002-3
広大な畑を抜け、石壁の門をくぐり、辿り着いたのは窮屈な街だった。
麻縄の線とは違い、石壁は簡単に広げたりはできない。だから畑は横に広がり、だから街は縦に広がる。石壁の門をくぐったときから、見上げた空が半分に減った。ボクは鳥でもないというのに、なぜだか広い空が急に恋しくなった。
人の数は増えるのに、道の数は増えない。だから混雑が生まれる。混雑する馬車の隙間を、それでも街の人は器用にすり抜けていく。馬に踏まれても車輪に巻き込まれても大変なことになるのに、街の人たちは何でもないような平気な顔をして、大きな通りの馬車の隙間をするすると抜けていく。それは、あの感覚に似ていた。手を鋭く伸ばして握った拳、手のひらのなかに捕まえたはずの羽虫が、素知らぬ顔して宙を飛んでいた、あの感覚に似ていた。イラッとくるあの感覚に似ていた。
「……馬車で轢き殺したいのか?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど」
ボクの素直な感情に、父さんの素直な感想が返ってきた。
だから、と言う訳ではないのだけど、街の人たちがなんだか虫のように見えた。行列を作る虫、蟻のように見えた。うろつき回る1匹だけを見つめていると自由な世界に生きているように見えた。けれど、もっと高いところから蟻の行列を見下ろすと、群れの流れには逆らえず、とても窮屈な世界に生きているかのようにも見えた。自由気ままな窮屈のなかで蟻たちは、どちらのほうを強く感じながら生きているのだろうか。ついでに言うと、街の人たちも。
父さんは、少し困った顔をして言った。
「窮屈のなかで生きていると人は窮屈を感じられなくなる。自由のなかで生きていると人は自由を感じられなくなる。両方を行ったり来たりしていると、両方の良いところが見えてくる。それから悪いところが見えてくる。人間は贅沢だから最後には、自由も窮屈も両方ともが息苦しく感じるようになるものだ」
父さんは、少し困った顔をして言った。
いちど街を飛び出していったハンターは、もう街には戻れなくなるという。
街のなかでは不自由すぎる窮屈を感じて、街のそとでは自由すぎる虚しさを感じて、どちらの枝にも止まれない、行ったり来たりの渡り鳥、それがハンターの人生だ。そんな曲を陽気な声で歌う髭面のハンターが居た。
「街のなかに住みたいかい?」、問われたならボクは嫌だと答える。
「街のそとに住みたいかい?」、問われたならボクは嫌だと答える。
「それじゃあ何処に住みたいんだい?」、問われたならボクは口を閉ざしてしまうだろう。
いまではボクも立派なハンター、どの枝にも止まれぬ渡り鳥らしい。
渡り鳥には翼を広げる空が必要だ。空が半分しかない街のなかでは、半分しか生きられそうにない。半分生きて、半分死んで、それは立派なゾンビ暮らしだとボクは顔だけで笑った。
ボクの笑顔の理由がわからなくて、父さんは不思議そうに首を傾げていた。
街に着いて、まずボクたちがすることは商売だった。
ただ、ボクにはまだまだ商売は早かった。ボクは数字が苦手だ。ボクは計算が苦手だ。足したり引いたりなら二桁までできる。でも、掛けたり割ったりは、もう意味がわからない。手に負えない。なにしろボクの手には10本しか指が無い。10を3で割るなんて、指を引き千切らないと計算できない。一本の指には関節が3つあるから、10割る3も、ちょうど計算できる。答えは指が三本と、切った関節が一つぶんだ。自分の指では計算したくない。
「どうして、わからないんだ?」、父さんは言った。
「父さんが教えなかったからだよ」、ボクは言った。
父さんはお酒の二日酔いで頭のなかがぐつぐつのスープ鍋になったときの顔をして、うつむいた。しばらくの間、黙っていた。それから、ぼつりぽつり、父さんは数字の使いかたについて教えてくれるようになった。でも、なかなか上手にはならない。父さんの教え方はいつまでたっても上手にはならなかった。
弓の使いかたや、刃物の使いかたを教えるのはとても上手なのに、数字の使いかたを教えるのはとっても下手な父さんだ。おかげでボクも、なかなか上達できないでいる。
