002-4
夜の天頂に輝く満月が、今夜の舞台を明るく照らす。
篝の籠に火が入れられて、詰められた薪が赤々とした炎を揺らす。
普段は街の広さを圧迫するだけの集会場も、祭りの夜には見物客の重圧に軋んで悲鳴をあげていた。けれど、見物客の歓声が彼の悲鳴を掻き消した。祭りが始まるその前から、街の人々の心は期待に満ちて、ときおりこぼれた一滴が、声となり口から漏れていた。
街の人間のほとんどは、夜、街壁のなかに帰ってくる。夜盗を警戒する外の砦の兵士でさえ、石壁の影に隠れて息を潜める。ゾンビの目は光を見ない。熱を見る。太陽を失った空、光を失った土、そのうえに立つ人の温もりは、どこまでも遠くにまで届く。人の目には見えなくても、ゾンビの白濁とした瞳には見えてしまう。
月の光、星の明かりほどの遠くから届いた温もりを追って、ゾンビたちは果てしない彼方の地から、おぼつかない足取りで、けれども確実に人の街へと歩み寄ってくる。1匹や2匹のゾンビなら麻縄の棘が絡み取る。10匹や20匹のゾンビなら街の石壁が守ってくれる。100匹や1000匹のゾンビが現れたときには死者を覚悟しなければならない。万を超える、幾十万を超えるゾンビに囲まれたときには街の滅びが待っている。
だから街の人間のほとんどは、夜、街壁の影のなかに帰ってくる。
これは、街の人の絶対の掟だ。
舞台を丸く囲むようにして並べられた篝の籠に火が入ると、石畳の床がいっそうに照らし出された。舞台を囲む見物客の顔がいっそうに照らし出された。そして、不快な絵や文様に彩られた金属の箱がいっそうに照らし出された。揺れる炎の造る陰影が、絵や文様をさらに禍々しい存在へと仕立て上げていた。
篝火の炎に揺れる光景は、なぜだか人の目を惹きつけるものだった。
祭りといっても色々だ。春の祭り、夏の祭り、秋の祭り、冬の祭り、新年の祭り、それから満月のしたで行われる成人の祭り。祭りは祭礼とも呼ばれる。祭りは儀式とも呼ばれる。街の男性が、大人の男性として認められるための儀式。成人の儀式。それが満月の明かりのしたで行われる今夜の祭りだった。
大人として認められる条件は、あまりにも簡単だ。手に剣を、手に斧を、手に槍を、弓と銃以外の好きな武器を手に取って、ゾンビを3匹殺せば良い。とても簡単な条件だ。望むのなら、素手で儀式に臨んでも構わない。
街によって成人の条件は変わる。
すべての男性に儀式を求める街もあれば、兵士を目指す若者にだけ儀式を求める街もある。この街では、兵士を目指す若者だけが儀式の対象だった。街のなかではゾンビもタダではない。ゾンビハンターから買い取らなければならない。ひとりの若者につき、3匹のゾンビが必要だ。50人の若者が挑むなら、150匹のゾンビが必要になる。
今夜は、47人の若者が挑むという。
1人につき3匹のゾンビが必要だという。
「合計して、何匹のゾンビが必要だ?」
「たくさん」、間違いでは無いはずのボクの答えに父さんの顔は不満を示した。
街の集会場は、円のかたちをしていた。円は切り株の年輪のように重なり、階段のように一段づつ高くなっていき、最後の一歩を踏み出すと、高いところからまっすぐ落ちて怪我をする危険な造りになっていた。落下を防ぐための内壁と外壁が、一応は用意されていた。外壁は落ちてしまわないように、内壁は舞台のなかに観客がなだれ込まないように。一応は用意されていた。
ボクと父さんは、外壁を背もたれにして舞台中央を眺めていた。内壁に近いほうが舞台が良く見えて観客達には人気がある。けれど、ボクと父さんは双眼鏡を持っていた。だから、外壁を背もたれにしていても手が届くほど近くに舞台の上ならよく見えていた。
いまか、いまか、誰も彼もの瞳が爛々と焦れたこころを語っていた。
街の偉い人が現れて、舞台の中央で語りだす。けれど、誰にも求められてはいなかった。だから長話になることもなく、話は簡潔に纏められた。
「勇気ある若者たちに祝福を」
彼の言葉に続けて、「祝福を」、観客席が一斉に唱和した。
タイミングのわからないボクと父さんは黙って見ていた。
一人目の若者は、剣を手にしていた。鎧をまとっていた。兜をかぶっていた。絵本のなかにでてくる騎士のような姿をしていた。彼の派手な出で立ちに観客席は大いに沸いた。
「どうだ?」
「ダメだね。父さんは?」
「難しいところだが……まぁ、無理だろうな」
人々は熱気に溢れていた。なぜなら、若者の挑戦は賭け事の対象になっているからだ。連続して47回も続けば、なんでも飽きがくるものだけど、賭け事だけは別らしい。
若者の勝利に賭けることはことはできる。払い戻しは1.5倍。若者の敗北に賭けることはできない。挑戦者の名誉を汚す行為だからだ。建前として、と、父さんは語った。わざと負けることはできる。わざと勝つことはできない。つまり、そういうことだ。
ゾンビに負けて喰われても構わない、と、思わせるだけの力がお金にはあるのだと父さんは言う。
