きまぐれさ
3.
翌朝、ヘンゼルが熱を出した。
「お前が付いていながら! 裸で遊ばせるなんて、なにを考えてるんだ!」
「………」
頭から湯気を立てるムゥに、耳を伏せた。反論出来ない。今回ばかりはセヴァの不注意である。なにしろ此処では、冬と夏の温度差は三十度近くある。左右の部屋よろしく短時間で行き来すれば、幼いヘンゼルが体調を崩すのは是非もない。急激な環境変化が祟ったのだろう。
ムゥはひとしきり喚いていたが、今更セヴァを責めたところで、ヘンゼルが元気になるわけでもない。薬を調合すると言い残して、慌ただしく研究室に籠もった。あの様子ではエリクサーを生成しかねない。お前が大丈夫か。
ヘンゼルの横たわるベッドに、腰を下ろした。額のタオルを替えてやると、うんと短い声を上げて、ヘンゼルが口を開いた。
「……ごめんなさい、セヴァさん」
「なんでお前が謝るンだよ。俺がうっかりしてたのさ。悪かった」
「ううん」
ヘンゼルは薄く笑う。要は、ムゥとの教育方針の違いなのだ。なにかと過保護で世話を焼きたがるムゥとは違って、基本セヴァは大味で放任主義である。それが彼なりの愛情だということを、ヘンゼルは知っていた。
達観した頼もしい大人であり、時にちょっといけない遊びを共有する悪友。そんなセヴァが、ヘンゼルは、ムゥと同じくらい好きなのだから。
セヴァの大きな手が、ヘンゼルの柔らかい金髪を撫でる。
「ゆっくり寝てな。じきに良くならァな」
「ねむくないな……」
なにかお話してよ。ヘンゼルは、毎晩そうするようにセヴァの袖を掴んで物語をねだった。確かにさっき起床したばかりである。眠れと言われて即座にグッスリという訳にもいくまい。セヴァは頷き、先客のチェシャを転がして、ヘンゼルの隣へ側臥した。
「昔々、あるところに爺ィと婆ァがいてだな。爺さんは山へ芝刈りに、婆さんは川へ洗濯に……」
「それってモモが流れてくるんでしょ?」
「ありゃ、既出だったか」
足元へ移動したチェシャが、ケタケタと笑った。蹴飛ばすべく脚を伸ばしたが、するりと避けられた。
子供の記憶力というのも、案外侮れないものである。此方は話したことすら忘れてしまっているのに。ならばと二つ三つ冒頭を並べてみる。はたせるかな、どれもよく憶えていた。これは一つ一つツッコミ待ちするよりは、初めからリクエストをお伺いした方が早そうだ。
「どんな話がいいよ?」
「まだ聞いたことないのがいいな」
熱で潤んだ緑の瞳が一瞬、期待に輝く。
セヴァの脳裏に、ふと遠い昔の情景が浮かんだ。
……そういやアイツにもこんな頃があったッけなァ………。
セヴァには娘がいる。
容貌頗る麗しく、極めて聡明英知にて、起居甚だ気随なり。知り合いの評だが、それを聞いたセヴァは呵々大笑、実に得心した。我が娘なれば然もありなんと。
父に輪を掛けた派手好きで、傲慢高飛車な激情家。何不自由なく育て上げたのには違いないが、ちょっと溺愛が過ぎたのかもしれない。周囲の者を巻き込む我が侭は日常茶飯事で、成人して益々、その類の騒動で父の手を焼いた。狐女帝の異名に相応しく、何人も逆らえぬ女傑である(一応、厨子王という護衛の諫言にだけは耳を傾けるらしいが)。
現在は、故郷を離れたセヴァに代わり、後任としてある重要機関の要職に就いている。父譲りの手腕を発揮し、部下には案外、慕われていた。セヴァでさえ敬老した役付きの爺共を、当然のように顎で扱き使ってはいるけれど。
名をユウズツイヅルノミコト―――イヅルという。
そんなイヅルにも勿論、幼い頃はあった。
何処へ行くにもヨチヨチとセヴァの後を付いてきて、夜布団に入れば、決まって御伽話をせがんだものだ。面白い話、悲しい話、怖い話、素敵な話。イヅルは物語の好きな子で、どんなジャンルでも興味津々、その狐耳をピンと立てて熱心に聞き入っていた。なかなか眠ってくれなくて、先にセヴァが眠ってしまって、次の日に終日不機嫌を通されたこともある。
二度と戻らぬ幸せな時間は、甘い記憶の中、太陽のように眩しかった。
「よッしゃ」
セヴァはヘンゼルの耳元に顔を寄せ、低い声で囁いた。
「それじゃァ、ムゥにも話したことないやつを」
こいつは正真正銘、とっておき。
「むかむかし、あるところに、動物の村がありました。其処には一匹の大きな狐が住んでいました。狐はお金持ちで、村の大切な仕事を任されていました。狐はある日、山の中で、お腹を空かせた狼とお友達になります………」
語り終えたとき、ヘンゼルは、腑に落ちないといった趣旨の感想を漏らした。
「村をおいだされたオオカミさんはどうなったの? さがしに行ったキツネさんはオオカミさんに会えたの?」
「いや。まだ」
セヴァは、ふぅと溜息を零す。
「……キツネさんは、どこに行っちゃったの?」
「どっかの森で楽しく暮らしてる。らしいぜ」
「………」
変なの。
ヘンゼルは天井を見上げた。
そのとき、静寂を破ってバタバタとムゥが寝室に駆け込んできた。なにがあったのか、服は黒く焦げて端々が焼失し、水色の長髪がチリチリアフロと化している。今度は本当に頭から湯気が出ていた。
「臭ェ! なんだそりゃ!」
「薬が出来た」
「最近の解熱剤ァ爆発すンのが粋なのかい?」
「初めのは失敗したんだ! これは完成品だから大丈夫だぞ」
「あはははは!」
ヘンゼルが笑い、その勢いで咳き込んだ。ムゥが背中を摩ってやり、両手で小さな掌を包んで、薬を飲ませる。コクコクと喉を鳴らして飲み下すのを見れば、あんじょう上出来らしい。何の彼の言って、やはりムゥは生成術の天才である。
間もなく、ヘンゼルは安らかな寝息を立て始めた。
セヴァが起き上がり、コート掛けから鳶を取る。
「あと任せた」
「え、何処へ行くんだ? こんな……」
ムゥは窓の外へ視線を流す。深々と雪が降っていた。
「なァに。ちょッくら夏にね」
「蝉のところか」
眉を上げ、ムゥは腰に手を当てる。
「……本物の夏まで生きられるだろうか」
「まさか。この雪だ。しぶてェ夏も、そう続くめェよ。じきくたばるぜ」
「だったらどうして……」
怪訝そうに首を傾げるムゥに、セヴァは背中で手を振った。
「―――きまぐれさ」