映画『国宝』最遅批評〜崇高なる青春の墓標〜
映画『国宝』を、一人の男が芸の道を極めて大成するまでのビルディングス・ロマン(教養小説)として要約することや、歌舞伎という深淵に魅入られ人生を捧げた男の狂気の物語として批評することは、本作の表層をなぞるに過ぎない。それでは、なぜこの作品がこれほどまでに観る者の心を鷲掴みにし、胸を締め付けるのかという核心に触れられないからだ。
この映画の本質は、現代社会における「成熟した人生」の空虚さと対置される、「崇高なる青春」という閉じた円環の中だけで踊り続けようとした男の、壮絶なモラトリアムの記録にある。
「人生」の空虚と、「青春」という特権領域
現代人にとって「人生」とは、無限の可能性を摩耗させ、社会システムへと順応していく過程を意味する。対して「青春」とは、何者にもなり得る全能感と、後先を顧みず刹那に身を焦がすことが許された特権的な季節である。
主人公・喜久雄と親友・俊介は、この「青春」の聖域から出ることを拒み続けた共犯者であった。極道の血を引く喜久雄と、歌舞伎の名門に生まれた俊介。持たざる者と持つ者。二人は互いの欠落を埋め合わせる鏡であり、同時に互いの魂を焼き尽くす炎でもあった。彼らにとって歌舞伎とは、単なる伝統芸能ではなく、彼らの青春を燃焼させ続けるための巨大な「炉」であったのだ。
彼らが舞台で放った輝きは、その炉から溢れ出した「青春の崇高さ」そのものである。歌舞伎に明るくない観客さえもが彼らの芸に涙したのは、伝統芸能の美しさゆえではなく、物語をなくし生の意味を見失った現代人が渇望してやまない、あの無軌道な生命の燃焼を目撃したからに他ならない。
俊介の死と「青春の凍結」
俊介の死は「青春の終わり」ではなく、「青春の凍結」をもたらした。 喜久雄を芸へと駆り立てる熱源であり、対極の存在として己を映し出す鏡でもあった俊介。その喪失は、喜久雄を青春から卒業させ、荒涼たる現実へと踏み出させる契機にはなり得なかった。むしろ彼は「永遠に未完成な半身」として固定され、喜久雄は死んだ青春の墓守として、ただひたすらに芸の鬼となる修羅の道を選び取ったのである。
ファウスト的契約
喜久雄が「崇高なる青春」のために支払った代償は何か。それは彼自身の魂ではなく、彼を愛し支えた「周囲の女性たちの人生」であった。
ゲーテの『ファウスト』において、主人公は知識と快楽のために少女グレートヒェンを破滅させる。本作における春江、彰子、そして藤駒とその娘は、まさにこのグレートヒェンの役割を負わされている。ファウストの魂は最後に「永遠に女性的なるもの」によって救済されるが、果たして喜久雄は救われたのだろうか。
物語の終盤、喜久雄と藤駒の間に生まれた娘がカメラマンとして現れる。彼女は父を断罪しつつも、その芸の「美」を肯定し、レンズを向ける。一見、父娘の和解と救済のように映るこの場面こそ、本作がその歪みを最も露わにした瞬間である。
観客が彼らの歌舞伎に心底感動するのは、前述の通り「青春の崇高さ」に触れたからである。しかし、もしそうであるならば、娘による肯定は、親の自己愛的な論理に屈服し、前時代的な「芸の特権」を追認したに過ぎない。それは倫理の敗北であり、「毒親による搾取」の完遂を意味する。 娘は父を「親」として愛することを諦め、「被写体」として記録することでしか関係を結べなかったのだ。彼女による美の肯定は、「あなたはもう人間ではないからせめて美しいモノとして記録してあげる」と宣告する、悲しき絶縁状に他ならない。
本来は喜久雄の救済として機能するはずだったこの場面が、観客にどこか居心地の悪いもやもやとした感情を与えざるを得なかったのは以上のような理由によるのだろう。
結論:美という名の暴力装置
この映画における「国宝」とは、栄光の称号ではない。それは、周囲の人間から搾取した「生」を燃料にして焼き上げられた、美しくも冷たい「青春の抜け殻」である。
現代的な倫理観に照らせば、喜久雄の生き方は断罪されるべき「毒親」の典型例と言えるだろう。しかし、それでもなお、私たちが彼の生き方に魅了され、涙を流してしまうのはなぜか。 それは、私たち自身が人生の空虚さに絶望していることの裏返しであり、倫理を踏み倒してでも何かを貫く生き方に、密かな憧憬を抱いていることの証明ではないだろうか。
映画『国宝』は、その圧倒的な美しさによって、私たち観客をも「倫理なき美」の共犯者に仕立て上げる。その居心地の悪さと陶酔こそが、この作品が現代に放つ、最も鋭利な問いかけなのかもしれない。




