夢の都
孤独な大学生活を終え、僕に残ったのはヤケ食い癖と脂肪だけだった……。
就職などしたくなかった。
人間が怖くなっていた。
どうしたらいいのか、自分でも分からなかった……。
両親はとりあえず実家に戻って来るように望んでいたが、僕は戻りたくはなかった。
実家に戻ったとしても居場所は無いだろうし、余計に惨めな気分になるだろう。
それに、こんなに醜く太ってしまった肉体を両親に見せたくなかった……。
これから先の事……
将来……
迷いながら悶々と生活をしていた頃、僕は古本屋さんである小説と出合う。
『夢の都』著:月見恭太郎
その小説のストーリーは、主人公の少女ユリナが田舎から歌手になる夢を抱き上京し、様々な困難や壁にぶつかりながらも、一生懸命、夢に向かい、ただひたすら突き進んで行くというものである。
僕は何故か、この小説にいたく感動した。
よくあるようなストーリーだし、話題にもならなかったような本なのに、ユリナの夢に向かって頑張っている健気な姿が僕の涙腺を刺激した。
何度も読み返しては、その都度、涙を流した。
──何故ユリナは、こんなに頑張れるのだろう?
夢があるから。
歌いたいから。
強い信念があるから。
夢や目標があるという事、それによって頑張れる事というのは、とても素晴らしい事なんだと思った。
……思い返してみれば、僕は日々の生活に精一杯で、夢を持つ事を忘れていた。
いつも“学校”という小さな世界でしか生きておらず、視野が狭かったし、その小さな世界でどうやって立ち回るかしか考えていなかった。
『夢の都』を読んで、僕も何か夢を持ちたいと思ったが、何をどうしていいのか分からない。
しばらく考えてはみたが、僕は自分が何をしたいのか、何ができるのか分からない。
うだつが上がらない状態が続いたが、ある日、閃いた。
とにかく現状が変わればいいのだ、と。
東京には、様々な夢を抱いた人々が大勢いる。
みんな何かしら夢を抱いているだろうし、夢を叶えるために上京したり、チャンスを掴もうとしたり……そんな漠然としたイメージがあった。
ユリナが歌手になるという夢を抱いて上京したように、東京に行けば“何か”が見つかるかもしれない。
刺激になるかもしれない。
とりあえず環境から変えてみようと思った。
環境が変われば、何か夢や目標が見つかるかもしれないと思ったからだ。
そう考え、僕は思い切って上京する事を決めた。
いざ上京してみたは良いが、僕は圧倒されてしまった。
東京は……
人が多過ぎる。
電車が複雑過ぎて困惑。
繁華街が恐ろしい。
物価が高い。
人が冷たい。
空気が悪い。
水が不味い。
東京という街が、魔都に思えた。
なんだか物怖じしてしまって、しばらくアパートの部屋の中に引きこもっていた。
……しかし、負けたくなかった。
アルバイトをしてみようと思った。
コンビニの店員。
ユリナも本の物語の中で、このアルバイトをしていた。
……この歳で、生まれて初めてのアルバイト。
今でも両親が充分な仕送りをしてくれているので、働く必要は無かったのだが、誰かと知り合いたかったし、自分を変えたかった。
いつまでも親に面倒を掛けるわけにもいかないし、自立をしなければ。
そして、“何か”を見つけたかった。
しかし、そのバイト先でも、僕はいじめられる事になる。
仕事をなかなか覚えない僕に、同僚は「クソデブ」「キモイ」「使えない」など、僕に聞こえるようにわざと影口を叩く。
そして、冷たい態度をとられた。
僕は所詮、何処に行ってもいじめられる運命なんだろうか……?
コンビニでアルバイトを始めて一ヶ月が過ぎた頃、店長が給料を手渡しでくれた。
「お疲れ様」
「あ……ありがとうございます」
「君さ、明日から来なくていいからね」
クビだった。
「えっ……あの……ぼ、僕は、まだ続けていきたいんですけど」
「う~ん、そう言われてもねぇ……。ウチもさぁー、客商売なわけじゃん? 君みたいな暗い子より、明るくて元気な子を入れたいんだよ。分かるよね? 君だって、自分の性格、明るいとは思わないでしょ? それにさぁー、仕事全然覚えてくれないし、違う子のほうがいいだろ? まぁ、そういう事だから。ね、お疲れ様でした」
「で、でも……僕……僕は……」
「あのさぁー、君ってコミュニケーション能力が著しく欠けてると思うんだ。いつまで経ってもそのままじゃ、何処に行っても駄目だと思うよ?」
……何も言い返せなかった。
店長の言っている事は正論だ。
ズバリ、その通りだった。
だからこそ、余計に悔しかった。
自己嫌悪で胸が一杯になり、吐いてしまいそうだった。
「まだ居たの? もう帰っていいから。お・つ・か・れ・さ・ま・で・し・た!」
僕は、泣きながら家路についた……。
アパートに戻り、部屋の隅で膝を抱えて座り込む。
涙がぼろぼろ流れて止まらない。
部屋中に自己嫌悪と鬱が漂っている。
……僕は最低、最悪だ。
普通の人が当たり前のように出来ている事ですら出来ない。
親にもずっと迷惑を掛けているし、死んだほうが良いのかな?
