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私を大切にしない氷の旦那様に天誅を! 〜浮気調査のつもりで開かずの扉をピッキングしたら、私への激重ポエムと特注ティアラが出てきたんですが!?〜

作者: 九条 綾乃
掲載日:2026/06/15

 侯爵邸の廊下は、氷が張る湖面のように底冷えしていた。

 磨き上げられた大理石の床。壁にズラリと並ぶ由緒正しきご先祖様たちの肖像画。窓辺に飾られた純白の薔薇。どれもこれもが一ミリの狂いもなく完璧に整っているというのに、ただひとつ、この屋敷で最も大切なものだけが、どうにもこうにも盛大にブッ壊れかけている。


 私と、夫の関係である。


「旦那様がお戻りです」


 執事のオスカーが静かに告げた瞬間、私は手にしていた刺繍枠を勢いよく握り潰しそうになった。

 落ち着け、アマリリス・ヴァレンタイン。

 私は侯爵夫人。社交界において「その一瞥と微笑みだけで小国の軍隊より場を制圧する」とまで噂された女だ。たかが夫が帰ってきたくらいで、動揺して針を指に刺すなどという無様な真似は許されない。

 スゥッと深く息を吸い込み、私は何食わぬ完璧な顔を作って廊下に出た。


 ちょうど向こうから、夫であるヴィンセント・ヴァレンタイン侯爵が歩いてくる。

 月明かりを紡いだような純銀の髪。冷たい湖をそのまま閉じ込めたような、透き通る青い瞳。すらりとした長身に、漆黒の礼服が憎らしいほどよく似合う。いつ見ても、通りすがりの令嬢が三人は気絶しそうなほど。本当に、悔しいくらいに美しい男だ。

 ただし、その顔面は常に絶対零度の無表情な『氷』である。


「お帰りなさいませ、旦那様」


 私は微笑んだ。

 妻として百点満点、いや一万点満点の微笑みである。これを社交界の夜会で放てば、歴戦の意地悪夫人も戦意を喪失して味方になり、そんじょそこらの令嬢は圧倒的敗北を悟って道を開ける。

 しかし、我が夫ヴィンセントは一瞬だけこちらをチラリと見たあと、すぐにスッと目を逸らした。


「……ああ」


 それだけ!?

 一言、たったそれだけ言って、彼は長い脚で足早に私を通り過ぎていった。


「……また無視」


 私は壁の影にサッと隠れると、ギリィッ! と音を立てて純白のレースハンカチを噛み締めた。


「これで連続二週間と三日よ!!」


 結婚して一年。

 最初の頃のヴィンセントは、不器用ながらも確かに優しかったのだ。食事の席で私の好きなサーモンのマリネを無言で私の皿に増やしてくれたり、夜の庭園を散歩していて少しでも私が身震いすれば、瞬時に彼が羽織った温かいショールを掛けてくれたりした。

 会話は確かに少なかった。けれど、その沈黙は決して冷たいものではなく、むしろ心地よい穏やかなものだったはずなのだ。


 それが最近、急激に、劇的に変わった。

 夜遅くまで帰らない。帰ってきても絶対に目を合わせない。夕食も「仕事がある」と謎の激務アピールをして欠席。廊下で私が話しかけると、まるで心臓を射抜かれた小鹿のような顔をして猛ダッシュで逃走する!


 しかも、私の専属侍女であるリリアから、とんでもない極秘報告が入っていたのだ!


