002-5
まず、丸い舞台の中央にはボクが居た。
つぎにボクの周囲にはゾンビが居た。3匹だ。
手には鉄剣。衣服は軽装。靴底に感じる床は平らな石畳。足運びに問題はない。ゾンビたちは相変わらず、「あー」とか「うー」とか、とりあえず意味のない声を出している。歩きながらボクに近づいてきている。そんなボクやゾンビたちのことを多くの観客たちが見ていた。半分期待して、半分期待しない目でボクたちのことを見ていた。ゾンビたちは観客の目を気にしていないようだった。
「人助けだと思って」、門番の人は言った。
「なんで人を助けないといけないの?」、素朴な疑問をボクは口にした。
「人は、その、なんだ、助け合いが大事なんだよ」、父さんは自信なさげに口にした。父さんが言うなら、たぶん、そうなんだろう。人助けは、きっと大事なことなんだろう。とても大事なことなんだろう。たぶん。
ボクの前に10人の若者が成人の儀式に挑んだ。
ゾンビが10人の若者を美味しく食べてしまった。
「今年のゾンビは活きが良い」、ボクは覚えたての言葉を呟いて、用法があっているのか少し悩んだ。ゾンビたちはゾンビたちなりに、いつだって元気な生き物だ。今年も来年も百年後も、きっと活きが良いはずだった。
1人目が喰われた。2人目が喰われた。3人目が喰われた。サイコロやコイントスなどの博打とは違って、こうなると4人目も喰われることが決定する。祭りが始まる前までは自分の勝利をイメージできた。大小の恐怖はあったとしても、自分が勝って生き残るところを想像できていた。けれど、目の前で3人もゾンビに食べられてしまうと、3人の断末魔を耳にしてしまうと、これはもうダメだ。自分も食べられてしまうイメージしか湧かなくなって、事実としてそうなる。
今度こそ、と、若者たちの勝利に賭けていた街の人たちも、次も負けるだろうなと思うようになって、財布のひもが固く締まった。無駄遣いはしたくない。勝ったり負けたりだから博打になる。負けしかないなら博打にならない。お金を捨てるだけの無駄な行為だ。
5、6、7と続いて、47人の全員が負けたという珍しいお祭りが見られることを期待していたボクを探していたのが、街の門番の人だった。夜には街の門を閉じてしまうから、門番の仕事は暇になるらしい。息を切らせていた。ボクのすがたを見つけて喜んだ。
三方向から寄ってくるゾンビのうち、一番近いゾンビに向かってボクは歩き出した。ゾンビは食べなくても元気な生き物だけど、その代わりに痩せている。だから体重は軽い。ボクの半分あるかないか。まっすぐ近寄って、まっすぐ靴底で胸骨を蹴り飛ばせば、ポキポキと胸骨が折れる感触がして、ついでにゾンビは後ろ向きに倒れる。
Yの字の真ん中でぼーっと立っていたなら、三方向からゾンビに囲まれるに決まっている。なのに、街の若者たちは舞台の丸の中心で、なぜだかゾンビに囲まれるのを待っていた。丸の真ん中には、街の人を惹きつけるなにかがあるのだろうか。
みんな、舞台の中央が好きだった。若者たちも、観客も、みんな。
3X1X1の答えは死だ。
1X1X3の答えは生だ。
3対1を1回するのと、1対1を3回するのでは答えは変わる。
街の人たちは計算が得意なはずなのに、こういう計算は苦手らしい。
仰向けになって倒れたゾンビが起き上がろうとして、ちょうど蹴りやすい高さに頭を持ちあげてくれた。だからボクは、鉄板入りの靴先でもって、思いっきりあごの下から蹴り上げた。喉仏を潰して、喉奥の骨を突き破って、靴先の鉄板はゾンビの脳幹を破壊した。
これでまずは1匹目だった。
街の偉い人の都合では、このまま負けが続くのはよくないことだった。
