今、真実を語ろう
4.
蝉は、大きな樹の幹に留まっていた。
「よォ」
『……またあんたか』
ジイジイという鳴き声の合間に、不機嫌な声が混ざる。
『なにしに来るんだ』
「剣呑だねェ。せっかく土産ェ持ってきてやったッてェのにさ」
袖から風鈴を出して、傍の枝に吊した。適当な岩を見付けて座る。焼けた岩肌の熱い感触が伝わり、セヴァはパタパタ尻尾を振った。
昨夜からまた降り始めた雪が、厳しい森の寒波を更に深めている。なのに、この一角は相変わらずの猛暑日で、やはり歴然とした場違いな夏が其処にあった。強い陽射しに絽の前をはだければ、微風でさえも心地良い。
学習能力を発揮して、本日は夏用の衣装である。尤も、此処へ来るまでは真冬を通らねばならないので、上に分厚い鳶を重ねてきたのだけれど。
「俺はただ、お前さんを見てたいだけなのさ。まァ楽にしてくンな」
『悪趣味』
「おうよ」
風鈴がチリン、と鳴る。
「お前さんも大概しつッこいねェ。なんだッて、さっさとくたばらねェのさ?」
『まだ死にたくないからだ』
「そりゃ誰だッてそうさ。けどな。生き物ッてやつは死ぬんだよ。俺は長生きで、お前さんは短命だけどよ。死は死だ。みんな、いずれ無に帰る。例外はねェ。平等だ。それでいいじゃねェか。どうして抗うのさ? 運命なんだぜ」
『運命なんてクソ食らえだ!』
チリン。途切れた会話の間を、風鈴の音が埋めた。
『僕は此処に在りたい。この暑さが、あの太陽が、夏が、僕のすべてだから!』
「……くッ」
ははははは、とセヴァは笑った。
『なにが可笑しい!』
「いや、悪ィ。その台詞、俺の娘も言ってたからさ」
運命など知らぬわ!
あぁイヅル。お前は、あのとき。そう言って泣いてくれていた。
たとえ世界がどうなろうと、俺が犠牲になる必要はないのだと。
嬉しかったさ。親父冥利に尽きるッてモンだ。
けどな。
―――そういうわけにも、いかねェ、だろ?
「……昔話していいかい」
唐突に切り出したセヴァに、蝉は戸惑ったのだろうか。一瞬、鳴き声がやむ。
けれど、
『………』
勝手にしろ。そう言ったきり、またジィジィと鳴き始めた。
†
俺の故郷は、ルルイエってェとこなんだけど。
場所? 説明すンのは難しいねェ。なにしろ次元が違うもんでさ。多次元宇宙ッて知ってるかい。世界は幾つもあるのさ。人間が知らねェだけでな。まぁこの世界もルルイエも、数え切れねェくらい存在する次元の一つッてこッた。
それぞれの次元は虫食い穴みてェなゲートで繋がってて、俺達ルルイエの民は、それを扱う術に長けてた。
つッても、領土拡大なンかにゃァ興味がねェ。ルルイエの民は、長い歴史の末にようやく築いた理想郷を壊したくなかっただけだ。だから、ゲートの使い道は唯一限られてた。理想郷を維持する上で邪魔なもの、危険なものを廃棄する穴。要するに俺達にとって、ゲートは単なる屑籠だったッてわけさ。
そのゲートのおかげかどうかは知らねェが、ルルイエは理想郷であり続けた。
これからも、そうあり続ける。みんな信じて疑わなかった。
そんなある日さ。俺がドクサを拾ったのは―――
ドクサは、華奢な外見の通り、女々しい性分の術士だった。
口数は少なく、常に周囲を気にしてオドオドしている臆病者で、誰からも軽蔑されていた。まるで親を亡くした小鳥。何処にいても怯えていた。他者の挙動に、己の異端に、無情な時間に、すべての変化に。
だが、瞳が気になった。
卑屈に歪みながら、その奥底に激しい欲望を沈めた。果てしなく深い漆黒。
だから傍に置いた。
共に過ごした季節は、穏やかで美しかった。
……別れは突然、訪れた。
ドクサが禁呪を犯したのである。
それもただの術ではなかった。術士として、知的生命体として、なにがあろうと絶対に踏み込んではならない領域。ドクサは其処に侵入し、結果、幾つもの生命を冒涜した。如何なる事情も減刑の対象にならなかった。決して許されることない、ルルイエ最悪の重罪だった。
ドクサの処分は、最終的にセヴァに一任されることとなった。
答えは初めから決まっていた。
―――右ノ者ヲ異次元追放トスル。
他にどんな贖罪があったというのか。誰がなんと言おうと、ドクサはもう、ルルイエに存在してはならない生き物だった。セヴァでさえ庇うことは不可能だった。庇うつもりもなかった。ただ、今でも思う。あのとき殺しておけばよかったと。
そして、ドクサは棄てられた。
何処へ繋がっているのかすらわからない、混沌のゲートへ。
数千年は何事もなく過ぎたさ。
でもな。運命ッてやつは、どォも奇天烈な形で俺達を縛るもんだ。
帰ってきたのさ。ドクサの欠片が。
いったいどれくらい、次元の狭間を漂ったのだろう。
何百年。何千年。いや何万年?