肉屋では冷却樽のシカ肉を売った。ウサギの脂も売った。
服屋では鹿の毛皮を売った。ウサギの小さな皮も売った。
肉や皮を売ると、お金になった。この街のお金は丸い形をした小さな金属板だ。表面には何かのかたちが刻印されていた。そして材質によって価値が変わる。鉄の丸板が一番に安い。銀の丸板が一番に高い。銅の丸板が真ん中になる。
鉄の丸板が12枚で、銅の丸板1枚になる。
銅の丸板が20枚で、銀の丸板1枚になる。
それじゃあ、銀の丸板1枚は、鉄の丸板で何枚分になるのか。ボクにはすっかりさっぱりだ。すぐには答えが出てこない。ボクにはまだまだ商売は早すぎるみたいだった。問題を出した父さんの顔が、そう答えていた。
それぞれ、鉄貨、銅貨、銀貨と呼ぶらしいけれど、街によって形も材質もコロコロと変わるものだから、ボクは憶えるだけ無駄なような気がしていた。東の街だと鉄と銅の順番が変わるし、金属板のかたちも小さな長方形になる。それから板には大小があって、材質と大小と枚数を組み合わせていくと、ボクは街から逃げだしたくなる。
まず肉や、皮や、旧世界の遺物を売って、この街のお金に交換する。この街のお金をクロスボウの矢弾や、小麦や、芋や、街のそとで過ごすために必要な色々に交換する。これを経済と呼ぶらしい。商売との違いは、よくわからない。父さんもわかってない。たまには栗毛の蹄鉄を新しいものに変えたり、馬車の車軸やスプリングを交換したりもする。
こうして旅に必要なあれこれの用事を済ませてしまうと、父さんはボクを困らせる。お金がパンパンに詰まった袋をボクに手渡して、街のなかを歩いて来いとボクに言う。ボクに、いまさら、「街に馴染んでこい」なんて無茶なことを言う。
この袋のなかに詰まったお金は、ハンターとしてのボクの取り分だ。三年前、ボクがハンターとして独り立ちして以来、ボクと父さんの取り分は別々になった。
ボクと父さんは一緒に馬車で旅をする。
狩りは別々にする。
だから、ボクが狩った獲物の取り分はボクのものになる。父さんが狩った獲物の取り分は父さんのものになる。これがハンターの流儀だった。
初めて自分の取り分を渡されたとき、一人前のハンターとして認められた嬉しさと、なんだか面倒な用事が増えそうな悲しさで、ボクは胸がいっぱいになった。
お金の袋を手渡され、道に降ろされ、最後に、「無駄遣いはするなよ」と父さんは声を掛けて、栗毛は挨拶もなしに走っていって、ボクは街のどこかその辺で途方に暮れた。街の人の群れに囲まれて、ボクはひとり途方に暮れていた。
ボクは頭のなかで考えた。
クロスボウの板バネは、まだ交換の時期ではない。矢弾も買い足した。衣服や靴にほつれはないから、修繕も交換も必要ない。腰の後ろに下げた手斧も研ぎにだすほど欠けてもいない。ナイフ、具足、携行食糧、ひとつひとつを確認して、問題がないことを確認する。
考え終わった。ボクには買うべきものが無かった。
お金の袋を持て余し、ボクは誰かの家の壁に背中を預けて、ぼんやりと街の人の流れる様子を眺めていた。買うものがないのに買い物を楽しめというのは、ちょっと無理があるとボクは思った。
街の人は何かを売ったり、何かを買ったり、忙しそうにしていた。
街の子供たちでさえ遊ぶことに忙しい。
この街で退屈しているのは、いま、ボクひとりだけなのかもしれなかった。
こんなとき、ボクは街を歩いて頭のなかに地図を作る。なにかあったとき、地図が有ると無いとでは大違いだ。街のなかにも危険はある。火事がある。地震がある。大嵐がある。街をぐるりと囲んだ石壁がボクらを守ってくれるのは、ゾンビと野盗からだけだ。
大きな火事が起きたなら、街を守るはずの石壁が、釜戸の石囲いに一変するだろう。
街の建物は、木と石と、それからたまに土で造られている。外壁が石で造られていたとしても、内側の床には木の板が張られ、木の家具があって、布のカーテンはひらひらと、石造りの建物でも燃えるときには簡単に燃えるものだ。燃え移るときには簡単に燃え移るものだ。
たった一つの小さな火事で、百年続いた街が滅ぶ、なんてこともあると聞く。