「奥様、大変申し上げにくいのですが……旦那様が最近、裏通りの怪しげな宝石商と何度も密会なさっているとか」

「宝石商?」

「はい。しかも、目玉が飛び出るほど非常に高価な石を探しているご様子でして」

「……女ね!」

「まだ何も申し上げておりません」

「女よ!!」


 私の中では、その時点で完全に結論が出た。

 宝石。密会。妻への氷点下の態度。

 これはもう、どこぞの愛人へ貢ぐ宝飾品を選んでいるに違いない。


 極めつけは、彼の執務室の奥にいつの間にか爆誕していた「絶対に開けてはならない開かずの扉」だ。

 あの日、私はただ執務室の花を飾り替えようとしただけだったのだ。扉のそばに置かれた花瓶の白百合が少ししおれていたから、見栄えの良い新しい薔薇に替えようと近づいた。

 するとヴィンセントが、普段の氷の仮面をかなぐり捨てる勢いで珍しく声を荒げたのだ。


『そこには触れるな!!』


 あの時の顔。

 焦り。恐怖。そして決定的な隠し事。

 間違いない。あの部屋には、愛人を屋敷に迎えるための準備の品か、私を実家に叩き返すための離縁状か、あるいはその両方がたっぷり詰まっているんだわ!


「上等じゃないの!」


 私は自室に戻ると、豪奢なドレッサーの前に立った。

 鏡の中の私は、侯爵夫人らしく優雅なペールブルーのドレスをまとっている。だがその瞳は、完全にこれから敵国へ単機特攻を仕掛ける女戦士のそれだった。


「私をないがしろにしたこと、骨の髄までたっぷり後悔させてやるわ!」


 ただ問い詰めて泣き喚くだけでは、アマリリス・ヴァレンタインの名が廃る。

 私は怒っているのだ。

 悲しい? もちろん悲しいわよ! 夜な夜な枕を濡らしたわ!

 でも、それをただの泣き寝入りで終わらせるほど、私は可憐でか弱いだけの女ではないのだ。


「リリア」

「はい、奥様」

「例のものを出しなさい」

「……まさか、本当にお使いになるのですか?」

「使うわ。出しなさい」


 リリアは一瞬だけ悟りを開いた僧侶のような遠い目をしたあと、深々と礼をして、厳重にロックされた小さな黒い箱を差し出した。

 中には、私が魔法細工師に大金を積んでこっそり作らせた特注品が入っている。


 ひとつめ。

『たいへんよくできました♡』というポップな文字と、満面の笑みでサムズアップするウサギが刻まれた魔法スタンプ。

 一度押すと、淡いピンク色の光を放ちながら三日間絶対に消えない。こんなものを、明日の朝ヴィンセントが王宮へ提出する厳格な公文書に押そうものなら、氷の侯爵としての威厳など宇宙の塵となって消え去るだろう。


 ふたつめ。

 妖精パウダー爆発トラップ。

 ドアノブに細工を仕掛けるだけで、開けた者の頭上からパリピ顔負けのド派手なピンクラメと甘ったるい香りのフワフワ羽が猛烈な勢いで大噴射される、社交界の悪戯好き令嬢たちの間で「悪魔の兵器」として禁忌指定される逸品だ。


「奥様、これは下手をすると侯爵家の威信に関わります。旦那様が王宮でウサギ印の書類を提出したら、向こう十年は歴史の教科書に載るレベルで語り継がれますよ」

「だからいいのよ」


 私は満面の笑みでウサギのスタンプを握りしめた。

「氷の侯爵様には、明日の朝、ピンクの妖精さんになって恥ずかしい伝説になっていただくわ!」


 草木も眠り、フクロウすら口をつぐむ丑三つ時。

 侯爵邸は水を打ったように静まり返っていた。使用人たちは深い眠りにつき、暖炉の火も小さくなり、廊下には青白い月明かりだけが落ちている。

 私は黒い外套をすっぽりと羽織り、足音の鳴らない特殊な靴を履いて、そろそろと執務室へ忍び込んだ。腰には愛用のピッキングツール。懐には悪魔のウサギスタンプ。そして背中には燃え盛る怒り。


「ふふん。どんな強固な鍵も、私の手にかかればイチコロよ」


 なぜ深窓の侯爵夫人がピッキングなどという暗殺者のようなスキルを持っているのか。

 答えは簡単だ。独身時代、兄の部屋に隠された外国製の高級お菓子の隠し場所を暴くために、血のにじむような努力で身につけたのである。人間、食欲と執念があれば大抵の技術は身につく。


