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001


 その鹿にはツノがなかった。メスの、まだ若い鹿だった。

 下生えの草を食みながら、黒い水晶のような瞳が周囲を警戒していた。植物を口にする生き物たちの目だ。舌や歯は、草を食むことに夢中になりながら、けれども瞳は、どこを見ているのか教えてはくれない。どの角度から覗いても、それこそ尻の穴の向こう側から覗いていても、彼女たちの瞳はこちらの姿を見透かしているようだった。


 ボクはまぶたを半分だけ閉じて、ボクの黒い瞳を半分だけ隠した。人間は人間の視線に敏感だ。彼女たちも誰かの視線にはとても敏感だ。おそろしく鋭敏だ。見られている、と、感じたなら、すぐに四本の足で逃げだしてしまう。


 これは、誰かが言った冗談だ。

「メスの鹿がなんで逃げるか知ってるか? お前がブサイクだからだよ」

 これは、冗談ではなくて、喧嘩の前の悪口だったかもしれない。

 ふっ、少し笑うと肩から力が抜けた。


 いまボクは、森のなか、一本の樹になっていた。

 動きをとめて、瞬きをとめて、息をとめて、周囲の樹々の仲間になっていた。

 ボクのなかで動いているものは、もう、心臓くらいなものだった。


 息を長く止めるにはコツがある。父さんが教えてくれた。胸いっぱいに吸ってはいけない。息を止めてもいけない。息を吐き出してもいけない。鼻の奥をスッと広げ、息を吸うときのように、息を吐くときのように、肺から喉につづく空気の道を開いたままに保持する。

 身体からは力を抜いて、あとは空気の自然な流れに呼吸を任せる。


 いま、ボクは一本の樹だ。森の中、どこにでも生えている凡庸な樹だ。枝を伸ばして、葉を生やして、縦に横に広がろうとする森のなかの一本の樹だ。森の樹々も静かに呼吸をしていると父さんは言った。父さんが言うのなら本当なんだろう。でも、父さんは冗談もよく口にするから、本当かどうかはわからない。


 森の樹は、静かな生き物だ。

 一日を眺めていても、まったく動いたようには見えない。けれど、一年をかけて眺めていると、ゆっくりと動いているのが見えてくる。芽吹き、伸びて、葉を生やし、花を咲かせ、種を撒き、そして枯れる。それらの動きを緩慢なるままに一年、十年、百年のあいだも繰り返して、やがては大きく育った古い樹そのものが朽ちて倒れる。

 森の樹よりも静かな生き物を、ボクは見たことがない。

 けれど、そんな森の樹も、速く、素早く動くことが、ときにはある。ボクは待っていた。周囲の樹々が動き出すときを待っていた。


 風が吹いた。

 樹々の枝葉がお喋りをはじめた。

 ざわざわ。ボクが手にしたクロスボウの照星が、川を流れる木の葉のようにゆらりと動く。ボクと彼女のあいだに射線が通った。メス鹿の彼女は、樹々のお喋りに隠されたボクの殺意に気付けなかった。引き金を絞る。留め金が弾け、張りつめた弦が装填された矢弾を加速させた。ボクと彼女のあいだに、矢の残像の線がスッと伸びる。彼女の瞳は奔る矢弾に気が付いた。けれど、逃げられるだけの時間をボクと矢弾は与えない。

 左前脚、その付け根の厚い皮と太い肉を、鉄先の尖った矢弾が貫いていた。

 驚きの悲鳴と血が裂けて流れる。


 彼女は走り、森の奥へと逃げた。

 ボクは歩み、森の奥へと追った。

 獣狩りの矢弾には細工が施してあった。返しのついた鉄の矢じりは、獲物が動くほど肉に深く噛みつく。軸となるシャフトには細い溝を彫りこんだ。細い溝のつくる空洞は、血が固まることを許さない。動くたび、走るたび、心臓が脈打つたび、彼女のなかの赤い血が確実に外へと流れ出る。


 彼女は血を流しながら逃げた。

 ボクは流された血の跡を追った。

 やがて、赤い血の跡が残る茂みを抜けると、大きな樹のこずえのしたに、血の気を失い意識を朦朧とさせた彼女の姿があった。枝ぶりの良い太い樫の樹だった。もう走れない。もう歩けない。もう起きていられない。そんなふうに弱々しくも息を荒げ、身体を小さく震わせながら彼女は梢のしたで短い草のうえに横たわっていた。

 風が吹いたとき、樹々がお喋りを始めたとき、もう、彼女なら死んでいた。赤子が産声をあげたとき、棺桶職人が仕事を始めるように、もう、彼女なら死んでいた。そのように、運命なら決まっていた。