そんなアレコレの言い訳を頭に思い浮かべながら、ボクは歩きだして街の地図作りを始める。理由は、退屈だからだった。夜がくる前に宿へ帰ると、父さんは、少し困ったような顔をする。だから仕方なくボクは歩きだして、頭のなかで街の地図作りを始めた。
街の形はそれぞれだけど、中身はだいたい同じようなものだ。馬車が通る大きな道と、人が歩く小さな路。お店と家。偉い人が住む家と、偉くない人が住む家。それから、とっても偉くない人が住む家。だいたいがこんなところだ。
人間が生きるために必要なものはだいたいが決まっている。だから、お店で売っているものもだいたいが決まっていた。食べるもの。着るもの。あとは身を守る武器だ。それだけで街の半分は説明ができてしまうものだった。
残りの半分は、生活やお金に余裕がある人のためのお店だった。
宝石とか、鏡とか、神さまとか、そういうものを売るお店だった。
旅をするには必要なかった。宝石も、鏡も、神さまも旅をするには必要ない。とくに神さまなんて、「とっくの昔に売り切れだ」と父さんも言った。父さんの父さんも言った。その父さんも言った。いずれはきっと、ボクも口にする運命だ。
家や店は、なかを覗かなくても外壁を見ればおおよその見当がつくものだった。焼いた煉瓦、積み上げた石、その隙間を雨に溶けない堅い泥で埋めた外壁の内側には、相応に高価な品物が置かれたり、売られたりしているものだった。
建物から石の割合が減って木材の割合が増えだすと、それだけ品物の値段も落ち着いてくる。飴玉をひとつ、あまく懐かしい味がした。でも、美味しいとは思えなかった。4歳のボクと今のボクでは、身体の大きさも、舌の感覚も、目に見える光景も、何もかもが違っていた。でも、記憶にかさなる懐かしい味がした。だからきっと、ボクはこのあたりの生まれなのだろう。
飴玉ひとつも街のなかではタダじゃない。
ボクは袋を縛る紐をほどいてお店の人に支払いを一枚――、
父さんは、嫌がらせをするのが本当に大好きな人だった。お金でパンパンに膨れ上がった袋は、すべてが銀貨で埋まっていた。飴玉は3つが鉄貨1枚で、鉄貨12枚が銅貨1枚で、銀貨が1枚だと、つまり飴玉は何個になるのだろうとボクが計算しているうちに、袋詰めされた大量の飴玉がお店の人から渡された。街の人は計算が早すぎる。商売が上手すぎる。
気の重たくなる袋が二つに増えた。
飴玉の袋は、肩に担げるほど重たかった。
通りの脇の路地では街の子供たちが遊んでいた。この街特有の遊びなのだろう。ボクにはルールも、どこが楽しいのかもわからなかった。けれど、子供たちはルールを理解して、はしゃぎまわっていた。
子供の声は甲高い。泣くのも、笑うのも、はしゃぐのも。どれもこれもが子供の声で、ずっと昔はボクや妹も、はしゃぎまわる子供たちの仲間のひとりだった。記憶にかさなる懐かしい光景だった。
ボクは誰かの家の壁に背中を預けて、なんとなく、子供たちが遊ぶ姿を眺めていた。
子供の頃、5歳の誕生日より前は、こんなふうにボクも街の路地で遊んでいた。
「やる?」
小さな男の子の手のひらが、ボクに小石を差し出してくれた。
ボクがずっと眺めていたからだろうか、子供たちのうちのひとりが駆け寄ってきて、ボクを遊びに誘ってくれた。ボクは笑顔を作って、「ううん、やらない」と断った。ずっと眺めていたけれど、子供たちの遊びのルールは複雑怪奇で、結局、わからなかった。
王様の石が真ん中にあって、騎士の石とゾンビの石があって、順番に石を蹴りあって、王様の石を守れば騎士の勝ち。王様の石がやられるとゾンビの勝ち。そこまではわかったのだけれど、子供たち特有の特別なルールがあって、それのすべてを覚えるまでには何日か掛かりそうだった。
小さい子は二回、石を蹴って良い。大きい子は一回だ。
「食べる?」
ボクが飴玉を差し出すと、「食べる」とその男の子は頷いた。
だから、その子の目の前へ肩に担いだ飴玉の袋をどさりと置いた。ようやく肩の荷が降りた。その子は最初、きょとんとした目をしていたけれど、袋のなかを覗き込んで、「きー」とか「きゃー」とか、子供の頃のあの甲高い声で叫んだ。