 執務室に侵入し、まずは明日の決裁書類の印を『ウサギさんスタンプ』にすり替える。

 次に、本命である執務室の奥の「開かずの扉」の前に立った私は、この怪しいドアノブに『妖精パウダー爆弾』を完璧にセットした。

 明日の朝、愛人の証拠を確認しようと彼がこの扉を開けた瞬間に、ピンクの粉まみれになるという算段だ。


「さあ、見せてもらうわ。あなたが何を隠しているのか!」


 自ら仕掛けた爆弾トラップを作動させないよう慎重に回避しながら、私は鍵穴に細いツールを差し込んだ。

 カチリ。一段目クリア。

 カチャ。二段目クリア。

 最後に、ごく小さな魔力の膜を針先で撫でるように慎重に外す。


 カチャリ。


 小気味よい音が響いた。

「オホホホホ!勝ったわ」

 私は小さく呟き、勢いよく秘密の扉を押し開けた。

 ランタンの明かりが、ゆっくりと部屋の中を照らし出す。愛人の影か、はたまた離縁状の束か! さあ来い!


 そして私は、言葉を完全に失った。


「……えっ?」


 愛人はいなかった。

 離縁状もなかった。

 代わりにいたのは、壁一面の『私』。


「……私?」


 右を見ても肖像画。左を見ても肖像画。天井近くまで肖像画!

 庭で優雅にお茶を飲む私。書斎で本を読んでいる私。舞踏会で扇を広げている私。窓辺で無防備に居眠りしている私。

 さらに、庭で野良猫に話しかけている私、薔薇の棘で指を刺して「痛ぁっ!」と激怒している私、極めつけは、巨大な骨付き肉を大口でバクゥッ!と頬張っている私まで!


「いつ描かせたの!? というか、肉を食いちぎっているところをわざわざ肖像画にする必要は!?」


 恐る恐る近づくと、その肉食肖像画の立派な額縁の下に、金ピカの小さな札がついていた。

『初めて肉料理をおかわりした日。生命力に満ち溢れており、非常に可憐。神』


 私は札と絵を三度見した。

 可憐。生命力。骨付き肉。神。

 情報量が多くて混乱で頭が追いつかない。


 さらに部屋の中央には大きな黒い机があり、その上には山ほどの書類と、「A」のイニシャルが金糸で刺繍された美しい絹張りの箱が置かれていた。

 震える手で箱を開ける。

 中に収められていたのは、息を呑むほど美しいティアラだった。

 淡い、淡いピンク色の最高級ダイヤモンドが、薔薇の花弁のように精巧に並んでいる。中央にはひときわ大きな石。光を受けるたび、私の瞳とまったく同じ色にきらめいた。


「……これ」


 愛人への贈り物?

 そう思おうとした。でも、箱の内側に刺繍された文字が目に飛び込んでくる。

『To my beloved Amaryllis(我が最愛のアマリリスへ)』


 あぁっ!もうダメ!頭がクラクラする!