長い長い彷徨の果てに、ドクサは、ある世界に辿り着いた。
既に肉体は朽ち果てていた。気の遠くなるような年月は、ドクサを憎悪の化身へ変えた。ドクサは怨んだ。ドクサは呪った。自分をそんな化け物にしたルルイエの民を。己の理不尽な運命を。流れ着いた世界で、更に数千年。溶けてなくなってしまった口で、それでも呪詛を吐き続けた。
絶え間なく紡がれる憎しみは、やがて見えない毒のように世界を覆い、あるとき遂に、ルルイエに繋がるゲートへと達した。
ゲートから流れ込む呪詛に、ルルイエの民は為す術もなかった。中てられれば気が狂い、その姿は醜悪な怪物へと変形してしまう。弱い者から次々とやられていった。命を落とした者の半分以上は、同胞に討伐された一般市民だった。
いくら固くゲートを封印しても駄目だった。ゲートには両端がある。ルルイエのゲートだけを閉じても、意味がない。ドクサの呪詛を完全に防ぐには、反対側……つまりドクサのいる世界のゲートを閉じる必要がある。誰かが其方へ行って、両端を同時に封印するしか方法がないのだった。
これは片道切符。ドクサのいる世界へ行ってしまえば、もう二度とルルイエには戻れない。けれど誰かが行かねばならない。ならなかった。
誰かが………。
みんな大反対したさ。
特にイヅル……娘なんだが……アイツは満座で大泣きだ。叫ぶわ暴れるわ、いや往生したぜ。厨子王まで吹っ飛ばしやがッた。ッたく、護衛より強ェってどういうことよ。俺ァ、此処で殺されるンじゃねェかと思ったね。割とマジで。
けどな……けどよゥ。
誰かが行かなきゃ大勢が死ぬ。たった一人の犠牲で済むなら、なにも迷うこたァねェんだ。議論する余地なんざ端ッからありゃしねェ。きっと何処の世界でもそうしただろォよ。だから……ン? よせやい。悲劇の英雄なんて柄じゃねェ。
だから、俺が。
俺は、この世界へ来た。
†
『あんたはそれで満足なのか』
侮蔑の感情を含んだ発音で、蝉が言った。
「さァな」
煙管を咥え、火を付ける。
「でも後悔はしてねェ。誰を怨むつもりもねェ。これが俺の」
運命だったんだ。
静かに、けれど毅然として。セヴァは答えた。決意を帯びた黄金の瞳は、強く、まっすぐで、悲壮なまでの覇気に満ち、そのくせなんだか儚かった。燻る紫煙に、なにを見ていたのだろう。束の間そうして、セヴァは夏の陽射しを浴びていた。
『御立派なことだな。僕なら絶対に拒絶した』
「それでいいのさ。例えば俺の場合ッてェだけの話よ」
『カッコイイと思ってるのか、馬鹿馬鹿しい』
「違いねェ。我ながら酔狂なこッたぜ」
『それって、誰でもよかったんじゃないのか? どうしてあんたが……』
「……俺なんだよ」
セヴァは初めて、その美しい相貌を歪ませた。
ムゥにもヘンゼルにも、一度として見せたことのない顔だった。
「アイツが禁呪を犯した理由。俺の―――せいなんだ」
あぁセヴァ様。
私の持っている時間は、遠く貴方に及ばない。
けれど私は、貴方と生きたい。
ずっと。ずっと。ずっと。お傍に、いたいのです。
そう思うことは……罪なのですか?
『………ふうん』
蝉は、夏の続きを奏で始めた。
風が吹いて、風鈴が揺れた。少し冷えたか。セヴァは絽の襟を正し、持参した酒を開けた。眼を閉じれば、其処は、紛う事なき夏だった。