なんだなんだ、と、周囲で見守っていた仲間の子たちも寄ってきて、ボクはさっさとその場をあとにした。背中の方から、「きー」とか「きゃー」とか、子供の頃のあの甲高い声がたくさん聞こえた。
路地をそのまま歩き続けると、石が減り、木が減り、土が増えてきた。もとは石と木の家だったのだろう。だけど壁が崩れるたびに、その隙間を土で埋めていったのだろう。いまでは木の家というよりも土の家だった。その内側と言えば、もう見るまでもない。
相応の家具と、相応の食べ物と、相応の衣服が置かれているだけなのだろう。
ほんのわずか先、二本か三本かの小路を挟めば街の大通りに出る。街の大通りは活気にあふれ、石で固められた店や、天幕を張った出店が立ち並んでいた。大通りの明るい声がかすかに耳に届くほど近くにあるというのに、ボロがきた土の家々は、街に見捨てられたような昏い顔をして、そこに建っていた。
「なんで?」
幼いボクの質問に、父さんは困った表情を浮かべて何も言わなかった。
ボクの質問の仕方も悪かったのだろう。どうして、この辺りの家々は、こんなにも寂びれて朽ちているのか、具体的に問わなかったボクの質問の仕方も悪かったのだろう。
でもきっと父さんは、「奴隷の家だからだ」とは、言わなかっただろう。
次にはボクの、「奴隷ってなに?」の質問が待っていたからだ。それはきっと、もっと父さんを困らせる問いかけになっただろう。父さんは、奴隷という言葉があまり好きではない。
ただ、「裏通りには近づくな」とだけ、幼いボクは注意された。
表通りの明るい賑わいは、裏通りの昏い沈黙に支えられていた。
どこの街でもそうだった。
もともとはこちらの方が街の中心だった、と聞かされても、信じられないものがある。街が成長するにつれ、古い建物は置き去りにされ、新しい建物が街の顔を飾るようになった。古くなった建物は時間に朽ちていくまま放置され、建物に相応しい住人たちの住居になった。
街の人たちは近寄ろうとしない小路だった。街の兵士たちも近寄ろうとはしない。近寄る意味がなかった。だからこそ、何かのときには役立つ路だった。人や馬車で詰まった道は、もう道ではないし、街の兵士と追いかけっこをするには開けた道は向いていない。
なんとか馬車が通れそうな路を探しながら、栗毛だけでも逃がせそうな路を探しながら、最悪、ボクと父さんだけでも逃げ延びることのできそうな路を探しながらボクは歩いた。
栗毛には自力で何とか生き延びてもらおう。相手がゾンビなら、馬の栗毛が喰われる心配もない。相手が火事や地震なら、諦めてもらおう。残念だ。
そうやって裏側の街を歩くボクの姿は、やっぱり珍しいのだろう。道端にただ座っているだけの人々――、いや、奴隷たちが、ボクの歩く姿を視線だけで追いかけていた。奴隷は人ではない。もちろん、ゾンビでもない。ただこの街の掟では、奴隷は牛馬とおなじ動物という扱いになっていた。
けれど不思議なことだとボクは思う。
牛や馬のほうが、よっぽど手厚く保護されている。どこが牛や馬と同じなのだろうか、ボクは思う。
「街の構造が問題なんだ」と父さんは言った。
人は増える。建物も増える。畑も増える。けれど、一番に早く増えるものは人の数だった。人の数が建物や畑が養える数を超えたとき、人のなかから人でないものを人は造りだすのだと父さんは言った。それが奴隷なのだと父さんは言った。
まだ計算が得意ではないボクだけれども、それくらいは、わかってしまった。
だから、
「おい」
ずっと前からボクの跡をつけていた彼に呼び止められた時、どんな顔をして振り向けば良いのかわからなかった。人に向ける顔をすれば良いのだろうか。動物に向ける顔をすれば良いのだろうか。そもそも、振り向いたほうが良いのだろうか。
ボクは迷った。
「おい」
けれど、二度も呼びかけられては、もう、振り返るしかなかった。
彼は手に、ナイフと呼べばいいのか、赤錆びた金属片と呼べばいいのか、わからないものを握りしめていた。ボクは、「持ち手には布を巻いたほうが良い。それじゃあ金属のささくれで自分の手の方を傷つける」なんて、お節介を口にしそうになってしまった。
やつらではなかった。ゾンビではなかった。1匹だった。