 私はゆっくりと、机の上に広げられた分厚い革表紙の手帳に目を落とした。

 几帳面な字で、日付ごとに文章がびっしりと狂気的な密度で書かれている。

 嫌な予感がした。いや、良い予感なのかもしれないが、とりあえずヤバい予感がした。

 私は最初のページを開く。


  【4月5日】

  今日のアマリリスは白いドレスだった。似合いすぎていた。あまりにも眩しく、直視したら魂が身体から抜け出て天に召されるかと思った。

  彼女に「お帰りなさい」と天使のように微笑まれたが、緊張のあまり返事が「ああ」しか出なかった。私は人間として終わっている。夫としても終わっている。死にたい。


「……」

 次のページをめくる。


  【4月6日】

  夕食を共にする予定だったが、アマリリスがこちらを見て「今日は鹿肉の煮込みですって」と嬉しそうに言った瞬間、私の中の幸福計測器が限界を超えた。

  このまま同席したら、私は尊さに耐えきれず彼女の前で号泣するかもしれない。やむなく仕事を理由に逃げてしまった。

  最低だ。死にたい。


「待って」

 さらに次。


  【4月7日】

  アマリリスが庭で猫に話しかけていた。猫になりたい。いや、一匹の猫に嫉妬するなど侯爵としてあるまじきことだ。

  しかし、彼女に膝をポンポンと叩かれて「おいで」と呼ばれたい人生だった。

  死にたい。


「重い!!」

 私は思わず大声でツッコミを入れた。

 それから数ページ飛ばしてめくる。


  【6月14日】

  来月の結婚一周年の贈り物を探している。彼女の美しい瞳と同じ色のピンクダイヤがいい。世界中を探しても彼女に見合う石が見つからない。

  裏通りの宝石商を呼び出し厳しく注文をつけた。彼女にふさわしくない石を持ってきたら、我が領内には住めないと思えと脅した。

  サプライズにしたいので、絶対に気づかれてはならない。


「宝石商との密会って、これのこと!?」


 さらに、手記の横には別の紙束が山積みになっていた。

 題名は『我が妻アマリリスに捧ぐ詩・第七十二稿』。

 ななじゅうに。

 私は無言で紙をめくった。


  君の微笑みは春の曙

  君の怒りは美しき薔薇の嵐

  君が肉を頬張る姿は豊穣の女神

  君が私を睨みつけるなら、それは至高の甘い甘いご褒美


「最後の行が、おかしいわよ!! 」


 私は頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。

 ないがしろにされている?

 浮気?

 離縁?

 全部違う。これは。


「ただの激重な愛妻家ポンコツじゃないのよ!!」


 部屋の中で叫んだ瞬間、壁一面の私の肖像画が、ランタンの明かりに照らされて一斉にこちらを見つめ返してきた。

 ものすごく気まずい。

 そして、ものすごく、死ぬほど恥ずかしい。

 胸の奥が、じんわりと、やけどしそうなほど熱くなる。

 彼は私を嫌っていたわけではなかった。邪魔になったわけでもなかった。

 むしろ、好きすぎて、尊すぎて、キャパオーバーを起こして挙動不審になっていただけだったのだ。不器用にもほどがあるだろう。


「もう、バカみたい……」


 私はティアラをそっと指先で撫でた。

 ガチガチに固まっていた怒りが、少しずつほどけていく。寂しくて悲しかった分だけ、強烈な嬉しさと愛おしさが胸に押し寄せてくる。


 けれど次の瞬間。

 私は、全身の血の気がサァァァッと引いていくのを感じた。


「……ハッ」


 忘れていた。

 私が、つい数分前に仕掛けたもの。

 執務室の机の上のウサギ印。

 そして、今まさに私が通り抜けてきた、この「開かずの扉」のドアノブに仕掛けた妖精パウダー爆弾!


「やばいやばいやばい!!」


 私は手記をバタンと閉じ、ティアラの箱を置き、全力で秘密の部屋から執務室へと飛び出した。

「このままだと明日の朝、旦那様がピンクの妖精さんになって、王宮にウサギさんスタンプの公文書を提出しちゃう!!」


 感動している場合ではない!

 侯爵家の威信どころか、最愛の夫の社会的生命が物理的に粉々になって消え去る!

