妖狐の力
狐丸のしっぽに絡め取られ、吉昌は唸る。
「な、なにを……!」
必死に抗ったが、狐丸の二本の尾にガッチリと固められ、身動き一つ出来ない。
(油断した……!)
心の底から、人間だと思い込んでしまった。
(幼い子どもが泣いているからと、簡単に絆されてしまうとは、不覚もいいところだ……)
吉昌は歯噛みするが、既に後の祭り。こうなっては、どうしようもない。
何もかもが後手に廻り、自分の不甲斐なさに溜め息すら出ない。
「なにが狙いだ……!」
ギリッと狐丸を睨んだ。
「《なにが狙い》……?」
解せない……と言ったように、狐丸は呟く。
さきほどまで、あんなに儚げに泣いていたのに、今やその目には冷たい色が渦巻いている。
漆黒だった瞳の色は、徐々に金を帯び、まるで何もかもを見透かすかのようだ。
濡れ羽色のそのサラサラの髪も、少しずつ月のように淡く輝きだし、純白へと色を染めた。いつの間にかその頭には、ぴょこり……と狐の耳が顔を覗かせている。
確かに幼い風貌の白狐なのではあるが、さきほどまで対峙していた、人間の幼子とは似ても似つかない。同一人物だとは思えないほど、今の白狐は禍々しい気配を醸し出していた。
金に染め上げだその瞳は、細く針のように尖り、ギリッと吉昌を睨む。
「なにが狙い……とか。それって、僕のセリフだよね……?」
冷たく言い放ち、吉昌を射抜く。
ゆっくり吉昌に擦り寄ると、その首に指を這わせた。白く鋭い爪がキラリと光る。
「何故、澄真を連れ去ったの? 怪我なら、僕が治せる。お前が治療しなくても、僕が出来る」
言いながら、狐丸は吉昌に顔を寄せる。
整った顔立ちの幼子が、その容姿とは裏腹に、全てを凍りつかせるような冷気を放ちながら吉昌を睨みつけてくる。
ぞわりとした感覚が、吉昌の背筋を逆撫でする……。
狐丸はそんな吉昌に、囁くように囁いた。
「あのねぇ……、ここに来てから何回も言ってるんだ。聞いていないわけないよねぇ? 澄真を返して……って、さぁ……」
「!」
ゾクッとするようなその鋭い視線に、吉昌は身動きが取れない。
頭で分かっていても、抗えない力……。
吉昌は身を強ばらせた。
陰陽師である吉昌は知っている。
妖狐の妖力の一つである、《蠱惑》──。
妖狐が使う、妖怪としての力……。
相手を魅了し、惑わせ、誑かす力。
知ってはいても、実際目の当たりにする機会は少ない。
以前受けた妖狐の蠱惑は、このようなモノではなかった。力を込めて抗えば、すぐに外れてしまうようなモノばかりだった。
それは単に、普通の人ではない吉昌の力のなせる技ではあったのだが、今は抗える自信がない。あの時のキツネは、実は本気ではなかったのでは……そんな風に思ってしまうほど、狐丸のソレは尋常ではなかった。
目を合わせれば、全てを投げ出して、狐丸の言葉に従いたくなる。抗うことは、最大の罪であるとしか思えない。その手に触れられたい……。
(……いっそ、食べられてもいい……)
吉昌は一瞬、本気でそう思い、ハッとする。
(だ……ダメだ。術中に嵌る……)
慌てて目を逸らすが、支配されている気配は未だになくならない。
震える手で、自分を掻き抱いた。
狐丸の蠱惑は、他とは違う……。
目線を合わせなくとも、その雰囲気や発する匂いで相手を簡単に魅了する。
これほどのモノがあるとは、吉昌も夢にも思わなかった。
陰陽師として訓練され、妖怪の甘言には絶対負けない自信があったのにも関わらず、心は動揺し、息があがる。
苦しくなって、思わず、震えるように溜め息をついた。
「ねぇ……返して……」
吉昌が吐き出す息と共に、耳元で狐丸が囁く。
──ゾクッ……。
後ろから抱きつかれ、耳元で囁くその声は酷く甘くて、官能的な響きを含んでいた。
(あぁ……頭が、ボゥ……と、なる……)
呑まれそうなその囁きに、そのまま身を委ねたくなった。
「……っ、」
必死に頭では抗いつつも、体が言う事をきかない。
(澄真も……、コイツの蠱惑に、取り憑かれたのか……?)
そんな疑問が頭をよぎるが、そんなわけはない。取り憑かれた者くらい、自分は見分けられるだろ……、と吉昌は自分に言いきかせる。
(いや、そんな事より、この状況だ……)
どう打破すればいい?
考えるが、妖狐の蠱惑が心地よく、何も考えたくない。
(……このまま、溺れて……いたい)
思考を手放そうとしたその瞬間──。
『吉昌さま……!』
「!」
頭に響くような、その声にハッとする。
──ミサキ……!
一気に意識が戻り、歯噛みする。
(自分は、何をしていた!?)
