させながら、二人を交互に見ている。
蒼人は、眉を寄せた。
「……狐丸……?」
蒼人の言葉に、吉昌の表情が緩む。
「狐丸……というか、《妖怪》だな」
ハッキリと答えた。
「出来れば、奴らを消したいのだが、いかんせん力が強くてな……ほら、床がボコボコしているだろ……?」
「え? ……ええ」
言われて蒼人は床を見る。
言われなければ気づかなかった。
床がやけに波打っていたが、一目で分かるほどボコボコしているわけではない。言われなければ……手で触れなければ、分からないのではないかと言うほどの歪さであった。
吉昌は続ける。
「実はさきほど、一戦交えてな……」
「え……?」
蒼人は心なし青くなって、目を見張る。
なんて事してくれるんだ……と言いたげな顔で吉昌を睨み、狐丸の様子を伺った。
しかし、そんな心配をよそに、狐丸はただただ使者としての蒼人の出現に、驚いて目を白黒させているばかりだ。
「狐丸……」
蒼人は、哀れみの目で狐丸を見る。
妖怪嫌いの吉昌と一戦交えたというからには、酷い目にあったかも知れない。吉昌は陰陽頭。力は随一である。
蒼人は心配になって、狐丸に怪我がないか一通り遠目で確認し、ホッと溜め息をついた。怪我はないようであるし、元気であるように見えた。
「……」
そんな蒼人を吉昌は肩をすぼめつつ、呆れた声で言った。
「君は、私の心配はしてくれないのかい? 結局のところ、私はほとんど、手も足も出なかったのだよ? 危うく殺られるところだった……」
参ったと言わんばかりのその言葉に、蒼人はカッとなる。
「な、何を言ってるんですか……っ、狐丸はあの白狐なのですよ! 敦康さまの命をご存知ないとは言わせませんよ……!?」
狐丸たちに聞こえないように、蒼人は声をひそめ怒鳴りつける。
上司に対して、この言い草はないのだが、正直蒼人も腹に据えかねていた。
好意を寄せる相手……澄真に毒を擦り付け、あまつさえ自分の目の前で、かっさらって行ったのだ。狐丸の味方こそすれ、吉昌の味方などしたくもなかった。いっそ殺られてしまえ! とすら思っている。
その様子を、姮娥は訝しげに目を細めながら、見ていた。
「……。あぁ、ちゃんと知っている」
睨む姮娥を横目で見ながら、吉昌が呟く。
「しかし、それとこれとは、話が別だ。……人の害になるモノは排除しなくてはならないからな……」
静かに……そして、淡々と吉昌は答える。
「……っ」
蒼人は解せない。
「な。何を仰っているんですかっ! 狐丸は、そんなモノではないと、先刻申したはずです!」
確かに、澄真の傍に、力の強い妖怪がいるなど、蒼人にしても心が休まらないのは事実なのだが、一晩一緒に過ごして、それは杞憂なのだと、思い知った。
そもそも、人に仇なす程の憎しみを、狐丸は持ち合わせていない。
人を玩具として、適当に扱う……ということもないし、食料に……とも思っていないようだ。そうであるならば、一晩泊めた時に何らかの行動をとってもいいはずだ。しかし狐丸は、その様なことはしなかったし、ましてやそんな気配すら出さなかった。
あの時の狐丸は傷つき、弱っていて、おそらく力をつけたい……と思っていたはずだった。だからこそ何もしなかった狐丸が、無害だというその説明に、一応の説得力があった。
「……」
吉昌は、溜め息をつくと、軽く頭を振った。
「それは君の見解だろ? 私は私の見解を自分で出す。ほかの者の意見には、左右されたくない……」
「いやいや、そういうわけにもいかないでしょう? 藤見の宴……あれはいつですか? 確か、……あ、明日ではないですかっ? 狐丸も参加するのでしょう? いがみ合って、御前に上がるなど、不敬にも程があります……っ」
蒼人は喰ってかかる。
「そもそも、吉昌さまが、澄真さまに妙な薬を塗り込むのが間違いなのです! おおかた狐丸がどこかで覗いていたのでしょう。……私も気が気じゃなかったのですから、狐丸が怒るのも無理からぬこと」
狐丸を擁護するつもりはないが、いつも冷静な吉昌らしからぬ行動に、蒼人も憤りを隠せない。
「何故、このような暴挙に出られのですか? 吉昌さまらしくもない……」
蒼人は眉をひそめ吉昌を見る。
本来、吉昌は陰陽頭という立場のためか、自分から行動することはあまりない。