 いや、八割くらいは言葉が足りない彼の自業自得だが、残り二割は完全に私の短気な悪戯のせいだ。

 私は執務室の中を猛然と走った。


 机にスライディング気味に飛び込んだ私は、まず一直線に決裁書類へ突進した。

「スタンプ、スタンプ、スタンプ!!」

 書類の横に置かれた厳格な紋章印。その隣に、私がすり替えたばかりのウサギ印。魔法の淡いピンク色をまとったウサギが、にこにことサムズアップしてこちらを見ている。

 今はその能天気な可愛さが憎い。


「即・回・収!」

 私はウサギ印を鷲掴みにし、懐の奥深くにねじ込んだ。

 すぐに本来の厳格な紋章印を元の位置へセットする。


「よし、セーフ……! 次は『開かずの扉』に仕掛けたドアノブの爆弾よ!」


 妖精パウダー爆発トラップは、一度設置すると解除に少しコツがいる。魔力線を逆向きにそっと撫で、固定用の銀糸を緩め、最後に安全ピンを戻さなければならない。一歩間違えれば大爆発だ。

「落ち着いて。私はできる。兄の部屋の鍵を三十七回、厳重な金庫を五回開けた女よ!」


 私は再び「開かずの扉」の前にしゃがみ込み、息を殺してドアノブの細工を覗き込んだ。

 銀糸が見える。

 魔力の結び目も見える。

 よし、いける。


「まずはここの結び目を……」


 その時だった。

 背後の、執務室の入り口側から、低く眠たげな声が降ってきた。


「アマリリス……?」


 ビクゥッ!?

 全身の産毛が総毛立つ。

「こんな夜中に、執務室で何をしている?」


 ゆっくり、ギギギ……と錆びた機械のように振り返る。

 そこには、執務室の入り口に立つパジャマ姿のヴィンセントがいた。

 いつもの隙のない黒い礼服ではなく、ゆるく羽織った白い夜着。完璧に撫でつけられているはずの銀髪は少し寝癖で跳ね、瞳は寝起きでぼんやりと潤んでいる。

 氷の侯爵というより、ご主人様を探して起きてきた寝ぼけた大型犬である。「かわいい」の破壊力がすごすぎる!


「あ、あなたこそっ!なぜここに!?」

「目が覚めたら、君がいなかった」

 ヴィンセントは大真面目な顔で言いながら、執務室の中へ足を踏み入れ、私の方へと近づいてくる。

「とても心配になった」


 そのストレートな一言で、私の胸が不覚にもきゅぅぅん!と鳴った。

 だが、今はときめいている場合ではないのだ!

 彼の手が、会話しながら何気なく、私が背中で庇っている『開かずの扉』のドアノブへ――トラップのど真ん中へ――伸びてくる。


「待って!!」

「どうした?」

「その手を離して!」

「なぜだ?」


 必死すぎる私を見て、ヴィンセントの整った眉がぴくりと動いた。

 そして、その鋭い視線が、私の背後――わずかに開け放たれたままになっている『開かずの扉』の隙間へ向かう。

 まずい。彼はついに思い出したのだ。自分の恥ずかしい秘密ポエムがそこにあることを。


「アマリリス」

 彼の声が、地を這うように低くなる。

「まさか、あの部屋に入ったのか?」

「ええと、その」

「見たのか?」

「え、と、壁の私の絵を……」

「詩も!?」

「七十二稿の……アレ?」


 ヴィンセントの顔が、みるみるうちに赤く染まっていった。

 耳まで真っ赤。首まで赤い。

 寝起きの大型犬から、一瞬にして塩茹でされた海老へと進化した。


「……終わった」

 彼は絶望の底から響くような声で小さく呟いた。

「私は終わった。よりによって最愛の君に見られた。最悪だ。いや、隠していた私が悪いのだが。だが、あの詩はまだ推敲中なのだ!特に肉料理の比喩は未完成で……」

「気にするところ、そこ!?」

「君を豊穣の女神と表現するには、私の語彙が決定的に足りなかったのだ……」

「だから肉から離れなさい!!」


 私が盛大にツッコミを叫んだ、その拍子だった。

 秘密の部屋を隠したい一心で、ヴィンセントがビクッとして、無意識に、反射的に、「開かずの扉」のドアノブをギュッと掴んでしまったのだ。


 あっ。

 銀糸がーー外れた。

 天井に仕掛けた魔法陣が、ピカーーッ!と淡いピンク色に輝き出す。


「だ、ダメェェェェェェェッ!!」


 私は、愛する夫の尊厳を守るため、全力でヴィンセントに向かって飛びかかった。


 パパーーーーーーーンッッ!!!


