兄が釣った魚の餌
期末試験という、全国高校生にとって手強い敵を倒せば、息抜きの一つや二つやおまけに三つくらいしたくなるもの。
けれど、携帯に届いていた兄からのメッセージがそれを許してはくれなかった。
腐り落ちる寸前の果実のような匂いのする町――欲望と暴力と計略が渦巻く眠らずの町――終宵町を目前に、王丸 一歌は非常に重い溜息を落とした。
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ところで、現在一歌の自由を拘束する10も歳が離れた困った兄について説明をしよう。
一歌が兄から学んだこの世の仕組みは、人が多かれ少なかれ、獣性を持っているということだ。
獣性が高い者は往々にして、本能に忠実であり、頭がキレ、勘が鋭く、時として残酷だが圧倒的なカリスマ性を持つ。
多くの人は、喜んで支配されたがる。
つまり、人を支配する側なのか、人に支配される側なのか。
それを如実に表すパロメーターというわけだ。
一歌の兄――詩哉は獣性が非常に高く生まれついた。
幼稚園に入園早々、クラスのボスに位置していた男の子を舌戦のみで泣かせ、新たなボスとして降臨した。
その後も小学校に入学早々以下略、中学校以下略。
年を重ねるごとに、知恵と力と支配力を身につける詩哉の勢いは止まらず。
華々しい経歴と大量の子分をこさえ、高校にて満を持して絶大な力を手に入れる。
いわゆる“チーム”というやつだ。
高校入学早々、絡んできた当時のチームのリーダーであった3年生を、天性の腕っ節のみでこてんぱんに叩きつぶし、トップの座に就いた。
詩哉の手足となったチームは遺憾なく力を奮い続け、売られた喧嘩は必ず買い取り倍にして叩きつけ、時々喧嘩を安売りしながら、とうとう日本でも指折りの強大なチームとなる。
闇の世界からのお誘いもくるなか、それら全てを丁重にお断りし、結構な大きさになったチームは高校卒業後、名を“会社”に改め、舞台を変えて邁進する。
そう、終宵町に。
ここは、一歌の兄の愛すべき腐りきった“ホーム”なのだ。
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現実逃避気味に兄の生い立ちを辿ったところで事態が変わるはずもなく、一歌は意を決して一歩を踏み出した。
「うへぇぁ…」
踏み出した足がガムを踏みつけた時点で決意は霧散したが。
奇遇にも、兄の危険一杯華々しい人生への一歌の感想と同じである。曰く、「うへぇぁ」。諦めとか引く気持ちとか色々含んだ感想でもある。
家に帰りたいという儚い願いがほろほろと溢れてくるが、握った携帯に届いている兄からのメッセージを思い出し、何とか留まる。
兄から受け取る暑苦しい程の愛までなくとも、ささやかな願いを聞いてやるのはやぶさかではない程度には、一歌も兄のことが好きなのだ。
兄の城を守るため、困ったちゃんたちの様子を見てあげよう。
まずはどの子からにしようか?
詩哉からのメッセージはただ一言だけ。
『3週間の出張中、あいつら頼んだ』
これが初めてというわけでもない。
頭に浮かぶのは三人の顔。
近場から行こう、目指すは『金糸雀」。
兄の会社が運営する正当な賭博場。
ビルの隙間では強面の男共が屯し、違法の匂いを撒き散らす。
姦しい女共は路上にて淫靡な仕草。
男も女も喰うか喰われるの世界。
至るところに潜む危険を回避し、終宵町を無事に歩くコツ。
それを一歌は教わらずとも知っていた。
「ねぇねぇ、君女子高生?バイトとか興味ない?」
だから、傷んだ金髪の目立つ派手なキャッチから声を掛けられても、一歌は動じない。
「今のところ興味ないよー。てか、お兄さんお疲れじゃん?顔色悪いから、今日は休んだら?お大事にー」
「え、あ、うん…」
毒気を抜かれたような返事を背に。
にこ、と笑って足は止めずに歩き抜ける。
要は、自然に優雅に自信を持って。
自分がいて当たり前だと周囲に植え付ければいい。
