凜慄公の訪問
世界は魔法に満ちている--。
海。
その砂浜にいるのはパンダの背に乗った青年。
長い青髪が風にあおられる。黒の双眸が見据えるのは海の遙か彼方。水平線も霞むしょうきが漂っている。こういう場所をアッダルと言う。世界にアッダルは幾つかあるがその中でも最大の面積を誇るのが、青年が見据える海。
通称《狂気の海》。
パンダが大きな欠伸をした。
「…行こうか」
軽く首筋をなでる。
風が強い海に向かってパンダは海に歩を進めた。
海面を音もなく、滑るように踏み出す。
海の上を走る。
見た目からは想像出来ないようなスピードで海を駆ける。
アッダルに突っ込む。
アッダルの中は魔獣が多く生息している。
ヒトにとって毒であるしょうきも、魔獣にとっては自分たちの吐く息に他ならない。
青年はパンダの背にしがみついたまま、ひたすらに前を見ている。
魔獣は、ひっきりなしに姿を見せるがパンダはその横をすり抜けて駆け抜ける。
アッダルを抜ける。
パンダは砂浜で止まり、方向転換し、今来た海の方を向く。
パンダの背の青年は、辺りを見回して、盛大な溜め息をついた。
「速すぎると思った」
そこは、数分前まで青年がいた砂浜。
真っ直ぐに駆けていたはずなのに、元いた場所に出て来ている。
正確に言えば、スタート地点からは10メートルばかりずれているが。
青年にとっては大差ない。
「何で対岸につかないんだろ?」
青年は首を傾げる。
地図上では、ニヴォーズ国かビジア国にたどり着く予定なのだが。
どういう訳か元の場所に戻る。青年は腕組みして首を傾げる。
「…こんな大掛かりな魔法、誰が仕掛けたんだろ?」
青年は考え込む。
ゆるりと目を開ける。
随分、懐かしいコトを夢見たものだ、と青年は苦笑する。
波の音に青年は辺りをぐるりと見回した。
夢に出て来た砂浜とは違うが、狂気の海に面していることには違いない。
あの懐かしい思い出は、波の音から連想されたものかも知れない、と再び苦笑する。まだ人外にはなりきれていないらしい。
枕がわりにしていたパンダは寝ているのか、微動だにしない。
ここは、青年が住んでいるランバーという島の砂浜だった。
考え事をしているうちに眠ってしまったようだった。
「あれからどのくらいたつのかなぁ」
一人呟いた青年の名前はオルディー・ファル・ヴォルディーンと言う。
「あー!いたいた。何でこんな所いるんだよ。探しちゃったじゃんか」
大きな声にオルディーは振り返った。
金髪に緑の目をした少年が近づいてくる。肩には濃い青の小鳥を乗せている。尾が長い小鳥だ。
「あれ?エバンシア久し振り」
オルディーを探し回ったらしいエバンシアは、大きな嘆息と共にオルディーの横に座り込んだ。
「もー、トラップ多過ぎ」
「エバンシアだったら軽いでしょ?」くすくす笑うオルディーをエバンシアが軽く睨む。
「軽くないっての。何あれ?結界?」
「まぁそうだね。イリスの真似してみたんだけど」
エバンシアが心底嫌そうな顔をする。
「だったら知り合いはフリーパスにしてくんないとさ。これじゃイリスじゃなくて、ブリュメールの嫌がらせと変わんないじゃん」
「紅於卿じゃなくて?」
くすくす笑うオルディーを半眼で眺める。
「クアイエトに殺されるよ?」
オルディーは肩をすくめる。
「ま、いいけど。オレが聞きたいのは、『ファル・ヴォルディーンの魔法遣い』になった理由の方だから」
オルディーが軽く目を瞬く。
「え。何で知ってるの?」
「昨日イリスに聞いた」「…イリスにもまだ言ってないけど」
「だろうね。『まだ内密だろうが、決定事項には変わりない』って言ってた」
オルディーは苦笑して狂気の海を見据える。
「何で知ってるのかなぁ」
「イリスだからね」
エバンシアは事もなげに言って。
「で?」
「約束だったからね」
オルディーは肩をすくめた。
「『いつか、魔法遣いになったら我が家の魔法遣いになってね。その内独立するのも悪くないわね』って」
「物騒な家族」
「『お前の好きなようにすればいい。ま、俺の希望はファル・ヴォルディーンの魔法遣いになってくれることだが』って」
「……」
「『やりたいようにやれば?時々思い出してくれればいいし』って」
オルディーは困ったように嘆息した。
「この間、称号貰っちゃったからさ」
「あー、あれ」
「魔法遣いになった証明みたいなものでしょ」
魔法塔と言う、魔法士たちの聖地みたいな所から勝手に贈られるのは、称号。
称号は、『良くも悪くも世界に多大な影響を及ぼすモノ』に贈られる。
ヒトを害する魔獣にも、魔法を極めた魔法士にも、勝手に贈られる。
オルディーとエバンシアは同じ年に称号を贈られた。
オルディーには『菱荷』、エバンシアには『六花』と言う称号が贈られた。意味は教えて貰えなかったが、魔法塔の方でも把握していないらしかった。
どっからか、こいつの称号これだから、と指令が来るらしい。魔法塔もいい加減なものである。
「で、クラムウェルは?」
「家の中にいるはずだけど?」
エバンシアは首を傾げた。
「マジで?姿見かけなかったけど」
オルディーは辺りをぐるりと見回した。
パンダが大きな欠伸をした。
『世界』のどこかで、ピシ、と微かな音がする。
「…誰ですか?」
オルディーが、エバンシアを睨む。
「…遅い」
エバンシアの口から出たのは違う声。
エバンシアよりずっと低くて冷たい。
よく見ると、緑色の双眸であるはずなのに、藍色に変わっている。
一つ気づいてしまえば。
金髪だと思っていた髪は青銀だし、オルディーより低いはずの身長は頭一つ分高い。それにこの細長い体格に漂うしょうきの感覚。
はっとして、手の甲を見る。そこには、青白くうかぶ魔法陣。
キスリムと呼ばれるその魔法陣は所有の証。
エバンシアの名が刻まれた魔法陣。
目の前にいたのは。
「凜慄公」
オルディーがかすれた声で呟く。
オルディーの目の前にいるのは《凜慄》という称号を贈りつけられた魔獣だ。
ただし、魔獣のある習性によって、凜慄はエバンシアの隷となっている。
「我が君を連れて来い」
凜慄は低く命じる。オルディーは一瞬、考えて。
「…里帰りしてるだけでしょう?」
「3日もだ」
「一週間ぐらい待ってみては?」
オルディーが口にした瞬間、ギロリと睨む。
余りの迫力に、オルディーは嘆息した。
「わかりました。一応、伝えに行きます」
「連れ戻せ」
オルディーは首を振った。
「エバンシアは理由があるからイリスの所に留まっていると思います。無理やり連れ出せません」
一つ、息をつく。
「確かにイリスの家は、不安かも知れませんが…」
「不安なんてものじゃない」
一層低い声が、不安の大きさを物語る。
「まぁ、そうでしょうけども…。少なくともイリスはエバンシアに危害を加えることはありませんよ。弟みたいなものでしょうから」
その時の凜慄の何とも言えない表情をオルディーは忘れることが出来ない。