生まれてこなければ良かった……。
あぁ、今すぐ消えてしまいたい……。
涙も枯れた頃、何故かやり場の無い怒りが込み上げて来て、僕は部屋中の食料を片っ端から貧り尽くした。
そして、たまたま目に入ったあの本を、怒りに任せてビリビリに破いた。
そう、ユリナが主人公の物語。
僕を上京させるきっかけとなった本。
夢の都……。
ビリビリになったユリナの挿絵を見て、自分のしている事は愚行だと気づいた。
ユリナは何も悪くないのに……。
ごめんね、痛かったかい?
ごめんね、ごめんね、ごめんね……。
僕が馬鹿だったよ……ごめんね……。
再び自己嫌悪と鬱がぶり返し、堕ちるところまで堕ちた。
僕は、いつの間にか意識を失ったように眠っていた。
そして、死にたくなる穴の夢を見ていた。
僕は穴の底に向かって落ち続けている。
地上を見上げると、穴の入口から、今まで僕をいじめてきた人々が、笑いながら落ちてゆく僕を覗き込んでいた。
「……あぁ、今日は底まで落ちるかもしれない」
底には、死が待っているような気がする。
底まで落ちてしまったら、きっと僕は死にたくなってしまって、夢から醒めたら自殺をするのだろう。
そう思ったら、急に恐ろしくなった。
死にたいのに、死にたくない。
恐怖、それは叫びに変わった。
「うわあああああああああああああぁぁぁぁぁ!!」
僕は叫びながら夢から現実に戻った。
それから最悪な精神状態がしばらく続いた。
生きているのか死んでいるのか、分からない状態になってしまった。
この頃の記憶は曖昧で途切れ途切れだ。
人間には防衛本能というものがあるらしく、最悪に辛い時期だったから、思い出せないように脳が機能したのかもしれない。
コンビニに食料を買いに行く以外に、外出はしなくなった。
買い溜めして、馬鹿みたいにドカ食いしていたような気がする。
たくさんの菓子パンとマーガリンの香りが微かに脳裏に焼き付いている。
食べている時だけ、少しだけ感情が湧いた。
あぁ、まだ生きてるんだって。
一年半くらい引きこもってた。
虚無の世界。
何をしても虚しかった。
自分が自分じゃないみたいだった。
あやつり人形を操る人が、僕の体を糸で動かしてるみたいな感覚だった。
しかし、そんな毎日の中でも、どうしようもなく人恋しくなる夜があった。
……誰かとお話したい。
……誰かと繋がりたい。
……今、ここにいると叫びたい。
世は、パソコンが続々と一般家庭にも普及し始めた頃。
僕はパソコンを購入した。
インターネットという別世界。
世界中の人々と繋がれる空間。
寂しさを紛らわせるには打ってつけだった。
僕は、電子世界の虜となった。
現在、二十七歳、無職。
両親からは、今でも仕送りを貰っている。
さすがに両親も、僕に何も期待をしなくなった。
実家に帰って来いとも言わなくなった。
完全に呆れ果てている。
ヤケ食い癖は酷くなる一方で、毎日のようにしている。
そのせいで、仕送りのお金だけでは食っていけず、給料が日払いで出るアルバイトを時々する。
主に肉体労働。
コミュニケーション能力が著しく欠乏している僕にとって、人と接する仕事よりは幾分か気が楽だった。
どうせ一日限りの付き合いだ。
しかし、そんな生活をいつまでも続けていける訳がない……。
両親も老いてゆく。
いつまでも元気でいられないし、いつかは必ず死ぬ。
順番的に考えれば、僕より先に両親のほうが先立つ確率が高い。
両親が死んでしまったら、僕は本当にひとりぼっちだ。
親戚もいないし、天涯孤独の身になってしまう。
僕と同年代の人たちは仕事をしっかり持って働いていて、結婚をして子供を育て、家庭を築き上げている人も中にはいるだろう。
それなのに……僕は……。
将来の事を考えると、絶望的すぎて発狂しそうになる。
僕の未来はどん詰まり。
なんの発展性もない。
オンラインゲームの世界に逃避して、惰性ながらもチャットで馴れ合って、寂しさを紛らわせているだけの人生。
過食して、醜く太りゆくだけの人生。
そんな事ばかり繰り返す人生。
これって人生っていうの?
生きているって言えるの?
正直、生きているのに疲れてきた……。
三十歳までは生きられないと思う。
それまでに、練炭を焚いて自殺しようと考えている……。