本来なら、1人目から3人目までの裕福な家庭に育った若者たちはゾンビに勝つ予定だった。けれどもゾンビのほうはそんな話は聞いていなかったらしく、空気を読まずに勝ってしまった。初戦の勢いにのって、そのまま3人目まで喰い殺してしまった。人がゾンビに喰い殺される光景の恐怖に押しつぶされて、どんどんと街の若者たちが喰い殺されてしまった。
勝ちの後には勝ちが続きやすい。負けの後には負けが続きやすい。人間とゾンビの戦いはサイコロやコイントスなどの博打とは違って、流れがあるものだ。一度は成人の儀式に成功した兵士の人でも、負けの雰囲気のなかでは勝てるどうか怪しいものがあった。
それに、街の兵士として街の人間に知り合いが多すぎた。
去年、成人の儀式を終えたのに、なんで今年も、なんて疑問に思われてしまう。
その点、ボクなら街のなかに知り合いは少ない。だから儀式に混じってもバレないだろうという話だった。お願いされた。人助けだと思ってとお願いされた。けれども今日のボクは、人助けをしたいと思う人ではなかったし、ハンターだった。
『ムダなことはしない』、これはハンターの掟の一つだ。
「人助けしたいなら、父さんがすればいい」、ボクは言った。
「さすがにそれはムリがあるだろう」、父さんは年齢を感じさせるため息をついた。
ボクとしては、まぁ、どうでも良かった。
成人の儀式に臨んだ47人は、自分の意思でそれを選んだ。違う人生も選べたのに、戦う道を選んだ。なら、選択したことの結果を素直に受け入れるべきだと思っていた。それは、ボクらしくない偏った考えだと、ボク自身が思ってしまう考え方だった。選んだ道が間違いなら、即座に引き返す、それがいつもの考え方のはずだった。ハンターとしての当たり前の考え方のはずだった。
今日のボクのこころのなかには、違和感があった。
今日が今日という日でなければ、素直に頼みを受けていたのかもしれない。
今日、この街の裏道で、生きる道さえ選ぶことを許されなかった彼に出逢っていなければ、門番の人の頼みを素直に受け入れていたのかもしれない。ただ、今日は今日という日だったから、なぜだかボクは、47人の若者のことも、街の偉い人のことも、門番の人のことも、まったく助けたいとは思えなかった。
人を助けなかった人たちを、助けたいとは思えなかった。
ボクの感情なら、むしろ、反対側を向いていた。感情の名前はわからなかった。怒りに似ていた。虚しさにも似ていた。心地の良い感情でないことだけは確かだった。不愉快な感情であることだけは確かだった。
彼の瞳の奥を覗き込みすぎた。彼の瞳のなかに満ちていた怒りの欠片が、ボクのこころのなかに混じりこんでいた。ボクのなかに混じってしまった彼が、赤錆色の金属片を強く握りしめながら言った。金属のささくれで手のひらの皮を裂いて赤い血を垂れ流しながら言った。「死ねばいい。困ればいい。47人が死んだ。だからなんなんだ。それっぽっちがなんなんだ。――もっと死ね!!」、ボクのなかの彼が叫んでいた。
泣きながら、笑いながら、ボクのなか、彼は大きな声で叫んでいた。
7の次は8で、8の次は9だ。
もう十分に、こころのなかには恐怖が根付いていた。人間はゾンビに勝てない。十分に学びきった瞳をしていた。戦いの舞台と処刑場の違いがわからない、そんな目をしていた。死ぬのは怖い。食べられるのはもっと怖い。けれど、逃げ出すことは許されない。街のみんなが見ていた。街のみんなが逃げ出すことを許してくれなかった。
――戦え、そして、勝て。
観客席の視線がそれを望んでいた。観客席の声援がそれを望んでいた。だから9人目の彼は、みんなの願いの半分だけに応えた。戦った。負けた。これで観客席の要望の半分だけには応えられたはずだった。戦った分だけ要望に応えられたはずだった。