何年も切っていない髪はあんなふうになるのだろうという頭をしていた。皮膚は樹皮のようにデコボコと荒れていた。頬は骨のかたちにこけていた。目は虚ろに落ちくぼんでいた。身体は痩せていた。ぼろきれの、頭から被るだけの貫頭衣の下は覗くまでもなく、人体の骨の仕組みを調べるには、ちょうど良さそうな、あばらの浮き出た身体をしていた。
やつらよりも、ゾンビよりも、ずっと死に近そうな顔を、彼はしていた。
ずっと死に近そうな目で、ボクのことを見つめていた。
「置いていけ」、囁くような唸り声だった。
「何を?」、若いオオカミを諭すように訊ねた。
「全部だ。全部だよ! お前が持ってる全部を置いていけ!!」、それはあまりにも欲張りな願いだった。
叶わない願いだと知りながら、どうしてそんな欲張りを口にするのだろう。たとえば裸足に履かせる靴だけとか、たとえば寒さをしのぐ外套一枚とか、たとえば飢えを満たす銀貨を一枚とか――、ボクは軽く頭を振って考える無駄をやめた。
それからハンターとして、ボクに牙を剥く彼の瞳を見つめた。
彼の目は生気に欠けていた。欠けたところには怒りが満ちていた。その怒りを向けるべき相手が誰なのかわからなかった。彼自身がわかっていなかった。
――生まれた。父親と母親の、三番目か四番目かの子供に生まれた。
――売られた。養えないからか、養うお金が勿体ないからか、彼は売られた。
――育てられた。人間の手で、人のかたちの動物として育てられた。
――働かされた。言葉のわかる便利な家畜として、鞭で殴られ働かされた。
――疲れた。もう、この世界のなかで生きることに、疲れたんだよ。
――なぁ、そこのお前。教えてくれよ。俺のいったいなにが悪かったんだ?
「運だよ」
ついボクは、聞かれてもいない彼の問いかけに答えてしまった。
「……運か。そうか、運が悪かったのか」
彼は、彼の人生のすべてに納得した表情を浮かべていた。泣いていた。笑っていた。人間には変えられない大きな諦めと出逢ってしまったときの、崩れ落ちたこころのかたちに表情は歪んでいた。
ボクを襲って、衣服を奪い、この街から逃げだす。唐突に思いついてしまった計画が、彼の手に金属片を握らせた。ボクの後ろ姿を追わせた。成功するとかしないとか、そんなことは頭には無くて、気が付けばボクの後ろに立っていた。そして、ボクの背中を震える声で呼び止めた。二度も、声を掛けて呼び止めた。
だから、
「キミには無理だよ」
ボクは言った。
彼は、赤錆びた金属片を強く握りしめた。手が震えていた。呼吸は荒く乱れていた。なけなしの勇気を振り絞るようにして、ボクの瞳を強く睨みつけていた。ボクこそが、彼の不幸の元凶なのだと思い込もうとする瞳が強く睨みつけていた。
彼の瞳に宿るものは、不安、恐れ、わずかばかりの微かな勇気、それから、あまりにも大きな諦めのこころだった。
ボクは、言葉を続けた。
「背中から刺すことができなかったキミには無理だよ。ボクを前から刺すことなんてキミにはできない。二度もボクを呼び止めたキミには不可能だ。人殺しになるためには、キミは、少し、優しすぎるよ」
ボクが彼へと語れる言葉は、それだけだった。
彼は、ボクの言葉に何の返事もしなかった。
置いていけ、彼は言った。だからボクは予備のナイフを一本、地面に落とした。ナイフなのか、赤錆びた金属片なのかわからないそれよりも、ずっと切れ味の鋭い鋼色に光るナイフを一本、地面に落として置いた。
ボクは彼に背中を向けた。彼は動かなかった。ボクの背中を見つめながら、彼は動かなかった。ボクは歩き出し、また、頭のなかで地図作りを始める。彼の足はもう、ボクを追ってくることはなかった。
地面に落としたボクのナイフがどうなったのか、ボクは知らない。彼はナイフを手に取ったのかもしれない。彼はナイフを手に取らなかったのかもしれない。どちらにせよ、彼が刃先を向けられる相手は、彼自身、唯一人だけだった。
彼は、少し、賢すぎた。
彼は、少し、優しすぎた。
彼は、少し、疲れすぎていた。
だからその時には、赤錆びた切れない刃先よりも、切れ味鋭い刃先のほうが、ずっと役に立つだろうとボクは思った。ずっと簡単だろうとボクは思った。
神さまなら、とっくの昔に売り切れだった。