依頼人
麦わら帽子の女は私のハンチング帽を見とめたらしく、ベンチの方に歩み寄ってきた。かなりの長身だった。背は百八十はあるだろう。私より二十センチメートルばかり高い計算になる。
「鈴村です。サカモト探偵事務所の方ですか?」
私はうなずいた。
「・・・三十分もお待たせしてしまって。どうお詫びしていいものか」
麦わら帽子を脱ぐと、頭を下げた。私は腕時計を見た。分針は六と七の間を指していた。時計を修理に出された方がいいようだ、と挨拶をしようとしたが、女の顔を見て、口をつむぐことにした。頭を上げてください、と場を取り繕って、ベンチに座るようにすすめた。
鈴村紀子は憔悴しきっていた。目は落ち窪んでおり、瞳には影があった。ふっくらとした頬は強張っていて、微笑の浮かべ方を忘れてしまっているようだった。
事務所に持ち込まれる依頼は大きく三つに分けられる。
一つ目は、迷いネコ、迷いイヌといった、行方不明になったペットを探してほしいという依頼。一週間前に事務所を出奔した助手がこの種の問題に精通していた。
二つ目は、浮気・不倫調査の依頼だ。恋に溺れた人間ほど取り扱いにくい人種は存在しない。彼ら、或いは彼女らが、私の懐を潤してくれているわけだが、感謝したことはない。礼状のひとつでも送った方がいいのかもしれないが、筆不精なので書けずにいる。
残りのひとつが、暴力・殺人事件の調査といった血なまぐさい依頼だ。流血をいとわないタフな探偵だけが請け負う権利を持っている。事件を解決し、傷ついた探偵を癒すことができるのは、女の柔肌と熱いコーヒーだけだ。小説ではそのように相場が決まっている。
このタイプの依頼が私の事務所に舞い込んだことはない。今後とも持ち込まれることはないだろう。探偵小説を読みすぎたドン・キホーテではないのだ。期待などしない。しかしながら、迷いペットを捕まえる際に、噛みつかれたり、引っかかれたりして、血を流すことはあるので、受ける権利は持っていると自負している。迷いネコにひっかかれた傷を、ナイフで切りつけられたものだと偽って、なぐさめを得る方法がないか模索しているが、回答はまだ出ていない。
鈴村紀子の顔を見て、彼女が持ち込んできた依頼はどのタイプにもあてはまらないものだと分かった。憔悴した瞳が物語っていた。
話を伺いしましょうと言うと、彼女は私の隣に腰かけて、右手にさげていたハンドバックを我々の間に置いた。伏し目がちに話し始めた。
「知り合いからそちらの話を聞きまして。・・・申し上げ辛いことなのですが、絵に取り憑いた霊を祓っていただきたいのです」
「私は心霊研究家ではありませんよ、鈴村さん。私立探偵だ。浮気や不倫の調査はします。専業ではないが、失踪動物の捜索も請け負ったりする。しかし、幽霊を相手に胸襟を開いたりはしない」
私は肩をすくめた。横顔を覗いてみたが、眉の一つすら動かなかった。彼女は砂場に捨てられたコカ・コーラの空き缶をぼんやりと見つめていた。
「知り合いも貴方が断られるだろうと申しておりました。霊能力というのですか、嫌っておられるそうですね。・・・しかし、どうしてもお仕事をお願いしたいのです。霊媒師の方に何度もお祓いをしていただいたのですが、酷くなる一方でして・・・」
鈴村紀子はハンドバックからハンカチを取り出すと、目元をぬぐった。涙が頬をつたって、首筋へと流れていった。
「無理もない。その手の稼業の連中の九分九厘は、霊媒師の皮をかぶった拝金主義者ですよ。もっとも、残りの連中も霊媒師という名の拝金主義者に過ぎないが」
良心的な霊媒師を見つけ出すのは、減量に苦しんだことのないボクサーを見つけ出すのと同じくらいに難しい。残念ながら、私はまだお目にかかったことがない。
彼女は強張っていた頬をさらに強張らせた。ジョークの冴えの方はいまいちだったらしい。
「分かりました。・・・お引き受けします。しかし、道に迷ったペットを探すのとはわけが違う。高くつきます」
鈴村紀子は神妙な面持ちでうなずいた。
「基本料金や調査費用は結構。霊を祓うことができたら、成功報酬をいただきます。よろしいですか?」
本来であれば請け負わないタイプの案件だったが、今回は事情が事情だった。私の預金通帳の残高は心もとなかったし、それに伴ってアパートの家賃を滞納していた。