第三章 始業式と、帰り道と、そして、
始業式は淡々と終わった。
正直、何にも覚えてない。
校長先生の話や、スライドを使った学校紹介があったのは覚えているが、内容は何一つ頭の中には入ってこなかった。おそらく、脳が必要ではないと判断したんだろう。ただ、一学年9クラスもあるだけあって、とてつもなく人がいるんだなと思った。
明日は、部活動と委員会の説明式というのがあると帰りのHRで担任が話していた。ちなみに担任は白川はなの先生という小柄な女性だ。僕たちが初担任だそうで、結構かわいい人だ。動物でたとえるならリスとか子猫とかの小動物だろう。
今日はとりあえず始業式だけで、色々始まるのは明日からですので、みなさん一年間よろしくね、という担任の挨拶でHRも終わり、僕はさっと身支度をととのえ、誰よりも早く教室を出た。
「だから、私を置いてかないでって」
校門を出てすぐ、涼香につかまった。
「別に置いていったわけじゃないよ。涼香がみんなと楽しそうにしてたから、邪魔にならないようにそっと帰っただけだよ」
HRが終わって教室を出るときチラッと見たら机を囲まれた彼女がいたのは事実だ。ま、もう少し出るのが遅かったら僕も似たようなことになっていたんだろうけど。
「私が良太を邪魔だと思うことなんてどのシチュエーションだってないわよ。それに質問攻めにされて目が回りそうだったんだから」
彼女は怒ったような、困ったような、微妙な顔を浮かべていた。
「なんでみんな私にあんなに興味があるのかしらね?今日が登校初日だっていうのに」
それは君がとてつもない美人で、人を惹きつけるオーラが出ているからだよ、とは言わなかった。
ついでに、朝僕と一緒に登校していたことを聞きたい奴もたくさんいたことだろうことも。
「でも、涼香また委員長やるんだろう?みんなと仲を深めた方が良かったんじゃない?」
彼女は中学でもクラス委員と生徒会長を兼任していて、高校でも同じようにやりたいと話していた。
「んーそうなんだけど、ものごとには優先順位があるから。クラスのみんなと仲良くなることもとても大切なことだと思うけど、私は今この時間の方が優先順位が高いかな」
「……」
何も言えない。というかこの台詞に対して何かを言えば何かが終わってしまいそうだ。
僕の家は学校から歩いて20分くらいの距離にある。
部活動に入るつもりがないから、健康維持のためにこの距離にあるこの学校を選んだといっても過言ではない。いや、さすがにそれは嘘だが。
「明日は部活動と委員会紹介、そしてクラスでの自己紹介とクラス委員決め。考えることがあって大変だなー」
彼女にとってはそうなのかもしれないが、僕としてはすべてスルーするつもりなので、重要なことなど何一つない。
「ところで、良太は部活は何にするの?」
「何もしない」
「……委員会は?」
「何もしない」
「……本当に?」
「うん」
「私は、できるだけ自分の将来につながりそうなものを選んでやるつもりなんだけど、良太は何もしないの?」
「うん。僕は頭が涼香よりも悪いから、勉強する時間が欲しいんだ。だから帰宅部で委員会も入るつもりはないよ」
これに関して嘘は言っていない。この高校は一応進学校だし、僕は大学進学希望だからなるべく勉強時間を確保しておきたいというのはしごく当然である。
「え~そんな~」
きりっとした眉が困り顔をさらに強調するように形を変える。
「それじゃあ、一緒にいる時間が減っちゃうじゃない!」
「そうだね。でもクラスも一緒だし、家は隣同士だし、別に問題ないんじゃない?」
「う~~。共同作業もできるコミュニティに一緒にいたいのに~」
自分の将来云々はどこにいったのだとツッコミを入れたかったけど、それはやめておいた。
彼女は元々頭がいい上に努力もするし、おそらく人生という長いスパンで物事を考えているんだろう。
高校だってもっと上を狙えたのにあえてこの学校にしたのは、はて、なぜなんだろうね?