ズキズキと痛む頭を抱えた。
(危うく白狐の蠱惑の術中にハマる所だった……)
ミサキにとんだ醜態を見せてしまったことに、軽く後悔する。しかしミサキが現れた事で自我が保てたのだ。吉昌はホッと息をついた。
──助かった。感謝する。
心の中でそう呟くと、ミサキは嬉しそうに微笑んだ。
『いいえ。吉昌さまのためならば、この命、捧げようとも悔いはございませんもの……』
ふふふと笑う。
『けれど、このキツネ……、ミサキは嫌いでございます……!』
珍しく腹を立て、狐丸を睨んだ。
どうやら狐丸は、ミサキの姿が見えていないようだ。ミサキを見ることなく、虚空を見つめ、何やら考えている。
その前をミサキが憎々しげに、フラフラと飛びすさる。
見えないから目が合わないのだろうが、ミサキはそれが我慢ならない。殺気を隠すことなく、狐丸を挑発した。
「……」
吉昌は少し驚く。
ミサキはあまり感情を表に出さない。だからこそ不気味で、無理やり式鬼に堕ちたミサキを嫌悪していた。
(そんな感情もあるのだな……)
何故勝手に出てきたのか、吉昌には理解出来なかったが、仲間が増えたことに変わりはない。吉昌は純粋にその事を喜び、対策を練る。
──ミサキ、この白狐を何とか出来るか……?
吉昌は尋ねる。
するとミサキのムッとした声が戻ってきた。
『いささか、難しくはございます……!』
ミサキは唸る。
『白狐と吉昌さまの場所が、近うございますゆえ……』
ギリギリと歯ぎしりが聞こえた。
ミサキの術は病魔。術を展開すれば、近くにいる吉昌に当たってしまう。
妖怪の白狐であればいざ知らず、人間の吉昌が耐えられるわけがない。だからミサキは、先程から手を出せず、ウロウロと二人の廻りを廻ることしか出来ないでいた。
二人の廻りを廻る度に、ミサキの気配が濃くなる。正直、吉昌も当てられそうだ……。
どうやらミサキは、相当怒っているようだった……。
──な、ならば、あの侍従は助けられるか?
ミサキは式鬼。
本来なら、とばっちりを受けて吉昌が危害を加えられることはないだろう。しかし、ミサキが操るのは病。どこへ飛んでいくか分からない。下手に刺激して加減が出来なければ、吉昌でもタダでは済まされないだろう。
そんな心配をしながら、吉昌は尋ねた。
『……』
しかし明らかに、ミサキは不服の色を示した。
侍従ではなく、狐丸の蠱惑にハマりかけた吉昌の方を先に助けたい風であった。
けれど溜め息をついて、ミサキは答える。
『……できますわ』
しかし声は小さい。
吉昌は、安堵の息を漏らす。
──良かった……。ならば、侍従を助けよ。
『……。お心の……』
不愉快の色たっぷりに、ミサキが答えようとしているその最中に、狐丸が素早く顔を上げ、姮娥に向けて言葉を放つ。
「姮娥。伝言を伝えられない従者など必要ない。遠くへ投げ捨ろ……」
言うや否や、姮娥は返事をしながら舌をしならせた。
「分かりましたわ」
シュッ──!
狐丸に畏れを抱き始めた、姮娥の行動は速い……!
狐丸の言葉が終わらないうちに、姮娥は侍従を投げ捨てた。
垂れ下がった御簾が、バリバリと音を立て、従者に絡みつき、そのまま侍従は庭に放り出された。姮娥が、思いっきり舌をしならせたが為に、御簾に絡め取られた侍従は、驚くほどよく飛んだ……!
「う、うわあぁぁあぁ……っ!!」
侍従の情けない叫びが、屋敷中に響き渡った。
「なっ!?」
焦ったのは吉昌だ。
侍従は人間。
叩きつけられれば、タダでは済まされない。
「……っ、ミ、ミサキ……っ!!」
思わず唸って、ミサキに顔を向ける……!
『! 心得ています……っ』
素早く返事をし、ミサキは空を駆けた。
──シュン……!
ミサキは風のように駆け抜け、風の盾を作り、侍従を覆う。
「ひぐ……っ」
落ちていく衝撃に、侍従が悲鳴をあげる。
──ガチン……ッ。
庭の飾り岩に激突する寸での所で、ミサキの術が形をなした。
危ういところだった……。
吉昌は、ホッと安堵の息を吐いた。
しかし、安心したのもつかの間……狐丸が動いた……!
ゴオォォオォォ……。
口から濃藍色の禍々しい鬼火を四方に吐き出し、結界を張る!
吉昌は、目を見張る。
(……!? まさか、ミサキが視えて……?)
しかし、そんなはずはない。
確かに、狐丸は視えない素振りを見せていた。視えていたのなら、ミサキからあれだけ挑発されたのだ。手を出さないはずはない。
吉昌は、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「……」
そんな吉昌を狐丸はゆっくり睨めつける。
「これで、僕たちだけ……」
言って笑う。
「もう、誰にも邪魔されたくない……」
そう言って吉昌を見るその目には、何の情も見い出せなかった。