でも街の人はとても欲張りだから、とても大きな不満の声をあげた。半分くらいは褒めてあげても良かっただろうに。9人目の彼は、半分は願いを叶えたんだ。
2秒か3秒ほどで、ゾンビの全身は黒い砂、ゾンビパウダーになって崩れ落ちた。振り返れば右と左、両方の斜め前に2匹のゾンビが居た。ボクは舞台の上をてくてくと歩く。位置を変えた。ボク、ゾンビ、そしてゾンビ。一直線に並ぶように立ち位置を整えた。
これで後ろのゾンビはとりあえず気にしなくて良い。
目の前のゾンビは彼女だった。
ぱっと見は皮膚が張り付いた骸骨であるゾンビの性別を判断するのは難しい。年齢を判断するのはもっと難しい。女性のゾンビは男のゾンビよりも骨盤の位置がちょっと高い。だから、目の前のゾンビが彼女だとわかった。
お嬢さんか、お姉さんか、おばさんか、おばあさんか、これはちょっと難しい問題だ。人間の女の人が相手でも、これは結構、難しい問題だ。
不思議なことに、ゾンビにも利き腕がある。
父さんに驚きの大発見を教えてあげると、「どんな生き物にもあるだろ」と言われてしまった。確かに栗毛は右利きだ。じっくりと観察すれば、どんな生き物にも癖があることが見えてくる。そもそも、癖の違いが生き物としての種類の違いなのかもしれない。
不思議が不思議のままであってくれる時間は、とても短い。
一晩眠って明日になれば、不思議は常識に変わっているものだった。
目の前の彼女は右利きだった。
だから、利き足は左だった。
片足立ちをしたときに長く立っていられる安定したほうが利き足だ。だから、長く立っていられない不安定なほうが利き足じゃないほうだ。
左、右、左、右、足払い。
左足を身体の内側に、右足よりも右側に払われてしまうと、よろよろと歩くゾンビは簡単に転んでしまう。人間なら手をクルクル回して、ちょっとだけ抵抗する。結局は転ぶ。
彼女は素直に転んだ。受け身をとれるほどゾンビは器用ではないから、横向きになってパタリと倒れた。ゾンビにはゾンビの時間感覚があって、とてものんびり屋さんだ。一年とか、十年とか、百年間をのんびり過ごせる生き物だ。だから、パタリと倒れたことに気付くまで、あと何秒かの時間が必要だった。
ボクの靴底が彼女の首の付け根を踏み砕くのには、1秒も掛からなかった。
ゾンビの骨は人間のものより少しだけ脆いのか、頭蓋骨の向こう側までぐしゃりと潰れ、彼女は彼女の体重と同じだけの黒い砂、ゾンビパウダーに変わった。
10人目の彼は、9人目の彼ほどに、こころが強くはなかった。
最初から足が震えていた。瞳に涙を滲ませていた。それでも舞台から逃げようとはしなかった。勇気があったわけじゃない。考えることを止めていた。行列の前の人が一歩進んだ、だから、自分も一歩進んだ。そんな条件反射にも似た動きで、舞台中央に10人目の彼は現れた。
――戦え、そして、勝て。
10人目の彼は、観客席の求めるその両方に応えることができなかった。
舞台の中央にうずくまり、ただ歯を打ち鳴らし震え、涙を流して手で顔を覆い、ゾンビに剣を向けることさえ出来なかった。だから、といってゾンビが優しく噛みついてくれるわけでもなかった。1人目から9人目までと同じように噛みつかれ、肉を食い千切られ、皮膚を引き千切られ、悲鳴をあげて、のたうち回って、最後はゾンビハンターの巨大なハンマーで頭蓋骨と脳みそを叩き潰されて終わった。
観客席から、彼の潰れた頭に向かって罵りの声が飛んだ。
自分たちが見たいものは戦いだ。勝利だ。怯える子豚がゾンビに喰い殺されるところじゃない。戦って負けるならまだしも、戦いもせずに喰われるなんて情けない。ほんとうに情けない。男として情けないと思わないのか、生まれてきたことが恥だ、あいつは街の恥だ、と、戦いもしない観客席のみんなが口々に汚い言葉を、10人目の彼の潰れた頭に向かって唾のように吐きかけた。
