さびれた事務所
事務所の電話が鳴った。間違い電話なら一週間ぶり、仕事の依頼なら二週間ぶりに鳴ったことになる。
クロスワードパズルを解いていた手を休め、軽く肩をほぐす。
四畳半一間の和室にちゃぶ台が一つ、事務所の全てだ。机の上で鳴っている黒電話は、祖父から譲り受けた年代物、骨董品といっても過言ではない。
胸ポケットからシガレットケースを取り出してタバコを咥える。電話をとるのにはコツがある。恋人の家に電話を掛けるときのような慎重さとタイミングが求められる。将来、秘書を雇う際には、面接の質問事項に電話のとりかたを加えるつもりだ。
ヒントを出すならば、一コール目では早すぎるし、七コール目では遅すぎる。
瞬発力を試すテストではないのだ。あまりに早く受け答えをすると、客に飢えているととられかねない。悠長に構えていればいいのかというとそういう訳でもない。クライアントに飽きられてしまう可能性がある。クライアント達は忍耐という文字を知らないらしい。私はおかげで過去に依頼と思しき電話を三件も逃すはめになってしまっている。
最適解は三コール目から五コール目の間、クライアントに余裕を見せるため、あえて私は六コール目で受話器を手に取った。
若い女の声がした。
「サカモト探偵事務所で間違いないでしょうか」
「はい。ご依頼の内容は?」
「・・・その、電話では話し辛いと申しますか。・・・可能であれば、直接お会いしてご相談したいのですが」
「分かりました。では、事務所の方でお伺いします、と本来であれば言いたいところなのですが、ただ今改装中でして。事務所の近くに糸奥という公園がありますので、そこでお待ちしています」
「・・・公園ですか」
不服そうに女は言った。私は無視した。
「ベージュのハンチング帽を被った男がいたら、私だと思ってください。待ち合わせのサイン代わりです。・・・名前をお伺いしても?」
女は鈴村紀子と名乗った。細々とした事務的な確認を済ました後、受話器を置いた。二週間ぶりのクライアントだ。逃さぬように慎重にならなければなるまい。
結婚はしていない。婚約者がいると言っていた。おおかた興信所を利用して、男の身辺調査をしようという腹積もりだろう。婚約者には同情の念を禁じえない。
男女間のもめごと、浮気調査はお断り、と事務所を立ち上げて間もない頃は銘打っていたが、今では看板を書きかえてしまっている。
ポリシーに反するが仕方がないのだ。腹は減る、悔しいが。高楊枝をくわえて、往来を歩けるほど私はたくましくない。
腕時計を見てみると、すでに一六時を回っていた。
私はタバコを咥え直すと、カバンに荷物を詰めて、家を出た。職場に向かわなければならない。副業の時間だ。
タバコは仄かにココアの味がした。オリオンのココアシガレット、私はこいつをタバコと呼んでいる。市民権は未だに得られていない。
禁煙の口慰みに咥えているというわけではない。そもそも喫煙者ではないのだから。禁煙中かと訊ねられたら、否定もしなければ肯定もしない。クライアントに想像の余地を与えることにしている。仮に思い違いをしたとしても、それは私のせいではない。