 これは、その確認だった。


 ボクは彼女を見つめていた。

 彼女もボクを見つめていた。

 睨んではいなかった。恨んでもいなかった。憎んでもいなかった。自分の身になにが起きたのかわからない。不安の色が瞳のなかに宿っていた。矢弾とボクの関係に気が付いていなかった。彼女は血を失い弱り切った体で、せめて、現れた捕食者のボクを見つめ返していた。威嚇していた。逃げることが適わないとき、戦うことを、自然は選択させる。

 ここまで弱りきった彼女でも、最後の力でもってひと暴れしたなら、ボクのろっ骨くらいは軽く蹴り砕くことだろう。

 ボクは近づかず、彼女が弱っていくところを見つめ続けた。彼女も、だ。


 『ムダなことはしない』、これはハンターの掟の一つだ。

 いまのボクは、時間が彼女の血液を奪い去っていくのを、ただ、待てば良かった。


 やがて彼女は黒い瞳を潤ませて、とろり、と眠りかけた赤ちゃんのような表情を浮かべる。うつら、うつら。微睡、陶酔、昼のうたた寝にも似た心地よさが彼女の意識を刈り取ろうと、うつら、うつら。血が抜けていく感覚は、途中までは苦しく、途中からは快楽に変わる。

 父さんに教わった。

 首を絞められ、息が止まり、血が止まり、身体から力が抜けて、意識が暗闇に落ちる瞬間、それは、そこにあった。

 まるでボクの肉体が、死を受け入れたような、何処までも落ちていくふわりとした感覚だった。身体は重く、何処までも深く落ちていくのに、こころは軽く、何処までも高く浮かんでいった。こころと身体があまりにも遠く離れすぎてしまったとき、それがきっと、死の瞬間になるのだろう。

 彼女もまた、うっとりとした表情を浮かべ、生を手放し、死を受け入れはじめていた。身体は大地に、意識は空に、その肉と皮はボクの手に、落ちた。

 ボクは動いた。


 後ろ脚に縄をかけ、身体を軸に滑車の原理で太い木の枝に吊り下げる。彼女の意識はもう身体の内側から離れてしまったのか、吊られるあいだ、何の抵抗も見せはしなかった。

 首筋に鋭いナイフの刃をあてられ、さくり、首筋の頸静脈を切られるときも、彼女の瞳はとろけるような甘い蜜色に溺れ、いまだ快感のなかにあった。

 重力と心臓の鼓動に合わせ、彼女の血管のなかを巡っていた血液が、するすると抜け落ちては地面に赤い水溜りをつくる。どこにこれだけの血が詰まっていたのだろうと思わせるほどに、大きく深い、赤の水溜りを彼女はつくった。


 肛門の少し上から、一直線に刃を入れる。初めは浅く、徐々に深く、ろっ骨で刃先を傷つけないよう最後は、また浅く。彼女の腹の皮を縦に切った。まだ浅い切れ目に両手の指を差し込んで、切り損ねの肌や脂肪を、ぺりぺりと左右に広げた。彼女の中身が、すっかりと見えた。

 まず、膀胱を傷つけないよう慎重に刃先を進めて切り取った。この薄皮の袋のなかに詰まっているものは鹿の尿だ。人のものよりもエグイ。これが肉や内臓に掛かってしまうと、洗っても洗っても匂いが落ちなくなってしまう。こうなると、肉や内臓の価値が落ちる。

 大腸、小腸、肝臓、腎臓、膵臓、胃、それから彼女の子宮に刃先を、さくりと入れて、指でちぎり取る。血を洗うための水辺が近くにあれば内臓も売り物にできた。けれども今日は、池や川が近くにはなかった。とりだして、地面に転がした。


 お客さんが来ていた。

 声はしないけど、風下から忍び寄る気配がしていた。

 森の中で、これだけ強い血の匂いを垂れ流したなら、嗅覚の鋭い肉食の獣たちが見物に訪れる。自分よりも強い相手ならおこぼれにあずかり、自分よりも弱い相手なら脅かして奪う。どちらにせよ、損はない。野生に生きる彼らは天然のハンターで、無駄を嫌う。


 オオカミだ。

 オオカミは賢い生き物だ。仲間を犠牲にするかたちでの狩りはしない。ボクを背中から襲って、仲間を殺されて、それで鹿の肉を手に入れるのでは損得が合わない。だから、息を潜め、ボクが彼女を解体するところを、ジッと眺め続けていた。

 オオカミの体臭が、他の肉食の獣たちを追い払ってくれていた。

 ボクは、もう慣れた手順で彼女の中身をバラバラにして、こんなになってもまだ微かに脈打っていた彼女の心臓をちぎり取り、地面に捨てた。


 血を抜いた。内臓を抜いた。これで彼女の体重は半分になった。

 後ろ脚に結んだ縄を前脚にもまわすと、彼女の身体は輪っかのかたちになる。かつぎやすくなる。両肩に引っかけてグッと持ち上げると、欲張りな若いオオカミが唸り声をあげた。

