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此処だけ夏

2.




 二日間降り続いた雪は、森の景色をすっかり変えてしまっていた。

 使い慣れた道とはいえ、五十センチの積雪は、堂々たる障害物である。無論、脚を踏み入れれば、たちまちズボリだ。雪掻きなんぞ力仕事をする気は更々なかったので、セヴァは、久し振りに羽衣を纏った。

 セヴァの雪駄がするすると歩を進めれば、まっさらな雪の上に、僅かな浅い足跡が残った。羽衣の効果により、体重は限りなく零に近付いている。ヘンゼルを抱えていても、なんの問題もなかった。

 この美しい羽衣には重力を極限まで軽減化する術が掛けられており、その気になれば水上だろうと空中だろうと、何不自由なく歩くことが可能である。高度は最高で三メートル程度だが、こんなときには便利で、悪路を行く際は重宝だ。ヘンゼルが雪にダイブしたがって駄々を捏ねるのには、若干、閉口したけれども。

 あぁ、耳が冷たい。吐く息が白い。つんと肺に滲みる空気が美しすぎて。魂まで凍り付いてしまいそうだ。そんなものが本当にあるのか、俺は知らないけれど。


 ―――冬は、嫌いじゃない。

 暴力的なまでの寒さ。何者にも媚びぬ静寂と。限界まで張り詰めた匂いは。まるで硬質の硝子であり、砂の城であり、膨張する星の鼓動だ。きっと、今にも弾けて砕け散る。なにか大切なものが崩壊する、その瞬間を見守るような。深い絶望と、達成感にも似た心地良さが。胸の中で手を取り合って踊る。そんな危ういバランスが、なんともいえず、いい。

 色も音も、すべてが眠る。冬は無の国。虚ろの国。生命の存在をにべもなく無視して大地を蹂躙する死の行進は、その慈悲深さ故に。却って思い知らせてくれる。俺が此処に生きているということを。

 こんなとき、考える。

 生命の本質とは、詮ずる所、死そのものではないのかと。


 重い綿帽子を被って、枯れ木が枝をしならせている。視界に動くものはない。音といえば、セヴァとヘンゼルが交わす言葉だけ。艶のある低い声と幼児特有の黄色い声が紡ぐ、他愛もない小世界。それすらすぐに雪に吸われて、決して長くは響かない。静かで冷たい、森の冬だった。

 ただセヴァが歩く度、黄金の簪がキラキラと揺れて、微かな輝きを唄っていた。七色の羽衣を纏って雪路を往くセヴァは、遠くから見る者があれば、一羽冬に迷い込んだ蝶だったかもしれない。







 その場所へ辿り着くと、さすがにセヴァも驚いた。

 足場にしている厚い積雪が、目の前数十センチのところでスッパリと途切れている。その向こうには、雪どころか冬の欠片すら存在しない。雲に隠れているはずの太陽が光を降り注ぎ、力強く生い茂る樹々は夏の深緑を広げ、あろうことか向日葵まで咲いていた。此方側と彼方側で、完全に季節が分かれている。馬の背を分ける雨……いや雪?

「わぁ、すごい! ここだけ夏だ!」

 止める間もなく、ヘンゼルがセヴァから飛び降りた。好奇心旺盛な子供のこととはいえ、こんな得体の知れない空間に躊躇なく突っ込んでゆくなんて、ムゥはどんな教育をしとるんだ。やれやれと肩を竦め、セヴァも夏へと脚を踏み入れた。

 途端、焼け付くような熱気に包まれた。

 ぶわりと全身に汗が噴き出す。暑い。湿度は低いらしく、不快な類の蒸し暑さではなかった。だが純粋に気温が高い。異常に高い。暖房機能を持つ冬用の振袖は、瞬く間に地獄のサウナスーツへと変化した。とてもじゃないが着ていられない。

 手早く長い金髪を纏め上げ、諸肌脱いで、手で胸元に風を送った。裾を撒くって帯に通す。腰巻き一丁になりたいところだが、なにがあるかわからないので、これは思い留まった。夏だーと叫びながら前方を駆けるヘンゼルは、既に半裸である。

 しかしまぁ、なんだこりゃ。

 眩しく照り付ける太陽が、じりじりと肩を焼いていた。乱雑に生えた向日葵は、それでも揃って天を仰いでいる。晴れ渡った空の彼方、入道雲まで湧いてやがる。息を吸えば、夏の匂い。拭う傍から次々に、汗が滴り落ちてくる。

 歩いて来た方を振り返ってみると、やはり其処には泰然とした冬景色が聳えている。どちらも幻ではない。

 妙だな、と思った。

 この状況が、ではない。此処は非常識な森だ。こんなことは、たまにある。なんというか、そう……なにかが足りないのだ。凡そ夏の舞台は整っている。これだけ揺るぎない夏なのに、どうも寂しい。だいたい、ちょっと静かすぎやしないか。

 そうだ。あれか。聞こえない。夏の声。あの、やかましい―――

『ジジジジジジジジジジジジジ!』




「おおッと!」

 頬を掠めて通過しようとした羽音を、間髪入れず引っ掴んだ。

 突如飛来した謎の飛行物体は、セヴァに捕らえられて尚、その勢いを失わない。拳の中でジジジと暴れ、どうにかして逃れようと七転八倒の大騒ぎである。小さな体躯からは意外なくらいの、力強い抵抗だった。この大きさ、感触、鳴き声。