「本当に、よくわからないな」とボクは思ったままを口にした。
「一度もゾンビと戦ったことのない彼らが、一度もゾンビの前に立ったことのない彼らが、どうして文句を言うのか、どうして悪く言えるのか、本当に、街の人の考えることは、よくわからないな」とボクは思ったままを口にした。
ボクの言葉に父さんはもの凄く困った顔をして、門番の人はボクの言葉に怒った顔をしていた。視線はボクではなくて、観客席のみんなのほうを向いていた。猛禽とはまた別の、人間の鋭い目でぼくと同じ方向を睨みつけていた。だから、仕方なく、ボクは11人目の挑戦者になった。
ここでひとつ人間側の勝ちを挟んで欲しい、それが街の偉い人の頼み事だった。
もう、残るゾンビは1匹だけだった。
「がんばれ!」と、ボクの次に舞台に上がる12人目の若者に応援された。
「なにを?」と、ボクは聞き返しそうになって、慌てて口を閉じる。
ボクは今、街の若者で、ゾンビと初めて戦う兵士見習いだった。
ゾンビに怯えながらも、勇気のこころで立ち向かう若い戦士だ。
とりあえず、そういうことになっているはずだった。
そういえば、剣を持たされていたことを思い出した。
ゾンビのなかで一番に危険なところは、口だ。一番に安全なところは、足だ。そしてゾンビたちは防御というものを知らない。必要ないから防御を知らない。
こちらから歩いて近づき、ゾンビの手の届かない高さまで腰を落とし、それから両足を鉄の剣で薙ぎ払った。あまりいい剣ではなかったし、刃筋も乱れていたし、腰を落としていたから全力では振りぬけなかった。それでも、両足の脛の骨を砕く程度には思い切り振りぬけた。
いくらゾンビといっても、足の骨が砕ければ立てない、筋肉が千切れれば動けない。這いずることしかできないゾンビは怖くない。背後に回り込めばもっと怖くない。
でもこんな傷くらいは、30秒もあれば治ってしまうのがゾンビだ。剣で切ってもダメ、槍で突いてもダメ。散弾銃で心臓を打ち抜いてもダメ。ゾンビの傷はすぐに治ってしまう。ダメ、ではあるけれど、筋肉や骨に不具合があれば、ただでさえ不器用なゾンビたちは、もっと不器用になる。不器用に不器用を掛け算したゾンビは、あんまり、まったく、怖くないものだった。
足が使えなくなった。だから腕で這いずりボクに近寄ってきた。けれど背中を踏みつけされて動けなくなった。身体の重心を踏みつけて、石畳の床に縫い留めた。あとは剣の切っ先を頭の後ろ、耳の奥、脳幹に向けて、思いっきり突いて貫いた。
踏みつけていたゾンビの身体が黒い砂に変わると、靴底がジャリジャリと音をたてた。
音がした。声がした。大きな大きな声だった。盛大な拍手だった。歓声だった。喜びの声だった。ボクへの称賛の声だった。雷鳴の轟きのような絶賛だった。誉められた。認められた。けれど、あんまり、まったく、ボクは嬉しく感じられなかった。
たぶん、今日は今日という日だったから、街のみんなの賞賛に、ボクは笑顔を返すことができなかった。
あとのことは、あんまり、まったく、興味がなかった。ボクのあとは勝ったり負けたり、色々だったらしい。次の日の朝、父さんが教えてくれた。ボクの次の12人目の彼がどうなったのか、ボクは知らない。彼の試合が始まる前には集会場を抜け出していた。
とにかく、ボクは、あの場所には、もう一秒も留まっていたくはなかった。
宿に帰ったあとは、栗毛の変わらない様子を見て、それからすぐに眠った。
なんだか、今日は、とてもとても疲れる一日だった。