【ネタばれアリ感想】四半世紀エヴァンゲリオン ~草臥れたおっさんの慟哭~
シン・エヴァンゲリオン劇場版のネタばれアリ感想です。
まだ観ていない人は読むのを避けて下さるよう伏してお願い申し上げます。
逆にすでに観られた方には是非とも読んでほしかったりもします。
ホント機会があったら呑んだくれながら朝まで語り明かしたいです。
25年間エヴァンゲリオンを追いかけ続けてきた、草臥れたおっさんの魂の慟哭、それは――
『新世紀エヴァンゲリオン』という、一睡の夢を見ていた。
思えば四半世紀という長い時間を、思い出という過去にすることなく追いかけ続けた作品など、少なくとも私には他にない。
それが完結した。
本当に完結したのだ。
まだ若かった頃、ネットの興隆と共に主に某大型掲示板を中心に設定や物語の結末、レイ派やアスカ派に分かれて毎夜激論を交わした日々ももはや遠い。
結婚式に劇場版「Air/まごころを君に」の曲「Komm, süsser Tod 甘き死よ、来たれ」を使用して、奥さんに呆れられたのも今ではいい黒歴史である。
まさか成人した娘と共にエヴァンゲリオンの結末を共に観ることになるなど、当時想像すらしていなかった。
まあマジカルミライを毎年一緒に行くようになったのは、間違いなく私のせいもあろうから文句を言う筋合いなどないのだが。
バブル崩壊後の就職戦線をなんとか生き残り、某ゲーム会社に就職するほどに当時すでにオタクとしては固まっていた自分である。
さすがにこの道に引きずり込まれたのがエヴァのせいだとは言わない。
だが小説であれば『妖精作戦』、アニメであれば『うる星やつら』、ゲームであれば『ウィザードリー』からどっぷりと複合型消費特化型オタクと化した私が、時間も金も情熱も傾けた作品のトップ3に間違いなくエヴァンゲリオンは位置している。
総合でいうならばぶっちぎりでトップかも知れない。
次点でFF11か。
そんな物語の終わりを昨夜観た。
そこで思い知らされたのだ。
私がエヴァンゲリオンに求めていたのは、深い設定でも整合の取れた物語でもなく、「なるほどそうだったのか」と納得できる結末でさえなかった。
いやもうこの四半世紀の間に、エヴァンゲリオンには「結末のない物語」であり続けてくれることを望むようにすらなっていたのかもしれない。
TV版。
劇場版。
漫画版。
新劇場版。
その他ありとあらゆる派生した作品群。
創造主たる庵野総監督の手すら離れ、完全に完結していないがゆえにその解釈は受け手側に委ねられていた。
神作だと崇め奉ることや駄作だとこき下ろすことどころか、「俺の考えた最高の設定」「俺の考えた最高の結末」すら好き勝手に妄想することができた。
だが終わった。
創造主が明確な形で、「エヴァンゲリオンとはこういう物語で、こういう結末に至りました」と見事に創りきってみせてくれた。
多くの謎にもある程度明確な答えが提示され、各キャラの行動の根底にあったものも説明されていたと思う。
エヴァンゲリオンという物語を「理解した気持ち」になれる要素はいくつも散りばめられており、満足感は非常に高い。
エヴァに触れたことがある方であれば、是非とも観に行っていただきたいと自信をもってお勧めできる極上のエンタテイメント作品である。
間違いなく私はこの後何度も映画館に足を運ぶだろうし、BDも購入して『序』から通しで何度も見ることになるだろう。
だったら今の、このとても沈んだ気持ちはいったいなんなのか。
物語の骨子への理解や、結末への納得は一定以上与えられている。
偉そうに言わせてもらえば「おみごと」と本気で拍手できるエンタテイメントだった。
にも拘らずこうなっている理由を私はもう自分で理解している。
シンジとレイ、アスカの関係に答えが出てしまったからだ。
それは私の望んだものとは違うカタチだったから、というだけではないと思う。
そもそも某大型掲示板最盛期、私はLASでもなく、LRSでもなく、どっちにもより切れない日和見派だった。
うっかり余計な意見などを書き込もうものなら「軸足すら定まってねぇてめえの意見なんて誰も聞いてねえ!」と一刀両断され、本人ですらぐうの音も出なかったような立ち位置だ。
