狐丸の制止
姮娥の攻撃を紙一重で躱し、安堵の溜め息をつく吉昌とは逆に、仕留め損ねた姮娥は、的を外し不機嫌になっている。
ギリッっと眉間に皺を寄せ、吉昌を睨んだ。
既にその風貌は、人のソレとは、かけ離れている。
美しい顔に似合わない、横長のその不気味な瞳が吉昌を鋭く睨む……!
「うぐ……」
睨まれて吉昌は、その醜悪さに呻いた。
まさか、酸を吐けるとは、思ってもみない。
(付き人と思って、甘く見ていた。……アレも、それなりの力を持っている妖怪じゃないか……!)
ガリッと下唇を噛んだ。
こうなると状況は変わる。
(このままだと、殺られる……)
ゾクリと悪寒を感じ、吉昌は身震いした。距離を置くために、少し後ずさる。
ついでに護符の確認をした。
自宅にいるということと、表の紙人形で捕まえられると、高を括っていたが為に、あまり持ち合わせていない。思わぬ誤算に吉昌は歯噛みする。
(これは、やばい……な……)
未だミサキは帰ってこない。
ミサキは風の眷属である。遅いはずがない。むしろ速いのがうりだ。
ミサキだけではない。侍従たちもそうだ。
ここまで派手に暴れたのだ、誰も気付いていないということはないはずだ。
(いや、待て。……もしかするとこの鬼火……)
吉昌は視線だけで、辺りを見廻し、状況を判断する。
部屋全体を囲むこの鬼火。
外部からの侵入を防ぐ、ただの結界だと思っていた。
(もしかしたら、中の音を漏らさないようにしている!?)
確かにそれは、効率がいい。
中の音が聞こえなければ、何が起こっているか分からない。
だから誰も来ない。
いや、来れるわけがない……!
「……」
となれば、外部からの手助けは挑めそうもない。
(……しかし、それはあくまで推測だ)
現に外の音は聞こえてくる。
先ほど、鹿威しの音が聞こえていた。
少なくとも、外からの音は聞こえる。
完全に外部から、遮断されているわけではない。
(どうにか、この鬼火を消せれば……)
吉昌は考える。
しかし、何も思い浮かばない。
(……。これまでなのか……)
吉昌が諦め、護符でどうにか最期の足掻きでもしようかと考えていた時、狐丸が口を開いた。
「姮娥。傷つけちゃ駄目だ……」
「!?」
狐丸の言葉に、吉昌は目を見開く。
狐丸の言葉は、ひどく静かだった。
その静かさが、吉昌は意外だった。
(……何故、そこまで冷静なのだ? 確かに私は追い詰められてはいるが、陰陽師なのだぞ? ただの人ではないのだぞ? 陰陽師として力があったとしても、所詮人は人。妖怪にとっては、取るに足らぬ存在……だと言うことか……?)
吉昌は自嘲気味に笑う。悔しさよりも、侮られた自分の不甲斐なさに歯噛みする。
(そのつもりはなかったが、子どもと思って侮っていた。とんだ誤算だ)
確かに追い詰められていることは事実で、吉昌は半分諦めかけている。しかし、このように舐められては陰陽頭としての立つ瀬がない。どうにかして、一矢報いてやりたいものだと吉昌は考える。
吉昌だけではない。当然、姮娥も驚いて、狐丸を見た。その目から、先程の殺気が一瞬にして消える。
「き、狐丸さま!? 何をおっしゃいますの? そやつさえ消せば、それで終わりでございましょう?」
「……」
吉昌もそう思った。思ったからこそ、狐丸の言動に驚いたのだ。
しかし狐丸は首を振る。
「ううん。終わらないよ。だって、澄真が怒るもの……」
悲しげに呟いた。
「お……怒る……?」
姮娥が聞き返す。
その問に、狐丸は頷く。
「うん。そいつ……悔しいけど、澄真の仲間だし……」
「な、仲間……? い、いえ、狐丸さま!? こやつは澄真さまを攫ったのでございますよ? 毒を盛ったのでございます! 狐丸さまは知らないのかも知れませんが、天雄ですよ? 猛毒なのです……! 毒を仲間に盛る者などおりませぬ! こやつは澄真さまの仲間ではございませぬ……!」
「……」
吉昌は軽く目をつぶる。
(そうだ。そうなのだ。私は澄真に、毒と分かっているものを擦り込んだ)
確かに薬として無害ではある。あるが、まだ実用に向いていないのも事実。人に試すべき薬ではない。
けれど狐丸は、静かに頭を振る。
「ううん。違うよ。そう思ってるのは僕たちだろ?」
そう言って、吉昌を見る。その目は憂いに満ちて、今にも泣き出しそうだ。
「だけど、澄真はそう思っていない。僕たちが思っていることが大切なんじゃなくて、澄真がどう思っているか……なんだよ。分かる? 姮娥……」
ゆっくり、姮娥を見た。
姮娥は、嫌々をする子どものように、頭を振る。
「わ、分かりません……。分かりませんわ、狐丸さま! 今なら討てる。今なら、この憎き吉昌を殺れるのでございますよ!」
言うが否や、キッと吉昌を睨み、襲いかかった……!
「! 姮娥……!」
──シャッ……!
目にも見えぬ早業で、姮娥の舌が、吉昌を捕らえようとした! 吉昌は気づくが、動けない! 一歩あとずさるのが精一杯だった。
(……人の速さじゃない! 対処出来ぬ……!)
もうダメだ! と固く目を閉じた。
姮娥の舌が、吉昌に触れるか触れないかのその刹那、ひゅっと何が空を切った。
バシ……ッ。
「!?」
異変を感じ、吉昌は眉間に皺を寄せつつ、目を開ける。
(……な、に……!)
飛んで来たのは、狐丸のしっぽだった。姮娥の舌を、いとも簡単に叩き落としている。
「!?」
吉昌は目を見張り、狐丸を見た。
「……ダメだと言ってる、だろ……?」
姮娥の舌を弾き飛ばした後、狐丸は低く唸る。
背後に、青黒い鬼火が燻る。
「し、……しかし」
姮娥は狐丸の怒りを感じ、後ずさる。
姮娥は吉昌相手に手を抜いているわけではない。本気で取りに掛かっているのにも関わらず、躱される。
今は狐丸がいるからこそ、吉昌の集中を分断しここまで追い詰めてはいるが、一対一ともなれば、どうなるかは分からない。吉昌だけでも手こずるのに、その上狐丸までも敵対すれば、勝てる見込みなどあるはずもなかった。姮娥は尻込みする。
一方、吉昌にとっては、これは好機の到来。
(仲間割れ……いや、妖怪に仲間など、存在せぬか……)
薄く笑うと、護符を一枚懐から出した。
今、狐丸は吉昌に背を向けている。救おうとしたのだから当たり前だ。
そして、無防備でもある。
狐丸は攻撃をしかけた姮娥から、目が離せないでいる。仲間だと、想いが通じていると思っていた相手が、実はそうではなかった時、誰でも動揺するものだ。ましてや自分勝手な妖怪のこと。そう簡単には許さないだろう。
吉昌は、ほくそ笑む。
(今が好機……!)
先程の状況からすると、狐丸は炎をそれなりに嫌うのだろうと、吉昌は目星をつけ、火系の攻撃を用意する。
護符を掲げた事に気づいた姮娥が、臨戦態勢をとる!
臨戦態勢をとった姮娥に狐丸は、ギュッと目を細め睨む。
吉昌は、静かに護符を構え発動の準備を整えた……。