遠い太陽の下で
6.
肌寒さに目を開いた。
うっすら立ち籠める霧は、ふくよかな土の匂いがした。顔を上げ、辺りを窺う。様子が一変していた。瑞々しく茂っていた葉が紅く染まり、鮮やかだった向日葵は老人のように萎びて腰を折る。心なしか高い空に、羊雲が浮かんでいた。
ジジジジジジジ。
蝉が鳴いている。昨日より幾分、小さな声で。
『起きたのか?』
「あぁ」
ジジジジジジジ。
『なぁ、あんた』
眠いのだろうか。蝉の声が、やけに緩慢に聞こえた。
『最後まで……いてくれるかい』
「あぁ」
答えると、蝉がふと微笑んだ。ような気がした。
昆虫に表情があるのかどうかは知らない。けれどそのとき、少なくともセヴァには、確かにそう見えた。
ゆっくり煙管に火を付ける。
ジジジジジジジ………
冷えた杯を煽る。
木枯らしに、風鈴が暴れる。
ジジジ……ジジジジ………
鳶を羽織った。土に霜が着く。
ジジ、ジ、ジジジ……ジ
空気の匂いが移り変わってゆく。
めまぐるしく巡る季節は、眩しすぎて。
ハラハラと。舞い散る落葉に眼を細めれば。
あぁ刻限が迫る。
ジ、ジ……ジジ、ジ……ジジ………
それは断末魔か。焦燥か。極限の彼方で開眼する生の愉悦か。寄せては返す波のよう。大きく、小さく、蝉は鳴く。己の存在すべてを懸けて。愛しい季節にしがみつく。今この瞬間に。もっと力を!
ジ……ジジ………ジ
―――俺は抗いたかったのかもしれない―――
……ジ………ジ……、
そうだ。
決して手放すな。たとえ此処で果てる運命であろうと。
今、お前は間違いなく生きてるのだから。
抗え。
惨めでも滑稽でも。
死に抗い、理不尽に抗い、孤独に、運命に抗え。
俺が、見届ける。
ジ
「………」
途切れゆく声が、やがて薄れて。
酒を湛えた杯へと雪が落ち、溶けて名残もなく消えた。
†
雪が降りてくる。
片膝を着いて俯いていたセヴァは、不意に声を掛けられて振り返った。
「やっぱり此処だったか」
雪の中、ムゥがヘンゼルを抱いて立っていた。
「よく来れたな。この雪ン中」
「消雪剤を使ったんだ。環境に悪いから、あまり気は進まなかったが……しかし、一晩戻らないから心配したんだぞ」
ムゥはセヴァの視線を辿る。
油蝉の死骸が転がっていた。
「死んじゃったの?」
「あぁ」
ヘンゼルが訊ね、セヴァは頷いた。
「………」
そっか。呟いたきり、固く結ばれた口から零れる言葉はない。ただ薄い眉を寄せて、蝉の死骸を切なげに眺めている。だが、ヘンゼルは泣かなかった。今更ながらセヴァは気付く。この三年で彼は、ずいぶん大人びた顔をするようになった。
ムゥの腕から下り、ヘンゼルはセヴァの隣に膝を折った。小さな掌でそっと蝉の亡骸を掬い、言う。
「ここにうめてあげていい?」
「いや」
尻尾を一振り、セヴァが立ち上がった。
「どうして?」
予期せぬ相棒の不承知に、やや詰問調でムゥが口を挟む。
セヴァは空を振り仰ぎ、ふぅと白い息を吐く。静かだった。今は儚く舞い降りる雪も、いずれは跡形もなく、この場を静寂で埋め尽くすだろう。それならば。
南へ手を翳した。
見渡せば、やっぱり森は冬だった。死の色に覆われた音のない世界。何処までも広がる寂寥と、やがて来る春の鼓動を胎内に抱いて。凍る夢を見て眠る。閉じ込めた時間に永遠を願っても。叶いはしないと、知っている。あぁ、けれど。
「あッちの方が―――」
裸になった樹々の合間から、高く聳える丘が望める。
後悔はない。
眩しい季節が、二度と戻らぬ残響であっても。
自分の選んだ道だから。
これが俺の行く末。運命。
きっと、そのために生まれてきた。そのために死ぬ。
そのために生きる。
だから遠い太陽よ。
どうか見届けてくれ。
俺と、俺の愛する者達の往く末。
その先にある、時間を。
「お天道様がよく見えらァ」
了