余程他の陰陽師の手に負えない事案であったり、重要事項で失敗が許されない時は別として、普段は指示とまとめ役に徹している。
何も言わずに自ら動いたこの出来事に、蒼人は多少面食らっていた。
「……」
吉昌は顔をしかめる。
吉昌は吉昌で、部下に《悪霊の珠》の存在を知らせたくなかった。
悪霊の珠が取り込む魂は、《幼子》とされているが、事実は定かではない。もう随分と昔の代物で、吉昌の父ですら、現物を見たことがない。文献だけを鵜呑みにして、手酷い痛手を受けたことは、一度や二度ではない吉昌にとって、《悪霊の珠》は用心すべき呪物なのである。
万が一、力のある陰陽師が取り込まれれば、目も当てられない。
「……ここでは、説明は出来ない。ひとまず、私の計画は……多少の問題は起きたが、一応は達成された……」
吉昌は呟く。
「……達成……って……」
呻きながら蒼人は吉昌を見た。
「君は君で、黙って自分の役目を果たせばいいだろう? 使者としてここに来たのだろう? 澄晴さまの名代として、な……。澄晴さまは、私にいったい何用なのかな……?」
とぼけたように言う吉昌に、蒼人は深く溜め息をつくと、持って来ていた書簡を手渡した。
「……どうせ、内容もご存知でしょう? 確実に澄真さまを返して頂くために、澄晴さまに私が頼んだのですよ……。一筆書いてくださいと……」
「一筆? ……よく、あの澄晴さまがそこまでしてくれたな……」
眉を寄せ、手渡された手紙を吉昌は、くるくると開く。
(それほど蒼人を気に入っているということか……?)
吉昌は、書簡に素早く目を走らせ、手紙を読んでいく。
時折、少し顔を青ざめさせ『うぐっ』と唸った。そして、読み終わった後、その手紙をぐしゃっと握りしめた。
顔色が、ひどく悪い。
「……分かった。どちらにせよ、澄真は返すつもりだったしな。まだ薬の効力は消えないかも知れないが、じき目覚めるはずだ」
「本当……!?」
吉昌の言葉に、逸早く反応したのは、狐丸だった。
蒼人の出現に驚いてはいたが、《澄真》の名を聞いて、正気に戻ったらしい。蒼人は苦笑する。
「狐丸……ここは、陰陽師の棟梁である陰陽頭の屋敷なのだぞ? 妖怪が来るべきところではない」
困った顔で狐丸を諭した。
その言葉に、狐丸は耳を伏せる。
「だ、だって、だってだって! 澄真が攫われたんだよ! 僕、助けなくっちゃって思って……! ぼ、僕のせいで澄真、怪我をしちゃったんだ。だから治してあげようと思って来てみたら、何だか凄いことになっていて……」
しゅん……と項垂れる。
そんな狐丸の頭の上に、ぽんぽんと手を乗せると、蒼人は軽く笑って答えた。
「お前に何かあったら、澄真さまが心配をする。無茶はするな」
「……うん」
狐丸はそう言って、素直に頷いた。
先程とうって変わり、見た目通りの幼子のようになってしまった狐丸を見て、今度は吉昌は少々面食らう。
「……さっきと雰囲気が、全然違う……」
唸りながら、付き添いで来ている姮娥を見た。
「……」
姮娥はいつの間にか濡れ縁にいて、何事もなかったかのように大人しく座っている。
(……。妖怪めぇ……)
変わり身の早さに、吉昌は歯噛みする。
(しかしここは大人しくした方が良さそうだ……)
そう思い、大きく溜め息をついた。
さきほど握りしめた、澄晴からの書簡を見る。
そこには、こう書かれていた。
『吉昌どの。この度は、愚息がお世話になったとの事。大変申し訳なく、また有り難く思っております。しかしいつまでも、貴方さまの手を煩わせるわけには参りませんので、使者に立てたこの蒼人にお返し下されば、こちらで対応致します。あ、そうそう。この前章親さまにお会いしました。良い甥御さまであられますね。我が愚息共々、是非お近付きになりたいものです。──それでは、また。』
──お近付きになりたい……。
(その一言には、悪意しか感じられない……っ)
章親は吉昌の兄の子で、今年十七になる。
今はまだ蒼人と同じ陰陽生だが、その素質は優れており、将来有望である。余計な横槍を入れられるのは、正直さけたいところだ。
吉昌は青くなりながら、蒼人と狐丸に向き直る。
「……。澄真は、こっちだ……」
そう言って、素直に澄真の休む部屋へと案内したのだった。