 静まり返った夜の侯爵邸に、けたたましい破裂音が鳴り響いた。

 同時に、天井からバケツをひっくり返したような大量のピンクラメと、甘ったるい花蜜の香りがするフワフワの羽が、猛吹雪の如く降り注ぐ。


「な、なんだこれは!?」

「げほっ、ごほぉっ……!」


 間一髪で横からヴィンセントにスライディングタックルをかまし、突き飛ばすことには成功した。

 しかしその代償として、トラップの直撃を100%その身に受けたのは、他でもない私だった。


「アマリリス! 大丈夫か!? 怪我はないか!?」

「怪我はないわ……。ただし、侯爵夫人としての尊厳が少し……」

「なぜ執務室にこんな凶悪なものが……」

「あなたに! 天誅を! 下すためよ!!」


「天誅?」

 ヴィンセントは真顔でオウム返しにした。

「私に?」

「そうよ!!」


 私は頭から爪先まで、髪にも睫毛にもドレスにもピンクのキラキラと羽をくっつけた『完全なる妖精さん』の姿で、バサァッ!と立ち上がった。動くたびに周囲に粉が舞い散る。


「だってあなたが悪いんでしょう!? 最近ずっと冷たくて、夕食にも来なくて、目も合わせなくて! 宝石商とこそこそ会って、開かずの部屋には触るなって怒鳴って!」

「それは……」

「私、浮気されて実家に追い出されるんだって、本気で思ったのよ!」


 その瞬間、ヴィンセントの顔からスッと血の気が引いた。


「浮気?」

「そうよ!」

「私が、君以外の誰かを?ありえない!!」


 彼は食い気味に答えた。それはあまりにも速かった。

「この世に君以外の女性が存在していることは知識として理解している。しかし、それは地図上に山脈や河川が存在していると知っているのと同じだ。私の心には一切関係がない」

「言い方が難しくて、重い!!」

「すまない」

「謝るところが違う!!」


 私は勢いよく、ラメまみれの指を彼に突きつけた。

「あなたがちゃんと言葉にしないから、私はずっと不安だったの。私が何か悪いことをしたのかと思った。嫌われたのかと思った。政略結婚だから、やっぱり私なんていらないのかと思ったのよ!」


 言っているうちに、ツンとしていた鼻の奥が熱くなり、声が震えた。

 怒っていた。でも、それ以上に本当に悲しかったのだ。


 ヴィンセントは凍りついたように私を見つめていた。

 その美しい青い瞳が、ひどく揺れている。


「アマリリス」

 彼はゆっくりと、私の前で膝をついた。

「すまなかった」

「膝をつけばいいってものじゃないわよ」

「君を不安にさせた。悲しませた。私は、夫として最低だ」

「そこまでは……」

「君が眩しすぎて、目を合わせられなかった」

「本当に?」

「君が私に笑いかけるたび、胸が締め付けられるように痛くなった」

「それは……お医者様に診ていただかないと」

「君と夕食を共にすると、幸福すぎて手が震えるのだ」

「慣れてくださいな」

「君が眠っている姿を見て、このまま朝まで瞬きせずに見守りたいと思った」

「それは……普通に怖いわ」

「だが……君に情けない姿を見せて、嫌われたくなかった」


 その弱々しい言葉で、私は反論の口を閉じた。

 ヴィンセントは俯いたまま、ぽつりぽつりと続ける。


「私はずっと、君にふさわしい夫になりたかった。冷静で、頼もしく、何事にも動じない完璧な夫に。だが実際には、愛しい君の前に立つだけで頭が真っ白になり、何を言えばいいかわからなくなる。情けない自分を見せたくなくて、逃げた。そのせいで、君を一番傷つけた」