小指の先ほどでも恐れを抱けば飲み込まれて噛み砕かれる。
それを、一歌は知っているだけのこと。
見るともなしに町の風景を眺めながら歩き、やっと目的の場所が見えてきた。
一見普通の高層ビル、中身は金と権力溢れる運試しのびっくり箱。
『金糸雀』は今日も盛況のよう。
受付には、見知った顔がいた。
「やっほー、樹くん」
「いっ…」
唖然として口を開け閉めする姿は間抜けな筈なのに、イケメンであることに変わりはない。
優男風のイケメンは目の保養である。
「一歌ちゃん!遅いよぉ…!」
がくぅ、と机に突っ伏した樹の肩が震えている。
勢いよく伏せたせいで乱れたさらさらの栗色の髪をなおしてやる。
「わぁ…そんなにキてるの…?」
「一歌ちゃん…君ねぇ、一体どれだけあいつと会ってないと思ってるの…?!」
「えっと…3ヶ月くらい…?」
繰り返すが、涙目のイケメンも目の保養である。
樹は3人いる困ったちゃんのうちの1人、『金糸雀』のオーナーの直属の部下だ。
つまり、兄の不在時に一番皺寄せがいくポジションにいる。
「でも、私と会ってないとか関係ないよー。お兄ちゃんとは時々会ってたでしょ?」
兄から頼まれた3人の困ったちゃん。
類は友を呼ぶと言えばいいのか、獣性の高い兄の側にはやはり獣性の高い人間が集った。
一人一人が十分に力を持つ者たちだというのに、彼らは元来の王者である兄に喜んで頭を垂れる。
些か鬱陶しい程の敬愛を兄に捧げているのである。
彼らの願いはただ一つ。
詩哉のために。
詩哉の望むままに。
詩哉が黒と言えば白を黒に染め上げ尚且つ自身も黒に染まって嬉々とするような奴らなのである。
一度、兄が失敗した部下に鉄拳制裁を下した場面に立ち会ったことがある。
吹っ飛んで壁に激突するような一発に、心配になって駆け寄った一歌が目にしたものは、殴られた頬を抑えて恍惚とする姿だった。
ドン引きである。
妹としては、思わず兄の下半身が心配になったくらいであった。
詩哉の視界に入るだけで幸せだと公言して憚らない輩の中で、群を抜いて傾倒するのがこれから会いにいく3人だ。
そんな彼等が、兄の不在時にどうしているのか?
答えは推して図るべし。
あの傲岸不遜を地でいく兄が心配して妹を派遣するのも頷ける事態、とだけ言っておこう。
「詩哉さんには会ってたけど!一歌ちゃんは別枠だよ!俺言ったよね?!せめて一ヶ月に一回は会ってって!言ったよね?!」
「樹くん、唾!唾飛んでるから!」
「俺の唾じゃなくて、あいつにツバつけてもらってよ早く!」
「ナニ言ってんの?!」
「本当に…お願いだからさ…!」
「えっ、嘘でしょ、な、泣かないで…!」
ぐす、と鼻をすする樹の周りでおろおろしていると、す、と右腕が最上階へつづくエレベーターを指す。
…最短距離でさっさと困ったちゃんの機嫌をとれと?
「樹くんは本当にいい根性してるよね」
「くすん」
やけに可愛い鼻をすする音で返事をされた。
「でもさ、一時間や二時間会うのが遅くなっても今更だと思うんだー」
「え、一歌ちゃん?!」
樹の制止を振り切り、一歌は走り出した。
行き先は樹の指し示す方向の間逆、賭博場へ続くエレベーター。
丁度降りてきたそれに乗り込み、閉まる扉の隙間からにこやかに手を振る。
「一歌ちゃぁんんんん!」
樹の悲鳴のような呼びかけを鉄の扉で遮断し、一歌はうきうきと財布を取り出す。
ここは運試しの遊び場。
賭ける金とプライドさえあれば、どんな人間でも平等に楽しめる。
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結局のところ正味三時間を遊び倒した一歌は、鬼気迫った樹とその部下たちにより、困ったちゃんの居住である最上階へと強制連行された。
頑丈な鉄扉の向こうには、詩哉に会えずフラストレーションを溜めた人間のような獣がいるのだ。
ちなみに樹は一歌をフロアに押し込むと、「有難う!」と白い歯を見せて去っていった。
何のお礼なのか不明である。
まさか生贄有難う?
