ラバウルへ
これにより艦隊運動の信号に艦隊電話が追加され、音声による号令が可能となり素早い意思表示が伝達できる様になったのだ。
「うむ各艦に伝達、これより出航せよ。とな。」
原司令からの命令を通信員が各艦に伝え、同時に旗りゅう信号がマストに上がった。
「出航用意!」
戸高艦長が大谷航海長に命じた。
「出航用意!錨揚げ!」
航海長が艦橋の窓から錨甲板に向かって怒鳴った。
「立ち錨!…起き錨!」
錨甲板から水雷長の怒声が聞こえると、艦長が自ら命じる。
「右後進微速、左前進半速、面舵。」
機関が唸りを上げ艦が徐々に動き出すと
「両舷前進半速、戻せ。」
の号令で艦はゆっくりと前進し始めた。
艦橋の後ろの窓を見ると、駆逐艦竹、梅、桃が次々と我が艦に習って前進を始めるのが見え、改めて我が駆逐艦松が第一○一駆逐隊の旗艦である事を実感したのだった。
その後、俺はトップに上がりいつも通り艦砲の照準訓練を行い、艦橋へ降りると司令の姿が見えなかった。
どうやらすぐ後ろの戦闘指揮所へ様子を見に行ったらしい。
「しかし艦長、駆逐艦というのに魚雷が無いのは寂しい限りですね。」
と水雷長の佐竹大尉が愚痴を言い始めた。
水雷長は何かに付け、魚雷が無い事を不満げに周りに漏らしていた。
確かに駆逐艦は、艦隊戦において敵大型艦に肉迫して一撃必殺の酸素魚雷を叩き込み、小艦よく大艦を葬るが駆逐艦乗りの伝統とされ訓練して来たのだから無理もなかった。
「これも時代の流れなんだろうて、なぁ、砲術長。」
艦長は感慨深げに天を仰いだ。
そうなのである。
今大戦において、緒戦こそ艦隊同士の砲雷戦が生起したが、今後は電波兵器と航空機の発達により艦隊が接近する前に、航空攻撃に晒されるであろう事から夜間や不意遭遇戦でもない限り、酸素魚雷を使う機会は激減するのだ。
艦長も水雷出身であったから、大谷大尉の言い分が痛い程解るのだろう。
「おぉ砲術長、降りて来たか。今、電探射撃盤の説明を聞いたがそれほど威力があるのかね?」
原司令が聞いて来たので、俺は身振り手振りでその作動原理を話し、後は百聞は一見にしかずと午後からの実射を見て判断してもらう事にした。
そんな会話をしている内に艦隊は館山基地へ到着し、水上機が並ぶ桟橋の横に四隻揃って錨を投じた。
「通信員、連合艦隊司令部へ打電。第一○一駆逐隊、館山基地へ到着せり。とな。」
と司令が言った。
その日は、連合艦隊司令長官らをお迎えし無事に対空射撃訓練を終え、夜は急遽連合艦隊司令において夕食会が開かれ、我々も呼ばれて長官から忌憚のない意見が求められた。
そこの席で噂に上がっていた護衛空母摩周が、長官より正式に我が艦隊に配備される事が発表されると共に、会食後南方戦線への補給任務が言い渡されたのである。
帝国の命運を握ると言われた、ラバウル航空隊への重要物資輸送の護衛を任されたのだ。
いよいよ実戦で、我が艦隊の真価が問われる時がやって来た。
我々は翌日、不要物件を横須賀で陸揚げし実弾、食糧を満載し護衛空母摩周、第一○二駆逐隊の四隻と合流して、第五十一艦隊は旗艦を摩周にして全九隻がここに勢揃いしたのである。
そして昭和十七年四月三十日、我が第五十一艦隊は横須賀基地を出航し、東京湾から来た高速輸送船十隻と海上で船団を組み、一路四千km以上先の赤道を越えた遥か彼方に浮かぶ、ニューブリテン島ラバウルを目指したのだった。
合流した高速輸送船は、摩周と同じブロック工法で建造された一万t級の新型輸送船であり、巡航速度は他の輸送船では考えられない時速三十kmとなっており、我が艦隊と船団を組むには最適であったのだ。
我が艦隊は護衛空母摩周を先頭に輸送船を川の字に三、四、三隻で並べて進ませ、その周りを駆逐艦が輪形陣でぐるりと囲む様にして航行を始めた。
「これより、警戒航行に入る、艦内哨戒第三配備とせよ!」
艦内哨戒には第一から第三まであり、第三配備は三交代で二時間づつそれぞれの戦闘部署に付くのである。
航行初日は、まだ帝国本土に近いという事もあり、摩周艦載機の零戦との無線電話による連携訓練を行い、敵潜水艦発見の報で直ちに駆逐艦二隻一組で現場海域に向かい、二式爆雷をこれに叩き込むといった訓練などを実施しながら、夜間となり警戒を厳しくし之の字航行を行った。
この之の字航行とは、ただ真っ直ぐに航行するのではなく、不意の間隔で針路を変えつつジグザグに航行する事で、もし敵潜水艦に発見され追尾されても敵が魚雷発射の射点に付きづらくする効果がある、とされていたからだった。
しかし、時代は変わりつつあった…。