序
『あーあ。仮病なんて使わなければ、良かったですねー』
ボーッとしながら玉兎は呟く。
『は? 仮病!? 玉兎? 今、仮病って言ったか!?』
血相を抱えて聞き返す鉄鼠に、玉兎は慌てて口を塞ぐ。
『むぐっ……。い、言ってません。言ってませんよ! 鉄鼠!!』
しかし鉄鼠は、疑い深そうな目で、じっと玉兎を見る。
『いや。確かに聞こえたぞ……玉兎、お主、仮病だったのか? いやむしろ、仮病など使わなかったなら、一緒に行けたのだぞ!?』
信じられないと言った様子で、鉄鼠が睨む。
睨まれて玉兎は自分の耳を掴んだ。
『す、すみません……』
ポロポロと涙を零した。
『け、けれど、私はもう狐丸さまから、離れたくなかったのです……』
耳を伏せながら、玉兎は呟く。
けれど、それだけでは、鉄鼠は理解出来ない。
一層怒って、口を開く。
『だから、それがおかしいのではないか! 離れたくないなど言うが、現に今離れているではないかっ! 泣いてもダメだぞ! 玉兎はスグに泣いて、うやむやにするのだからなっ!』
『う……』
ギュッと長い耳を両手で握りしめ、玉兎は唸る。
けれどいつも泣いている玉兎ではない。
今回ばかりは後悔しているのだ。
本当はついて行きたかった。
けれど、足でまといになるのは、目に見えている。
我を貫き通すことも出来なかった。
体調が悪かったのも、嘘ではない。
狐丸が死んでしまったのではないかと、ひどく落ち込んだ。
死んでしまったのなら、自分もその傍に逝きたいとすら思ったのだ。
けれど生きていた。
驚くほど元気に、狐丸は玉兎に笑いかけてくれた。
走れないと試しに駄々をこねてみたら、嫌な顔ひとつせずに、おぶってくれた。
『わ、私は……私は! 狐丸さまが好きなのです……っ!』
『な……、玉兎!?』
思いっきり叫ぶと、鉄鼠が目を丸くした。
驚く鉄鼠を見ると、やる気がムクムクと湧いてきて、今まで自信のなかった自分が可笑しくなった。
《ここまでくれば、何を言っても怖くなどありませんっ》
玉兎は、目を細める。
大きく息を吸うと、鉄鼠に向き直る。
『決めました……!』
キリッと真剣な顔をすると、玉兎は、鉄鼠にキッパリと言い切った。
鉄鼠は怯む。
今まで引っ込み思案で、どちらかと言うと、三人の中で一番ビクビクしていた玉兎なのである。
その玉兎が決心するなど、余程のことに違いなかった。
『な、何を決めたんだ……?』
聞くのが少し、恐ろしかった。
けれど、聞かない訳にはいかない。恐る恐る尋ねる。
尋ねられて、玉兎は胸を張った。
──『私は、狐丸さまを嫁にします……!』
『……』
聞き間違えたのかと、鉄鼠は一瞬硬直する。
じっと玉兎を見た。
玉兎は、恥ずかしくなったのか、自分の長い耳で顔を隠した。
『……。え? 玉兎? 今、なんと……?』
聞き返したが、聞いてはいけないような気がして、鉄鼠は自分の小さい耳を、必死になって塞いだ!