それでも楽しかったのだ、多くの人が己の魂の叫びをぶつけ合っていたあの空気感が。
しかしあれから長い時間が経過し、今更アスカにもレイにも、もちろんシンジにもそこまで思い入れなど無くなっていると自分で信じ込んでいた。
私がエヴァに求めているのはもはや納得のいく結末とそこに至る背景であり、それさえ与えられれば今更シンジが誰とくっつこうが、あるいは誰ともくっつかなかろうが、そんなことはどうでもいいことなのだと。
だが違った。
私はシンジがいずれこれ以上ないくらいの幸福な結末に至り、その隣にはレイかアスカ、あるいはその双方がいることをなんの根拠もなく自分勝手に確信していたのだ。
そしてレイ本人もアスカ本人も、主人公の隣で本当に幸せになっているはずだと。
だからこそ『Q』の衝撃も乗り越え、「エヴァ? 好きですよ」と即答できていたのだ。
だが違った。
それは劇場版を見た方々であればご承知のことだと思う。
私は考察厨でも、物語の展開や結末に納得や高尚さを求める眼鏡クイっ系のオタクでもなかった。
なんのことはない、ただただ主人公がヒロインたちと幸福な結末を迎えることを望む、節操なきハーレム・エンド厨に過ぎなかった。
現実ではありえないばかりか、それがそう幸福な結末だとも思えないからこそ、創作の世界ではそれを望んでしまうような。
お笑いである。
四半世紀追い続けてきたエヴァンゲリオンに私が求めていたのは、実際にそうなったら自分でも「陳腐!」「エヴァにそんなの求めてねぇから!」とぷぎゃるに違いない結末だったのだ。
そしてエヴァがそんな結末に至るはずがないことをある程度理解できていながら、完結しないことによって安堵も得ていたのだ。
いわば「シュレティンガーのエヴァンゲリオン」だったわけである。
だが箱は開いてしまった。
物語は閉じてしまった。
そこには厳然と「答え」が明示されている。
そのせいで今、私は沈んでいるのだ。
いや沈んでいるどころか、のたうち回りそうな気分になっている自分に驚いてさえいる。
私が――俺が望んでいたのはシンジとレイ、アスカが幸せに共にいるという、冷静に考えれば「ありえない結末」だったというわけだ。
そうと知りつつ、「完結しない物語」であるエヴァンゲリオンに安心して、自分勝手に望み続けてきていたというわけだ。
ははは(ヾノ・∀・`)ナイナイ
だが昨夜、四半世紀にわたった一睡の夢は終わった。
終わったのだ。
だがもうこの歳になるまで、言われるまでもなく充分に現実を生きてきた。
目を覚まして現実へ戻ろうとかいう次元ではなく、共に熱くエヴァンゲリオンを語った友人の幾人かは現実を生ききって、人がまだ理解できない死後の世界へ行ってしまってもいる。
だからもう一度、夢を見ようと思う。
エヴァンゲリオンが与えてくれた心の動き――感動を妄想に変えて、俺にとっての理想的な結末に至るシンジやレイ、アスカの存在に影響を受けたキャラクターたちの物語を紡ぐのだ。
陳腐でありふれた、ご都合主義の、すぐに忘れられる物語。
でもそれは確かに「エヴァンゲリオン」という珠玉の物語が、人の心にとんでもない影響を与えたのだという証明の端くれのひとつだとは思うから。
『小説家になろう』が、今はここにあることを感謝したいと思う。
最後にこれは本当に心から。
エヴァンゲリオンという作品を知り、楽しむことができて本当に嬉しかったです。
ありがとうございました。
上記をつらつらと書き連ねた上での、たった一つの魂の叫び。
「なんでアスカがケンスケとなんだよ! ケンスケも好きだよ? 好きなキャラだけどさあ!!! あぁあぁああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああぁあああぁあああぁああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!」
でもこんなのを書かずにはいられなくなるほど、心を揺さぶられることはそうそうないと思います。
コロナ禍が明けたら、同好の士と朝まで呑んだくれながら語りたいです。
是非観に行ってみてください、すごい作品だと思います。
そして一緒にのたうち回ってくれる人が一人でも多ければ、私も少しだけ楽になりますw