 ボクは唸る声の方向を見つめた。

 茂みの奥、黒く輝く若い瞳をみつけた。

 置いていけ、とでも言いたげな彼の強欲な視線を、ボクはただ見つめ返した。

 威嚇が通じないことを理解した若いオオカミは、茂みのさらに奥へと身を隠した。

 シカを殺せる生き物は、オオカミだって殺せる。食べるものなら地面に落ちている。いま、ボクと殺し合いをしてまで奪い合うこともない。いま、殺し合うのは、無駄なことだ。ハンター同士の暗黙の了解が通じ合って、オオカミたちはボクに道を譲ってくれた。


 ずっと遠くなったころ、鹿の膀胱に噛みついて、「きゃん」と鳴く声がした。

 きっと、あの若い欲張りオオカミに違いなかった。



 日は暮れていた。

 街道沿いに置いた馬車では、石囲いの焚火を前にした父さんが待っていた。

「メスか?」

 ボクは頷いた。

 メスのほうが肉質は良い。オスのほうが肉の量は多い。オスとメスのどちらに出逢えるか選べるほど器用ではないけれど、もしも選べるとしたら迷ってしまう。いまが繁殖期なら、立派なツノを持ったオスの方が良い。肉も売れるし、ツノも売れる。大物であれば、はく製にもなる。メス鹿のはく製は、ちょっと見たことがない。


「父さんは?」

 手のなかに握ったウサギをプラプラと振ってみせた。首の骨が折られたウサギは、プラプラと楽しそうに揺れた。焚火の明かりに照らされて、影絵のウサギが踊っていた。

 父さんは小さな刃を使い、チマチマとウサギの小さな内臓や薄い脂肪を削いでいた。

 こういう小さな作業が父さんは好きだ。小さな作業が好きだから、小さなウサギを捕まえてきたんじゃないかと疑ってしまうほどに好きだ。料理とか、裁縫とか、罠猟とか、そういう細かな作業が父さんは大好きだ。


 ボクは、イライラしてしまうから嫌いだ。

「若いうちは、な」と父さんも昔は細かな作業が苦手だったことを教えてくれた。


 ウサギの肉は、もう芋と一緒になって鍋のなかで煮えていた。

 食べたいときに勝手に食べろ、そういう意味だ。

 ボクはシカ肉を馬車のなかの冷却樽に押し込んで、樽に白い粉を振りかけて、つぎに水をかけた。理由はわからない。けれど、こうすると樽のなかがとても冷たくなる。シカの肉は死んだ後に熱くなる。熱くなって不味くなる。不味くなると安くなる。だから冷やす。冷やした肉は高く売れる。だから手間でも、冷却樽を使って肉を冷やす。

 樽が冷たくなる理由は、樽職人の秘密だから教えてはもらえない。

 樽職人には樽職人の、ハンターにはハンターの、それぞれの職業には、それぞれの秘密があるものだ。


 街の人は、理由もなく遠出をしない。やつらが怖いからだ。だから、森に住む動物たちの肉を食べられる機会は少ない。だから、動物の肉は高く売れる。ウサギの脂肪でさえ値段が付く。需要と供給という名前の経済らしい。父さんが教えてくれた。

 教えてくれた、けど、じつはよくわかってない。

 街の人たちの規則や掟は多すぎて、複雑すぎて、深く考えると矛盾した規則が多くて、それからボクは興味が無くて、だから、じつはよくわかってない。

 美味しいものは高い、まずいものは安い、それだけはわかった。

「それだけ理解できているなら十分だ」と父さんは言った。


 ウサギと芋と、それから何かのスープを木の匙ですくって口にしながら、ボクはふと思ったことを口にした。


「ねぇ、父さん。どうして、やつらのことをゾンビって呼ぶの?」

「それはだな、昔々、父さんの爺さんの爺さんの時代に、やつらのことをゾンビって呼ぶ映画があったからだ」

「ふーん」

 ボクは一応の納得をした顔を見せて、スープを木の匙でもう一口すくった。

 それから、

「ねぇ、父さん。映画ってなに?」

「それはだな、うーん。なんて説明すれば良いのか。うーん」

 ボクの質問が父さんを困らせてしまった。


 昔々、父さんの爺さんの爺さんの時代には、映画、というものがあったんだろう。けれど、いまは無い。ないものは説明できない。説明ができなくて、父さんは困ってしまったらしい。絵が動くとか、音が出るとか、お話があるとか、なんだかよくわからないことを父さんは言った。

 父さん自身、よくわかっていないみたいだった。


「ねぇ、父さん。父さんも、父さんの父さんに映画のことを聞いたの?」


 父さんは笑いながら、自分も映画のことを質問して、父さんの父さんを困らせたときの話をしてくれた。じつは、父さんの父さんも、映画のことはよくわかっていなかったらしい。そのまた父さんからは、動いて喋る絵本のことだと教えられたそうだ。


「ねぇ、父さん。それはさすがに――、」

「嘘だな」

 父さんとボクは、一緒になって笑った。


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