負わなくてもいい責任を背負うのは嫌だから、僕は高校では勉強してなるべく上の大学を目指さなければならないのだ。
「でも、涼香はちゃんとクラス委員とか生徒会とかやらなくちゃだめだよ。中学の時の涼香を僕は凄いと思ったんだから」
「ン……急に褒められると照れちゃうなぁ。……まぁ別に会えない時間が今までよりマイナスになったわけじゃないからいっか」
急にニコニコしだす彼女は、単純だなと思う一方で、やっぱり魅力的だなと思った。
さて、それじゃあそろそろ本題に入ろうか。
「ところで、友は今日どうしてるの?」
僕は、さも一つの雑談の内のように彼女に質問をした。
「えっ?そうね、友の方も今日は早く学校が終わると思うから、もう家にいるんじゃないかしら」
「そっか」
心臓が無意味にドクンと跳ねる。なるべく平静を保っているつもりではあるが、それはあくまで表情にださないだけで、心の中では形容しがたいもやもやするナニカが体中で動き回っている。
友とは、彼女、篠原涼香の弟である。
学年が一つ下で、今は中学三年生。僕たちが通っていた中学に通っている。
「あの子に何か用でもあるの?」
キョトンとした目でこちらを見る彼女からは純粋な疑問だという意味が見て取れた。
「いや、特にはないよ。ちょっと気になっただけ」
「ふーん」
その話題はそれで終わった。彼女はあまり友の話題を口にしない。とは言ってもべつに嫌っているわけではなく、単純に話題として出さないだけだ。
まぁ、僕は兄弟がいないから正しくは理解できないけど、実の兄弟の話題なんてわざわざする必要なんかないんだと、そういうものなんだと思っている。
「それじゃあね。良太」
そうこうしているうちに家に着いた。僕の家は普通の一軒家。彼女の家は普通よりもだいぶ大きい一軒家。どのくらい大きいかといえば家の中に川があり、錦鯉が泳いでいる、純和風の家だ。彼女の父親の趣味だという。
「うん。それじゃあ明日からまたよろしくね」
彼女はけっこうな頻度でこのあと僕の家に来るのだが、今日は家事をしなければいけないとのことで、来ることはなさそうだ。
「ふう」
なんだかんだでやっと家に帰ってこれた。
時間はまだ昼間の12時半。普通の学生なら、クラスメートとファミレスやらファーストフード店に行って親交を深めるんだろうが、僕には関係ない。
目先の楽しみより、今はしっかり人生設計を立てて、それに向けて行動を粛々と遂行する。
僕には、それをする必要がある。はなはだ、不本意ではあるけど、他人の人生を僕が馬鹿なせいでランクの低いものにするわけにはいかない。
今日はこのあと、ひたすら勉強に時間を使うつもりだ。
素早くカップラーメンをキッチンですすり、二階の僕の部屋へと向かった。
「……」
そして、僕は自分の部屋のドアを開けたとき、思考が停止した。
「遅いよ。お兄ちゃん」
妖艶な、眠たげな、虚ろな、そのどれもが合わさったような眼差しで僕のことを見つめる友が僕のベッドに腰かけている。
身長は156センチ。体重は43キロ。華奢で、女子よりも細い首筋。
首元がはだけて、綺麗な鎖骨が見えている。
全体的に存在が儚く見えるのは僕の目の錯覚なのだろうか。
「今日は、早く帰って来るって、お姉ちゃんが行ってたから、待ち伏せしちゃった」
心臓の鼓動がヤバい。冷や汗が流れてくる。自分の部屋なのに、どこか異空間のような気がする。
「ま、まぁね。今日は始業式だけだから。と、ところで普通に不法侵入だからね。今度から来るときは事前に連絡くれよ、友」
僕はそこで、踏み出した一歩を少し後悔した。ここは蜘蛛の縄張りだ。この空間にいる限り、僕は逃げることができない。
「嫌だよ、お兄ちゃん。それじゃ驚かせないじゃん。僕は、お兄ちゃんの驚いた顔を見るのがすっごく好きなんだから」
そういうと、ベッドからすっと立ち上がり僕の方に歩いてくる。
その動きに合わせたように、頭についたリボンが揺れて、ひらりとスカートが翻る。
「とりあえず、そんな自分の部屋の前で石みたいになってないで中に入ったら?」
少しひんやりした友の手が僕の手を引っ張って中に引き入れる。
まるで、獲物を自分の近くまで引きずり込むように。
「ここ最近、お兄ちゃんに会ってなかったから、少し寂しかったんだ。僕の話を聞いてよ」
指と指の間を埋めるように友の指が絡まる。俗に言う恋人繋ぎだ。
「今日はお姉ちゃんが来ないし、独り占めできると思うとすっごく気分がいいんだよね」
はじめは、友も普通に友達の弟だったはずなんだけど、ある日突然友が、女の子の恰好をしだして、そして、その姿を一目見たときに、僕の心が気持ちが悪い反応を示した。
嬉しいんだけど、悲しい。
間違っているんだけど、正しい。
好きなんだけど、好きではない。
相反する気持ちが複数生まれて、激しくぶつかり合って、その結果、僕は考えることを放棄した。
少なくとも、男の恰好をしている友のことを見ていても僕は特に何にも感じないし、もちろん、同性に対して性的な興味を抱くこともない。
そして、好みの女の子の近くにいるときはドキドキするし、街中でかわいい女の子がいると、目で追ってしまう。
普通なんだ。僕は。
ただし、『女の子の恰好をしている友』の前以外では。
「同級生と話してても、なんかつまんないんだよね。お兄ちゃんと話している時が僕は一番好き」
ぱたんと部屋のドアが閉まり、薄暗い部屋に二人きりになった。
あぁ、神様仏さま。どうか僕のこの気持ちをうまく抑えるようにしてください。
僕は、この女の子の恰好をした友達の弟のことが、どうしようもなく好きなのである。