海上護衛総隊
昭和十七年四月一日、横須賀鎮守府に海上護衛総隊が開隊された。
初代司令長官は伊藤整一中将が就任し、海軍における補給全般と帝国の海上輸送の全てに責任を負う組織として、連合艦隊と同等の権限を与えられ傘下に航空部隊をも持つ、最終的には海軍で最大の組織に発展した部隊であった。
しかし、開隊当時それを予想した者は誰一人としていなかったのだ。
その証拠に四月二十日現在、所属する艦艇は護衛艦が十隻と水上機母艦が一隻だけであった。
とにもかくにも我が駆逐艦松は、そこの新設された第五十一護衛艦隊の第一○一駆逐隊に配属の命を受け、横須賀鎮守府に着いた二十二日に制式に編入され、駆逐隊の旗艦に指定された。
旗艦と言えば、駆逐隊司令部が乗り込んで来るのであり、狭い我が艦がなおさら狭くなるのだから乗組員はあまり歓迎していなかった。
しかし、これは一時的な処置で護衛空母の摩周が我が艦隊に編入され次第、司令部はそちらへ移動するとの事であった。
空母の話を聞いた時、俺は驚きを隠せなかった。
帝国海軍が護衛艦隊という裏方の日の当たらない、ともすれば忘れ去られる様な部隊に、これからの海軍の主力となる艦種を配属した首脳部の決断に…。
まあ、空母と言っても艦隊随伴の正規空母と違い、タンカー改造の護衛空母であるらしいから、我々の様な護衛艦隊に回せるのだろうがどう言う理由にせよ、我々には有難い事であった。
輸送船の護衛の際、空母が有るのと無いのでは天と地程の差があるのだ。
これは実際の護衛任務に就いた時、俺達がその身を持って思い知らされる事になるのである。
とあれ、我が駆逐艦松は途中訓練を重ねながら横須賀基地を目指し、翌日の夜無事に基地に到着したのだ。
それからの一週間、昼夜を問わず訓練に訓練を重ね、いよいよ山本長官らをお迎えする日の朝が来た。
「カンカン、カン」
午前五時半を知らせる三点鐘の音で目が覚めた。
海軍の朝は早い。
六時には総員起こしの号令が掛り、総員上甲板、体操始めの号令で一斉に海軍体操をやり、それが終わると
「宮城に向かって、拝礼!」
の号令で皇居の方向に向かって総員で一礼するのである。
その後、水兵達は艦内の清掃に取り掛かり、我々将校は艦橋でその日の課業や訓練について、打ち合わせを行う。
本日四月二十九日は、我が海軍のお偉方が乗艦して来て、我が艦の二式六十五口径十糎高角砲の対空射撃訓練を見学するのだ。
「間もなく我が艦に一○一駆逐隊司令、原中佐が乗艦されるが各員は失礼の無いよう伝達を徹底してもらいたい。また、本日はいよいよ連合艦隊司令長官が我々の訓練の成果をご覧になられる予定もあるので、各分隊は心して軍務に当たるように!以上!」
俺は本日の我が艦の予定を皆に話し、艦長からの訓示を促すように会釈をした。
「諸君、短い期間であったがよくぞここまで練度を上げてくれた。本日は存分にその成果を示してもらいたい、以上。」
この後、我々は朝食を採り第一種軍裝に着替えて、駆逐隊司令の到着を待った。
間もなくして司令を乗せた車が到着する旨の連絡があり、艦長と先任将校の俺が舷門に降りて当直将校らと整列して、原司令の登舷礼を行いお迎えをしたのである。
「きょーつけッ!司令に対し敬礼!」
司令乗艦の号笛が鳴り響き、原司令が駆逐艦松に乗り込んで来た。
「うむ、戸高艦長よろしく願います。」
司令は答礼をして艦長と握手し、
「こちらこそよろしくお願い致します。」
と艦長がそれに答え司令を艦橋へ案内した。
艦長と俺は先日、横須賀にある第五十一護衛艦隊司令部で原司令と対面しており、この日の打ち合わせをしていたのである。
すると丁度、八時の軍艦旗掲揚のラッパが鳴った。
「パッパ、パッパカパー」
司令以下、全員が軍艦旗の上がる艦尾を向き気を付けの姿勢で、挙手の敬礼を行った。
この時ばかりは司令から一水兵に至るまで、全員がその場で作業を止め直立不動の姿勢を取り、軍艦旗が見える者はそれに向かって敬礼をせねば為らぬのだ。
その後、我々は艦橋に上がり航海長や水雷長、機関長を紹介し早速出航の準備をはじめた。
艦長が司令と本日の実弾演習の打ち合わせをしている間に、航海長がてきぱきと号令を下し出航の準備が進められた。
「艦長、出航準備完了しました。」
「司令、本艦は準備が整いました。」
「他の艦はどうかな?」
「竹より報告、我、出航準備よし。梅、桃より報告、我、出航準備よし。以上!」
最近新しく装備された、艦隊電話からの報告を通信員が司令に報告した。
これまでは艦隊行動時の旗艦から各艦への行動指令はメインマストの旗りゅう信号で示す事と発光信号、手旗信号、やり取りに時間のかかる無電でのモールス信号しか方法がなかったが、短距離艦隊電話が装備されてからは艦隊運動程式、第三章の通則、第一節が改訂され艦隊電話が追加されたのである。