「おいチビ。蝉だぜ、ほら」

『ジジジジジジジジジジジジジジ』

 脇を抓んで見せ付けてやると、ヘンゼルが走り寄ってきた。もう汗臭かった。

「すごいすごいセヴァさん! ネコみたい!」

 尊敬の眼差しで見上げられると、悪くない気分である。セヴァは得意満面、尻尾を一つ大きく振った。

 と、蝉が脚をばたつかせ、強い拒絶の意思を発した。


『放せ! この! けだもの!』


 喋った。

 仰天して刮目するヘンゼルとは対照的に、セヴァは慣れたもの。事も無げに片眼を細めるのみだった。この森では、なにが起こっても不思議ではない。こちとら、千年は此処に住んでいるのである。こんなことでいちいちビビっていては、繊細な誰かさんではないが、速攻で神経が磨り減ってしまう。

「誰が獣だ、昆虫野郎。食ッちまうぞ」

 鼻先を突き付け、押し殺した声で睨みを利かせた。並の昆虫なら怯えて防御反応を示すところだ。けれどもこの蝉ときたら、セヴァの脅迫をものともせず、一段と身体を震わせてジィジィ喚き立てるのである。やけに反抗的な蝉だな。

「この有様ァ、お前さんの仕業かい?」

『悪いか! 放せ、けだものめ!』

 四方に視線を巡らせ、冗談のような夏色に唇を歪める。

「呆れたねェ。今、何月だと思ってンだ。大寒の真冬だぜ?」

『そんなことは認めない!』

「あン? 認めなくても冬なンだよ。お前は夏の生き物だろォが」

『僕は嫌だ! 冬なんて認めない!』

「意地ィ張ったッてしょうがあんめェよ。季節は移り変わるモンだぜ」

『それが勝手だっていうんだ!』

 蝉は、変声期の少年のような声で言い放ち、益々足掻いて喧しく鳴いた。


『どうして夏は終わってしまうんだ! 僕等は夏しか生きられないのに! こんなのってあるか! 僕はもっと、もっと生きていたい! なのに勝手に秋が来て! 冬が来て! 黙って死ななきゃいけないなんて! それって納得出来るかい!? 』


「………」

 これ以上確保していると握り潰してしまいそうだ。舌打ちして、セヴァは蝉を宙へブン投げた。茶色の羽が高速で震動し、すいと軌道が弧を描く。ヘンゼルが万歳して飛び跳ねたが、今度は捕まるはずもなかった。反骨蝉は瞬く間に深緑の木立へと消え、何処かの樹に留まったらしく、やがてジジジジと始まった。

「セミさーーん」

 ヘンゼルが呼び掛ける。返事はない。

「もうつかまえないからー出ておいでよーー」

 ジジジジジジジジジ。

 しばらく待ってみたが、それきり蝉は姿を現さなかった。







 三人で囲む夕飯のテーブルは、いつにも増して散らかった。

 というのも、ヘンゼルが食べながら喋るからである。今に始まったことではないが、今晩は特に騒々しかった。

「それでね、それでね。こっからここまで、夏なの。こっちがわは冬でね。中は、すっごくあついの。ヒマワリが咲いててね。お空は青くってね。お日さまがあついの。外に出るとさむいんだけど……」

 ヘンゼルが匙を振り回しながら、早口に捲し立てる。ムゥは微笑み、頷き、ときに眉を上げて、うんうんと拙い報告の一つ一つに相槌を打った。万事この調子なので、話が一段落付く頃には、すっかりスープが冷めてしまっていた。

「それで、その蝉はどうしたんだい?」

 頬杖を突き、ムゥが訊ねる。とっとと食事を終えたセヴァは、ソファでチェシャを引っ繰り返していた。

「うん。それからぜんぜん遊んでくれなくて。おこっちゃった」

 パチパチと、暖炉の火が爆ぜる。

「ねぇ先生。セミって夏しか生きられないの?」

「あぁ。幼虫のときは七年くらい土の中で過ごすけど、成虫になったら秋は越えられないな。そもそも、まだ生きてるのが有り得ないんだ」

「じゃあ、ほっといたら死んじゃうの?」

「……そうだな」

 しばしの沈黙。ヘンゼルの次の言葉が、ムゥには、なんとなくわかっていた。

「ねぇ、あのセミさんをおうちに入れてあげよう! ここなら火もあるし、だんろもベッドもあったかいよ。それでだいじょうぶでしょ? 夏になるまで」

「いや」

 精一杯の名案だったに違いない。ヘンゼルの顔から、見る間に輝きが失せた。

 けれどムゥは、薄く眼を伏せ、首を横に振るしかなかった。

「そういう生き物は、室内では生きられないんだ」

「どうして?」

「自然の決まりなんだよ。人間とは違うからね」

「……なんとかならないの?」

「残念だけど……」

 ヘンゼルの柔らかい金髪に、そっと優しく手を乗せる。ムゥは知っていた。如何に抗い、どんなに術を駆使しても、生命は、理の環を外れて生きることは出来ないのだ。ある程度の例外が許されるこの森に於いてすら、かつて永遠を手にしたものなど、誰一人としていない。みんな最後は往き着いた。或いは成長、或いは諦念、或いは真実の果てに。

 だから。

「私達に出来ることは、なにもないよ」

 わかるだろうか。わからないだろうか。ヘンゼルは答えず、真摯な瞳で、じっと師をみつめていた。

「あ」

 セヴァが窓に目を遣った。仄暗い夕闇に、ハラハラと白いものが舞っていた。

「雪―――」


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