『いや、いい! これ以上は聞かない! 儂の耳はどうかしてしまったのだ! 壊れてしまったゆえ、何も聞こえぬ!』
しかし、玉兎の方も負けてはいない。
鉄鼠の耳元に口を寄せると、更に大きな声で叫び始める。
『私は、狐丸さまを……!!』
『わーわーわーわーわーーー!!』
いくら大声で叫んでも、鉄鼠は耳を塞ぎ、ワーワー言うだけで、話を聞かない。
『……』
玉兎は、しゅんとなって、そっぽを向いた。
『好き……なのです。おかしいでしょうか……』
ポツリと呟いた。
あまりにも哀愁漂うその背中に、鉄鼠は申し訳なくなって、そろりと傍に近づいた。
『おかしくはない……おかしくはないが、狐丸さまの同意も得ずに、勝手には決められはしないだろ?』
ボソリと呟いた。
『同意……』
呟いて、玉兎の頬が紅潮する。
『鉄鼠。狐丸さまが同意して下されば、私の妻になるのですか……!?』
あまりにも無邪気に尋ねるものだから、鉄鼠はどうしたらいいか分からずに目を泳がせる。
『い、いや、玉兎……その前に、狐丸さまは男だ。男は嫁とは言わない。《婿》と言う……』
わけの分からない説明をしながら、鉄鼠は玉兎の様子を伺った。
『……』
玉兎は明らかに、残念そうな顔になったが、しばらく考えて、口を開く。
『……いや、しかし、我々は妖怪です。妖怪ならば《嫁》でも良いではありませんか?』
どういう理屈だ……? と鉄鼠は唸る。
一瞬、言葉のやり取りを諦めようとしたが、ここで諦めたら、どんな行動に移るか分からない。迷惑を被るのは、あの狐丸さまだ! そう思うと、諦める訳にはいかなかった。
『……玉兎……? それはどういう理屈だ?』
『え? だって私たちは、子を成せないではないですか』
『……』
『妖怪の子は、それこそ自然に湧いて来るもの。私と同じモノなら多少は作れますが、それはただの分身。人のように……ほかの動物たちのように、愛し合って子を成しはしない』
『……』
その玉兎の物言いに、鉄鼠は眉をしかめる。
妖怪は、人に心惹かれる。
他者に愛情を求めても、所詮は妖怪。好きだと言って愛情が高じれば、その感情は一転して食欲となる。
愛していれば愛しているほど、食べたくなるのだ。
だから好きにならないように、その可能性のあるものとは、一緒に行動を共にしない。
そもそも三人で、つるんでいる姮娥と玉兎、それから鉄鼠は、特殊な存在だと言える。
その妖怪独自の特性がある為に、妖は、なんの制約もなく愛し合える人に惹かれるのだ。
鉄鼠は、どこまで玉兎が狐丸の事を好きなのかは分からない。
《しかし、それが高じれば、玉兎は狐丸さまを……》
考えたくもない状況が思い浮かび、鉄鼠は頭を振る。
狐丸を襲ったとして、玉兎は返り討ちに合うだけだ。喰われるのは玉兎の方……。
《……。いや……しかし……》
鉄鼠は思い出す。
《そう言えば、狐丸さまは妖狐だ……》
確か、妖狐には呪いが掛かっていたはずだ。誰が掛けたのか……までは分からないが、鉄鼠はその噂を随分と前に聞いた。それこそ姮娥や玉兎と出会うよりも前。
《確か、妖狐は人しか愛せぬ……》
妖狐の呪いは、人しか愛せないこと。
愛していまえば、その臓物を求める。
妖怪にとっては、たかが臓物。一つや二つ食べられても死にはしない。痛みはあるが、ふたたび再生する。
しかし人は違う。簡単に死んでしまうのだ。
たいていの妖狐は勘違いする。
人を好きになるわけがない……と近づき、気づいた時にはもう遅い。手には愛する者の臓物を握りしめ、死に至らしめる。
《……すっかり忘れていた》
鉄鼠は青くなる。
知っているものは、もうほとんどいないかも知れない。それほど前の話だ。
《しかし、今まさに狐丸さまは、人の子……澄真に執着している……。本人は自覚してはいないが、あれは恋……ではないだろうか?》
たまに狐丸は、澄真が親しくする者に対して嫉妬……と言ってもいいような行動を見せる時があった。傍目から見ても、狐丸が澄真に好意を寄せているのは、確かである。
『……』
『……? 鉄鼠? どうかしたのですか……?』
深刻な表情を見せ始めた鉄鼠に、玉兎が心配する。
『あ……いや。……なんでもない……』
しかし声はひどく動揺していた。
『……』
そんな鉄鼠を覗き込みながら、玉兎は溜め息をつく。
『私たちも、人であれば良かったのに……』
そんな玉兎の呟きが、フワリと風に舞った。
空は爽やかに晴れていて、今日は暑くなりそうだった。