銀貨の詰まったこれを厄介な袋に思えてしまうボクには、よくわからない感覚だった。
「なにか買ったのか?」、まるで減っていない袋を見て父さんは聞いた。
「飴玉の袋を買った」、ボクは正直に答えた。
「飴玉を袋で買ったのか、そうか」、父さんはボクを小さな子を見る目で見た。
たぶん父さんは、大きな勘違いをしているのだろうけど、ボクは誤解を解く気にはなれなかった。話したら話したで、きっと、父さんはボクのことを笑うだろう。どちらにしても子ども扱いだから、ボクは誤解を解く気にはなれなかった。
双眼鏡の覗き窓から見える若者は、ボクとそう歳が変わらないように思えた。おおよそ10歳から20歳、そのあいだのどれかに違いない。ガリガリに痩せてはいなかった。食事の量だけ肉がついていた。脂肪は少なめで筋肉は鍛えられていた。背丈はボクより少し高い。体力には自信があるようだった。身体を温める動作のつもりなのか、舞台の中央で鉄剣を振っていた。あるいは、観客を喜ばせるための棒振り運動だったのかもしれない。
いまからゾンビに挑むはずの彼が、戦いの前なのに笑顔を浮かべていた。
「ゾンビは強い、人間は弱い、忘れた奴から消えていく」、ボクの目にはもう彼の最後が見えていた。
彼は今日のために練習を積み重ねてきた。何匹ものゾンビをすでに殺していた。街のなかの裕福な家の生まれなのだろう。筋肉の量がそう語っている。剣の鋼色がそう語っている。手足や胴を守る金属の防具がそう語っている。金に縁どられた兜がそう語っている。立派な騎士がそこには立っていた。中身は空洞だったけれども、立派な騎士がそこには立っていた。
彼の不幸はなんだったのだろう。そこまでは見えなかった。
彼は舞台の中央に立って剣を構えていた。その姿に観客たちは歓声をあげた。歓声は、内壁に張り付くようにして彼を見守る家族の声を掻き消した。なにかを大声で叫んでいた。たぶん、彼の悪いところだ。けれども彼は、それを声援だと思いこんで手を振って返していた。
きっとこれが、家族と交わす最後の挨拶になるとも知らずにだ。
見ていられない。
でも、「見ておけ」と父さんは言う。
誰かの失敗以上に学べるものは無いと父さんは言う。
父さんは小さな酒樽に取っ手をつけたような杯で、喉から酒を流し込んでいた。ボクもお酒が飲みたい気分だった。けれど、ボクはお酒を飲めない。不味いから。父さんが、なんだかズルく思えた。飴玉を一握りくらいは残しておけばよかった。
金属板を二枚重ねにした銅鑼が鳴った。祭りの始まりだ。金属の箱の扉が開き、ゾンビハンターがフックのついた鉤棒で器用に1匹づつ引きずり出す。三つの箱から3匹のゾンビが現れて、観客席の地面が震えるくらいに声が高まった。外壁の板がブルブルと揺れるのを感じた。
箱から引きずり出されたばかりのゾンビたちは困惑していた。右を向いても左を向いても、人、人、人。いったい誰を襲えば良いのかわからず、周囲を見回すばかりだった。まだ、舞台上の彼には気付いていなかった。
ボクは、「いまだ」と誰にも届かない声で呟いた。
もちろん、舞台上の騎士にも届かなかった。
やがてゾンビたちは、舞台の中央で剣を構えて待つ騎士の姿を見つけた。手が伸びる。足が歩きだす。白濁の瞳が、彼の姿を中央に捉える。ゆっくりと、人の歩きよりも少し遅いくらいの速さでゾンビたちは彼に迫った。
ボクの双眼鏡も舞台の中央に立つ彼の姿を中心に捉えた。
彼は緊張にひたいから汗を流していた。少し目に入ったのか、煩わしそうに何度も目を瞬いた。長剣を握る二つの手は金属製の小手に包まれ、目のなかの汗を拭うには向いていない。こんなとき、自分はどうしただろうか。そうだ、汗を拭く布をもってこさせた。その布はどこだ。無い。どこにも無い。見回した。観客席の一番前に、父が居た、母が居た、妹が居た、布で顔を拭ってくれ。なにを考えているんだ、いまは祭りの最中だぞ。落ち着け、いつも通りだ、いつも通りに戦えば良いんだ。落ち着け。練習しただろう。ゾンビなら何十匹も殺しただろう。落ち着け。
息が荒い。音がうるさい。兜のなかで響く。無責任な奴らだ。観客席に座ってただ見ているだけの無責任な奴らだ。奴らの声がうるさい。耳に障る。うるさい。黙れ。黙れ。黙ってくれ。お願いだ。
ゾンビが近い。もうすぐだ。もうすぐ剣が届く間合いだ。一撃だ。一撃で決めろ。こんなのろのろとした動き、藁を巻いた木の柱を叩くのとなにも変わらない。練習となにも変わらないんだ。そう、首筋に一撃だ。それで首の骨が折れる、首の肉が切れる、首の神経が潰れる、それで奴は終わりだ。
なんで両腕を伸ばしている。邪魔だ。俺の剣筋の邪魔だ。下げろ、下げてくれ。違う。俺が剣を上げるんだ。ゾンビの腕よりも高く構えて浅く斜めしたに向かって首への一撃。それで、終わり。俺は、勝つ。それで、勝ち。
近い、近い、遠い、遠い、まだか、まだか、息が苦しい。兜が邪魔だ。汗が邪魔だ。布が欲しい。水が飲みたい。あと三歩、あと二歩、あと一歩。――ッッ!!
