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サカモト探偵事務所  作者: 蛇のひげ
古びた御守り
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錆びついたボルト

 晴奈の月命日を迎えたので、駅前の酒屋で日本酒の一升瓶を買った。グラジオラスの花束も買った。


 我が事務所兼住まいの同居人こと大宮晴奈。享年二十五才。永遠の二十五歳だ。死因は自殺。生まれも育ちも神戸だという。

 かつらぎ荘二〇三号室に越してきて長くなるが、私が晴奈について知っていることはこれだけでしかない。

 墓の場所すら知らない。

 

 ふだんは陽気すぎるほどに陽気な彼女だが、話題が自分自身のこととなるとたちまち口を閉ざす。黙ってテレビのボリュームを上げるか、酒瓶をあける。

 私も必要以上には訊ねない。誰しも人にはうち明けたくないような身の上話を一つか二つは抱えているものだ。たとえ幽霊であったとしても。







 副業を終えて、かつらぎ荘に帰った時、時刻は二十二時を回っていた。酒瓶を足元に置いて、玄関の鍵を開けていると、音を聞きつけたのか、隣室の二〇二号室の扉が開いた。赤ら顔の男が出てきた。年齢は五十代手前といったところ。隣人の井上だ。いや、井木だったかもしれない。


 「おい」


 人を呼び止めるだけにしては、いささか声の調子が乱暴だった。

 私は鍵をまわすと、鍵穴から鍵を抜き、彼に向かい合った。井上もとい井木は、茶色い作業服を着ていた。薄汚れているうえに、太腿の辺りにはタールのようなものがつき、黒く変色している。襟元は汗でにじんでいた。離れていても汗が匂いそうだ。風のない夜で幸いだった。

 彼はどうやら私を睨んでいるらしかった。


 「サカモト。私の苗字はオイではない」


 彼の眉間にしわがよった。無言のまま近づいてくると、抵抗する隙も与えずに胸ぐらをつかんできた。私の顔を彼の鼻息がかかるほどの距離まで引きよせると、カマキリのように首を傾げた。私の瞳をのぞきこんできた。私は微笑んでみることにした。酒臭い吐息を顔にあびた。

 

 「今日は私の誕生日じゃないんだが」


 彼は何も答えなかった。彼の背後をうかがってみたが、暗がりが広がるばかりでもちろん誰もいなかった。私の誕生日の日付けを勘違いしたかつらぎ荘の住人たちが今もどこかで息をひそめ、飛び出すタイミングをうかがっているというわけではなさそうだ。もっとも、彼が照れを隠すように笑って、痛くなかったかと、肩を叩きがら私のよじれたシャツを直す姿は想像し辛いものがあったが。

 

 「さっきからテレビ、うるせえぞ!」

 

 耳をすますと、たしかに私の部屋の中で男たちが怒声を発しているようだった。わずかに遅れて銃声が鳴り響く。男のひとりは、衛生兵を探しているらしい。声の荒げようからして重傷なのだろう。


 「ぼくのせいじゃない」

 

 声が震えないように唾を飲み込んだ。マーロウの台詞だ。読み返したばかり。題名は何だったか。プレイバックだったか、高い窓だったか。忘れてしまった。

 彼の腕が震えた。胸ぐらを掴む拳に力がより込められたようだ。喉元が締め上げられ、息苦しくなった。抱えていた花束が腕をすり抜けて廊下に落ちた。

 

 「なめてんのか!」


 彼の唾が飛び散ってきた。

 私は晴奈から教わった痴漢撃退用の護身術を思い出し、実践すべく、胸ぐらの拳を包み込むように握りかえした。全身を相手の身体の外側にねじって、バランスを崩そうとした。


 しかし、彼は微動だにしなかった。足に根でも生えているらしい。


 「猫じゃないんだ。ひとを舐める習慣は持ち合わせていない」


 変わらず減らず口をたたく。彼の眼光の鋭さが増した。言わなければよかったと後悔したが、あとの祭りだ。井上はさらに喉元を締め上げてきた。錆びついたボルトをスパナで締め上げるかのように。私は悲鳴を必死に押し殺した。


 その時だった。猪本さん、としわがれた声が私の背後から聞こえた。


「猪本さん、夜も遅いんだから声は落として頂戴ね。今日が何日か忘れたわけじゃあないでしょう?」


 彼は私の背後の人物をにらみつけた。不愉快そうに顔をゆがめていたが、やがて酒の酔いが一気に醒めたとでもいうように真顔になった。


 「・・・バアサン。今日は何日だ」

 「二十四日だよ」


 その言葉を聞き、彼ははじかれたように私を突き飛ばした。私はよろめいた。態勢を整えようとしたが、意思に反して体の反応は鈍く、尻をしたたかに打つ羽目になった。

 顔を上げると、猪本があわてて外階段を駆け下りて行くところだった。


 「あのようすじゃあ、供え酒。買い忘れてたみたいだねぇ」


 声のした方を振り向くと、腰の曲がった老婆が立っていた。かつらぎ荘の大家だった。曲がった腰のうしろで両手をくみ、眠たそうな眼で私を見下ろしていた。

 

 手を差しのべてきた。ひとりで立ち上がれますよ、と首をふった。家賃を、と冷ややかな言葉が返ってきた。

 

 「先月ぶんと先々月ぶん。支払いを」


 大家は手のひらをかざして催促した。犬を躾ける時のかざし方にそっくりだった。


 「・・・少しお待ちを」


 私は立ち上がると、ポケットから鍵をとりだし、玄関の鍵穴にさしこんだ。鍵をひねり、ドアを開けた。


 




 ⁂

 

 



 

 大家は家賃を受け取ると、そそくさと帰っていった。老いを感じさせない足どりだった。

 

 明日は季節外れの雪だわね、家賃を渡すと大家は言った。もう降りました、と答えておいた。

 

 月末のこの時期になると、滞納した家賃の支払いに追われる。そのたびに東奔西走の憂き目にあうが、今日は例外だった。鈴村家からの依頼で手にした報酬が少なからず手元に残っていた。

 封筒から一万円札を抜き取り、明かりにかざす。一万円札のなかの福沢諭吉が私に微笑みかけているように見えた。私も微笑み返す。

 彼の生涯には露ほどの興味も持ち合わせていないが、彼の顔をこうして拝むのは好きだ。

 

 私は一万円札を封筒に戻し、封筒を玄関の靴箱に隠した。


 月に一回程度ならこのタイプの依頼を受けてもいいかもしれない。月末に食費を切り詰めることも、滞納した家賃の件で大家にせびられることもなくなるのだから。


 和室のほうでは、今もなお戦争が続いているらしかった。けたたましいプロペラの音と砲弾の炸裂音が聞こえてきた。

 私はネクタイをゆるめた。いつもなら上がり框に腰かけて、オリオンのココアシガレットをくわえるところなのだが、先ほどの件がある。麗しき隣人が帰宅する前にテレビのボリュームを落とすこととしよう。

 

 私は靴を脱ぎ、部屋に上がった。

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