「……本当に、救いようのない旦那様ね……」


 私は彼に歩み寄った。

 そして、その綺麗な美しい銀髪の頭に向かって、容赦なく腕を振り上げ――。


 ポカッ。


 軽く、チョップを落とした。

「痛っ」

「天誅よ」


 ヴィンセントは目を瞬かせ、それからなぜか、ふにゃりと少し嬉しそうに表情を緩めた。

「……もう一度、してくれるか?」

「やめて!喜ばないで」

「喜んではいない。いや、喜んでいるのか。ただ、愛する君から与えられる罰なら甘んじて受け入れようと」

「だから重いのよ!!」


 私が叫ぶと、彼はようやく声を出して笑った。

 分厚い氷が溶け落ちるような、とても柔らかくて優しい笑みだった。

 胸が、またきゅっとなる。ずるい。そんな顔ができるなら、最初から私だけに見せてくれればよかったのに。


 ヴィンセントは立ち上がると、開かずの部屋へ向かい、中からあの絹張りの箱を持って戻ってきた。


「本当は、結婚一周年の日に渡すつもりだった」

 箱が開く。

 ピンクダイヤのティアラが、月明かりを受けてキラキラときらめいた。

「君の瞳に似た石を探していた。どの石も君の美しさには足りなくて、何度も宝石商を呼んで探させた。君に知られたくなくて、馬鹿みたいに隠した」


 彼は少し震える手でティアラを持ち上げた。

「少し早いが、どうか受け取ってほしい」


 私は何か言おうとした。

 でも、うまく言葉が出なかった。怒りも、恥ずかしさも、嬉しさも、全部ごちゃ混ぜになって、胸の奥で大暴れしている。


「……仕方ないわね」

 私はツンと顎を上げた。

「今回だけは、この可愛いティアラに免じて許してあげる」


 ヴィンセントの表情がパァッと明るくなる。

 彼はそっと、ピンクラメと羽まみれの私の頭に、極上のティアラを乗せた。

 結果として、私はこの世で最も高価で、最も珍妙なピンクの妖精姫になった。


 ヴィンセントはほうっと息を呑む。

「美しい」

「この状態で?」

「この状態だからこそ」

「羽まみれよ?」

「天上の存在のようだ」

「ラメが鼻の頭についてるのよ、私」

「それすら最高に愛おしい」

「やっぱり、重い!!」


 私は力いっぱい叫んだけれど、自分の頬が熱く緩んでいくのをどうしても止められなかった。


 翌朝。

 侯爵邸はちょっとした大騒ぎになった。

 まず、執務室に散らばった大量のピンクラメと羽を見た執事オスカーが、珍しく三秒ほど沈黙したあと、真顔で尋ねてきた。

「奥様。昨夜、妖精がこの部屋でテロでも起こしましたか?」

「似たようなものよ」


 侍女リリアは、私の髪に残った羽を一本一本取りながら、必死に笑いを堪えて肩を震わせていた。

「奥様、旦那様はご無事で?」

「ええ。社会的にも物理的にも、ぎりぎり死守したわ」

「では、ウサギさんスタンプは?」

「完全回収済みよ」


 その時、食堂の重厚な扉が開いた。

 ヴィンセントが入ってくる。いつものように完璧な黒の礼服。背筋は伸び、表情は凛としている。

 けれど、昨日までとは明確に違った。

 彼は逃げることなく、まっすぐ私の方へ歩いてきた。そして、自分の椅子を引く前に、私の目をきちんと見た。


「おはよう、アマリリス」


 たったそれだけ。

 それだけなのに、胸がじんわりと温かくなる。


「おはようございます。旦那様」

 私はわざと澄ました顔で答えた。

「ちゃんと目を合わせていただけてうれしいですわ。(小声:たいへんよくできました)」

「その言葉は、今の私には非常に心臓に悪い」


 彼は小さく苦笑し、私の向かいの席に座った。

 朝食の席で、ヴィンセントは宣言通り、もう逃げなかった。

 私がパンにジャムを塗れば、その様子をじっと見ている。私が紅茶を飲めば、また見ている。私が卵料理を口に運べば、さらに穴が開くほど見ている。