んん、と喉の調子を確かめノックを三回。
返事がなくとも躊躇なくドアノブを引く。
日が沈んで少し経つ時間、灯りのない室内は手探りに進むしかない。
とは言え、何度も訪れた空間をゆっくり進んでいく。
リビングに続く扉を開けると、強烈な匂いが鼻を突き抜け一瞬で麻痺する。
それは、鉄錆。
生理的嫌悪を催す大量の血液の匂い。
「…ゆー君?」
吐息のような囁きを落とすと同時に、強烈な力で腕を引っ張られる。
腕を掴む大きな掌の持ち主なんて一人しかいないので、一歌は遠心力に身を任せ、ソファへと倒れこむ。
「うむ」
柔らなクッションに沈むものと思っていた体は、予想外に熱く硬い男の体に乗り上げ、尚且つ唇を塞がれ変な声を漏らした。
「ん、…っあ、ゆー…っは、んあ」
ぴちゃぴちゃと水音が響く。
口の中に侵入した熱い舌が我が物顔で暴れるので息が苦しい。
長い腕が腰に巻きついているので身動きもとれない。
不自由な体勢で精一杯、一歌は腕を伸ばした。
男のくせにツルツルな頬を撫で、指通りのいいさらさらの髪を乱す。
同時に、舌を伸ばし相手のフィールドへ転がり込む。
吸って、扱いて舐めて。
存分に暴れ返したあと、ちゅ、ちゅ、ちゅ、と唇、顎、喉に唇を落とし。
突然襲ってきた相手と至近距離で見つめあう。
「久し振り、ゆー君」
「…いちか?」
どこか舌足らずな呼びかけに、もう一度喉元に唇を落とすことで返事をする。
目付きの悪い凄味のある美形が、きょとんとする様は何度見ても可愛いと思う。
「ゆー君、まぁたお仕事サボってるでしょ?」
「…サボってない」
「じゃぁ、今お兄ちゃんが帰ってきても、よくやった、って褒めてもらえるくらいちゃんとお仕事してるんだね?」
「…問題ない」
「嘘下手すぎだよ、ゆー君」
『金糸雀』のオーナーにして、詩哉を心の底から崇拝する困ったちゃんこと猫実 雪晴。
何度も人を殺しかけたことがある野生の獣のような雪晴を、力で平伏させたのは一歌の兄である。
それから10年、兄の首輪を誇らしげに着ける獣は、しかし手綱が緩むとこうして野生の頃に戻るのだ。
自由で気ままな残虐な獣。
部屋を満たす血臭はむせ返る程だし、暴力の跡も生々しい。
雪晴のシャツが湿っているのは誰かの返り血。
折檻か拷問かそれともただの遊びか。
雪晴に痛めつけられた人の成れの果てが、闇に隠れてしまっていることは唯一の救いだ。
しかし、仮にそれが一歌の目に入ったとしても、今更動じることもない。
あの兄の下で育てばそれは日常茶飯事だったし、雪晴の手が一歌を傷つけることなどありはしないので。
「一歌が悪い。どれだけ俺と会っていないと思ってる」
「それさっきも樹くんに言われたよ。っていうか責任転嫁じゃない?」
「他の男の名前を今出すな。阿保。明日樹が真っ直ぐ歩けないのはお前のせいだぞ」
「樹くん痛めつけるの決定?!やめたげて、胃に穴空きそうな顔色してたのに、やめたげて?!」
雪晴含む困ったちゃんたちは全員、何故か一歌を気に入っているのだ。
好かれる心当たりもない一歌は、兄が可愛がる妹だからだと思っている。
「ねぇ、ゆー君。お仕事サボってたから、最近見回りしてないでしょ?」
「サボってない。…が、確かに十二分ではないかもしれん」
「サボってたのはもうわかってるんだってば。じゃなくて、
庭に飼い犬が迷い込んでるよ?」
「--へぇ?」
一段下がった低い声は笑んでいる。
ギラギラと眼の奥で光るのは血を求める飢え。
--獣が笑えばきっとこんな顔。
『金糸雀』までの町中で。
『金糸雀』の屋内で。
兄が不在ゆえに目につく輩。
どこの首輪をつけた犬なのか。
迷い込んだ犬ならば、きっちりかっちり飼い主を探し出して返してあげなくちゃね?
さぁ、お仕事の時間です。
「ゆー君、早く済ませてね。終わったら、一杯ごろごろしようね。お兄ちゃんが帰ってきたら、私がご飯作るから三人で一緒にご飯食べよう?」
「おう」
戦略を巡らせ始めた賢い獣に再び唇を奪われる。
人たらしのお兄様、釣った魚にも時々は餌をやらないと拗ねちゃうよ?
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王丸 詩哉は故国から離れた空の下で、目に入れても痛くない可愛い妹からメッセージを受け取った。
「餌ねぇ…」
「何だって?」
共に出張中の、部下であり兄妹の幼馴染が怪訝に問いただす。
「いや、一歌からメール。帰国したら雪晴と飯食おうって」
「あぁ?そりゃあれか、一歌の作った飯か?」
「だとよ」
「雪晴ぶっ殺す」
「うちの機動力潰すなよ」
一歌は詩哉を「獣性」が高いと評するが、詩哉こそ言わせてもらいたい。
お前の方こそ高いだろ、と。
さて、愛すべき妹よ。
俺が釣った魚に餌をやらないとは心外だ。
一歌…花の女子高生。兄にそっくり。
詩哉…獣の王様。美人。天然人たらし(悪専門)
雪晴…詩哉の一つ下。美形がだけど悪人面
困ったちゃん1人目で力尽きました