「死ね! 死ね! 死ねっ、死ねっ、死ねっ!!」
1、2、3、4、5、彼は目の前のゾンビに鉄剣を全力で振り下ろした。
息がとても荒い。人が持つ5分か10分の有利のうちの、いったい何分ほどを、この10秒で使い果たしてしまったのだろうか。だけど、あまり関係なさそうだった。
ボクの目が、彼の最後を見つめていた。
安堵していた。安心していた。放心していた。雑音。気配。濁った人の声。振り向いた。気付いた。あと、2匹居る。近い、近すぎる。後ろ、背中、右と左の斜めから、身体ごと振り返る。剣を構える。なにかにぶつかる。ゾンビだ。ゾンビの身体に剣先がぶつかった。構えられない。どうする。どうすれば。近い。近すぎる。近寄るな。離れろ。俺の手を掴むな。俺の肩を掴むな。離れろ。強い。離れろ。強く掴むな。足がもつれる。俺を引っ張るな。落ちる。地面だ。背中を打った。口を開けるな。歯が見える。黒く汚い歯が見える。近づけるな。それ以上、俺に近づけるな。離れろ。ほどけろ。ほどけろ。腕の力が入らない。入らない。入らない。重い。重い。重い。近い。近い。やめろ。やめてくれ。噛むな。噛むな。噛むな。俺を食べるな。もうそれ以上、俺を食べるな――ッッ!!
もう、これ以上は見る必要がなかった。
肩を噛まれた。その傷口から紫色の血管が木の根のようにゆっくりと広がり始めた。指先を噛まれたなら手首を切り落とせば良い。肘先を噛まれたなら肘を切り落とせば良い。腕を噛まれたなら肩を切り落とせば良い。肩より先は、切り落とせるものが首しかない。
もう、人間の彼は終わった。
あとはもう、ゾンビになるだけだった。
ゾンビになるまでの10分ほどの短い間、彼はゾンビの胃袋を喜ばせる餌の役割を果たしてくれる。ただ、満腹のゾンビとは出会ったことがない。食べても食べても、どうにもお腹が減るらしい。人間だって、長い目で見ればそういう生き物だから、気持ちはわかる。
そして、この声の意味がボクにはわからなかった。
彼の敗北に、あるいはゾンビの勝利に、観客席は沸き立っていた。声が轟いていた。雷鳴よりも大きく轟いていた。轟く声の意味はわからなかった。喜びなのか、哀しみなのか、怒りなのか、たくさんの人の色々な感情が交じり合った観客席の声の意味が、ボクにはわからなかった。
内壁のすぐそこで涙を流して叫んでいる、たった数人の感情だけが、少しだけわかった。
祭りの進行を手伝うゾンビハンターの一人が舞台に上がって、食事に忙しいゾンビの後頭部を大きなハンマーで、一撃、二撃、それで終わりだった。頭の後ろ、耳の奥、脳幹と呼ばれる部分を破壊すればゾンビは簡単に死ぬ。死んだゾンビは黒い砂のような粉になって消える。黒い砂の名はゾンビパウダーと呼ばれている。食べられない。とても苦い。獣除けには使える。
まだ息をしているように見えた。一瞬だったから、わからない。ハンマーの三撃目は、騎士のすがたの彼に振り下ろされた。そして金属兜がようやく役にたった。彼の頭蓋骨とその中身が完全に叩き潰されるまで、あと三回、ハンマーは振り下ろされた。
死体がゾンビになる前に脳幹が潰されれば、ゾンビとして生き返ることもない。
観客席の極めて一部が泣き叫んでいたけれど、これでようやく一人目だった。あと46回この戦いは続く。人間が勝つにしても。ゾンビが勝つにしても。あと46回、戦いは続く。必要なゾンビの数は、もう、たくさんだ。