「……見すぎよ」

「目を合わせるようにと言われたからな」

「常に、という意味ではないのですが……」

「難しい」

「普通でいいのです。普通で!」

「愛しい君を前にして『普通』でいるためには、高度な訓練が必要なのだ」


 食堂の隅で、リリアがついに堪えきれずに吹き出した。オスカーは無表情だが、たぶん腹の底で笑っている。長年の勘でわかる。

 私はコホンと咳払いをした。


「それから、今後の我が家のルールを発表します」

「何でも聞こう」

「まず、夕食はできる限り一緒に食べてください」

「ああ」

「仕事で遅くなる時は、必ず事前にご連絡ください」

 ヴィンセントは頷く。

「私に隠し事を絶対にしないこと」

「努力するが……だが、君へのサプライズの贈り物を隠す場合は?」

「……それは、少しだけ許可いたしますわ」


 ヴィンセントの目がパァッと輝いた。

「では、さっそく次の贈り物も考えねばな」

「もう次を考えているのですか!?」

「もちろんだ。君を喜ばせること以上に重要な任務などない」

「重い!!」


 私が叫ぶと、食堂に柔らかな笑い声が広がった。

 絶対零度だった侯爵邸に、ようやく遅すぎる春が戻ってきたようだった。


 それから数日後。

 社交界には、妙な噂がまことしやかに流れた。

『氷の侯爵が最近、夫人の隣でよく笑うらしい』

『ヴァレンタイン侯爵夫人が、見事なピンクダイヤのティアラを身につけて夜会に現れた』

『侯爵家の執務室から、しばらく甘い花の香りが消えなかったらしい』

『王宮に提出された決裁書類に、うっすらと笑顔のウサギの幻影が見えたという文官がいる』


 最後の噂だけは、全力で否定した。

 たぶん、魔法スタンプの残留香ならぬ残留魔力である。見なかったことにしてほしい。


 そして夜。

 私はヴィンセントの隣のソファに座り、問題の『激重手記』をめくっていた。


「ねえ、この詩の『君が怒る姿は嵐の女神』って何?」

「事実だ」

「この『踏まれても構わない』は?」

「……消し忘れだ。推敲前だからな」


 私は無言で、彼の頭の上に手を置いた。

「二度目の天誅、いる?」

「できれば軽めで頼む」


 ポカッ。

 軽いチョップを落とすと、ヴィンセントはなぜかとても幸せそうに目を細めた。


「ねえ、ヴィンセント様」

「何だ」

「これからは、ちゃんと言葉にして伝えてね」


 彼は少しだけ驚いた顔をしたあと、真剣に深く頷いた。

「わかった」

 そして、私の手をそっと取り、指先にキスを落とす。


「愛している、アマリリス」


 あまりにもまっすぐ言われて、今度は私の方が目を逸らしそうになった。顔が熱い。

「……そ、そういうのは急に言わないで」

「毎日言う」

「限度がありますわ!」


 夜の侯爵邸に、私の元気なツッコミと、彼の嬉しそうな笑い声が響く。


 華麗なる天誅を下すはずだった私の復讐計画は、結果として、夫婦の間の分厚い氷を盛大に叩き割ることに成功した。

 ピンクラメと羽と、ウサギさんスタンプの社会的死の危機を添えて。


 私は悟った。

 氷の侯爵は、決して冷たい男ではなかった。

 ただ、愛が重すぎてカチコチに凍っていただけだったのだ。


 もちろん、今後また彼が言葉を足りなくして私を不安にさせるようなことがあれば。

 その時は遠慮なく、二度目の天誅をお見舞いしてやるつもりである。

 今度は容赦なく、ウサギではなく『満面の笑みの猫のスタンプ』で!


(おしまい)

お読みいただき、ありがとうございました。

あまり肩肘張らずに書きたいな、と最近は思っています。

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