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サカモト探偵事務所  作者: 蛇のひげ
古びた御守り
12/14

セーラ服の少女

 まだ朝早いということもあってか、店内は閑散としていた。客は私のほかには誰もいない。ひっそりとした店内には、ショパンのノクターンが流れている。


 店の出入り口が見渡せるように、私はいつものカウンター席を選ばず、壁際のテーブル席に腰かけていた。

 

 側頭部に鈍い痛みがはしり、私はこめかみをおさえた。ウイスキーは夜が明けてもなお、私を苦しめていた。おまけに左脚のすねの傷もうずいていた。

 頭痛の原因は、私の肝臓がアルコール分の分解をいささか不得意としていたからであり、すねを痛めた原因も肝臓に遠因している。

 

 こめかみを押さえ続けていると、次第に痛みは潮の満ち引きのように去っていった。

 私は腕時計を見た。午前七時四十八分、クライアントとの待ち合わせまでわずかばかり時間が残されている計算になる。

 

 カウンターテーブルを一七八才ほどのあどけない顔をした少女が黙々と磨き上げていた。私は彼女を呼び止めた。


 返事がして、カウンターの奥から少女がやってきた。


 私は彼女の顔をまじまじと眺めた。店が改装される以前には見かけたことのない従業員だった。店のリニューアルにあわせて、従業員の顔もリニューアルしたのかもしれない。少女のエプロンの胸元に、「喫茶オオクラ」という文字が小さく刺繍されてあった。


 「コーヒーのおかわりを。皿も下げていただきたい」

 「・・・かしこまりました」


 少女がモーニングプレートを下げていった。私は喫茶店を見まわした。改装を終えたばかりのはずの店内は、改装を行う前よりも古びて見えた。変わったところよりも変わっていないところの方が多く目につく。

 椅子やテーブルなどといった調度品の類は、あいかわらずビーダーマイヤー様式のアンティークで統一されている。

 暖かみのある色。シンプルで飾り気のないデザイン。まるで変っていない。前オーナーの言によれば、ドイツ産のオークの古材がふんだんに用いられているという壁も、煙で燻されたような褐色のままだ。

 絵画だけが変わっていた。扉のそばの壁に、三か月前まではエドワード・ホッパーの「ナイトホークス」の複製画がかけられていたが、今ではグロテスクなシュールレアリスムの絵に変わってしまっていた。

 コーヒーカップとシーサーが、水銀のように柔らかく変形したところを描いた絵だ。こぼれだしたコーヒが、机の縁をつたって滴り落ちている。床に落ちる寸前になると、濃褐色の水滴は重力に逆らい、ゆるやかなカーブを描きながら天井へと上昇していっている。

 

 カフェイン中毒の治療を目的として描かれた絵なのかもしれない。

 

 コーヒー豆のすりつぶされる音が止んだ。少しして、女がコーヒーを持ってきた。先ほどの少女よりも小柄な女性だった。長い髪を頭の後ろでひとつにくくっている。髪の色は淡いブラウンに近い。喫茶オオクラのオーナー、大倉玲子だった。


 「お久しぶりです、サカモトさん」


 と言って、彼女はテーブルの上にコーヒーカップを置いた。私はテーブルに広げていた「チャンドラー名言集」を閉じた。


 「リニューアルオープンして、最初のお客様がサカモトさんですよ。いつもごひいきにしてくださってありがとうございます」


 小さな口から八重歯をのぞかせて、彼女は言った。てらいのない笑顔だった。


 「今日はお仕事でこちらに?」

 「ええ」

 「お互いに気を張って、朝から元気を出していきましょう!」


 玲子は自らを鼓舞するように胸元で小さな拳を握りしめた。私は微笑みかえして、コーヒーをすすった。


 「よろしければ、夜もいらしてください。新しくお酒も入りましたから」

 「時間の都合がつけば、ぜひ」


 夜を迎えると、喫茶オオクラはBARと化す。時間の都合がいつもつかず、「BARオオクラ」にはまだ一度も足を運べていない。


 「それでは、サカモトさん。ごゆっくり」


 玲子は軽く頭を下げると、ポニーテールを揺らしながら、カウンターの奥へと姿を消していった。私はふたたび「チャンドラー名言集」を開き、手元に目を落とした。

 

 


 ⁂





 五分ほど経った頃だった。ベルが鳴り、扉がきしみながら開いた。私は顔を上げた。店に女性がふたり入ってきた。

 ひとりは一五六才の少女だった。濃い藍色のセーラー服をまとっている。五月の終わりは目の前だというのに長袖の冬服を着ていた。黒髪が肩にかかっている。

 もうひとりは年をとっていた。年齢は五十代手前といったところだ。白いジーンズに、茶色いクルーネックのTシャツを着て、その上にクリーム色のニットを羽織っていた。赤みのかかった茶髪は短く切りそろえられていて、耳がのぞいていた。

 

 私は立ち上がった。向こうもこちらに気がついたらしく、足を止めて、会釈した。私は腕時計を見た。定刻通りだった。

 

 私はテーブル席にふたりを招いた。向かい側の椅子に母親が座り、はす向かいに娘が座った。


 「長瀬さん・・・でよろしいですね?サカモトです」

 「ええ。長瀬綾と申します。隣りは娘の文香」


 母親が歯切れよく答えた。娘がおずおずと頭を下げた。そのまま伏し目がちに私をうかがってきた。探るような目つきだった。


 「ところでコーヒーはお好きですか?ここのコーヒーはなかなか悪くない味がする。ぜひ一杯。紅茶もありますので、ご安心を」


 ふたりは紅茶を頼んだ。


「おおまかな経緯はすでにお母さまから伺っております。ですが、当事者ご本人の口からも直接話をお聞きしておきたい。事件の発端や、具体的にどのような現象に遇われているのかを」


 私は娘の文香に尋ねた。少女は私から目をそらすと、落ち着きなく髪の先端を触った。

 母親がうながすように、彼女の肩に手を置いた。髪をいじる少女の指先はわずかに震えていた。

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