第八話
その後アヤは門限がある、と22時半を過ぎたところで「帰らなきゃ」と言い、わたしもそれに合わせて「わたしもそろそろ…」と、オサジも「長居しちゃわるいんで俺もそろそろ……」と続ける。
「俺も帰るわ」とポンさん。
オサジがみんなどうやって帰るかを聞く。
わたしは上野にいるのだから上野駅から帰るものだとばかり思っていたのだけれど、アヤとオサジはここから歩いて5分ほどの、千代田線の湯島駅という駅から帰った方が、都合がいいかもと話していた。
地元では一つのエリアに一つの駅があるというのが普通で、歩いて行くことのできる距離に複数路線があるという都内の、特に山手線内側の状況には全然慣れていなかった。
アヤが言うにはわたしも千代田線に乗って帰ると、アヤとは大手町まで一緒、オサジとは早稲田まで一緒らしく、ここからJR上野駅までの徒歩時間10分強を考慮すると、多分時間的にもJR上野駅から乗るのとたいして変わらないだろうということで、わたしは東京育ちのアヤと東京通のオサジが言っているのだから間違いはないのだろう、と二人についていくことにした。
ポンさんは春日という場所に住んでいるようで、そしてそれはここから歩いて20分くらいのところであるらしく、マンションのロビーまでお見送りしてくれたジュンさんにみんなで手を振って、ではまた、とそれぞれ帰路についたのだった。
結局湯島駅から50分ほどかかって下宿先の最寄り駅へと到着した。それは一応上野駅から帰った場合の経路を、オサジと分かれて最寄駅の路線へ乗り換えたあと、後学のために乗り換え案内アプリで調べてみたところ算出された42分という値に徒歩分の10分強を足した時間と、やはりたいして差がなかった。
駅前のコンビニで、発泡酒のロング缶と350㎖缶のレモンサワーを買い、オリジンで鶏レバー煮とトマトのフレンチサラダを買った。
下宿先のアパートへ着くと、外階段の前に、白い猫がいた。猫は可憐に「にゃー」と鳴いてわたしの方へ向かってくる。そしてわたしのすねに体をすりつけて、ゴロゴロ鳴く。
猫は昔友達の家で噛まれたことがあるのと、一度だけ猫カフェへ行ったことがあるだけで、と言っても、猫カフェではオプションの猫のおやつを買わなかったからか、全然猫は寄って来ず、ただ猫が複数いる空間で、バイト先の先輩とお茶をしたに過ぎない経験だったのだけれども……、というわけで猫に関する知見がなさすぎて、どう接していいのかがわからなかった。
恐る恐る撫でてみるけれど、猫はまだゴロゴロと唸っていた。そのゴロゴロは犬が怒ったときに発するウーという唸り声と同意義のものなのかと思って、なにか要求しているけれどそれが満たされず不満ということなのかと、この猫はわたしに撫でろと要求しているのではなくて、お腹がすいて食べ物がほしいのかなと考えた。
「なにも君の食べられるようなものはもっていないんだよ」
そう言って、その場を立ち去ろうとする。
「みゃ」
猫が哀しそうに鳴くので足が止まり、猫と距離を保ったまま数秒見つめあう。
そこへなんとなく人の気配を感じて振り向くと、ジュンさんと似たシルエットの、でもジュンさんを少し着崩したみたいな雰囲気の、若い男の人が立っていた。
「多分その猫もっと撫でてほしいんっすよ」
その男は言う。
「そうなんですか…?」
どこからやり取りを見られていたのだろうと恥ずかしく思ったけれどそう言って、
「でもこの猫唸ってるんですよね」と話す。
「猫って撫でられてうれしいときにゴロゴロ唸るというか喉を鳴らすんっすよ」その男は言った。
それなら実家の犬が大喜びする大好きな撫で方をしてあげようと撫でると、その猫はギョッとした反応をして、シャーッと体を弓形にさせたと思ったら次の瞬間には暗闇の中へ真っ直ぐ消えていった。
なんだったのだろうと思って、立ち尽くしていると、その男は腹から声を出すように大きく笑って、
「猫って撫でられすぎるのは嫌なんすよ」と言った。
「撫でられたいのに撫でられすぎるのは嫌だっていうのが猫なんで」男は猫の専門家のように言う。
猫も大変なのだなと思い、今度あの猫を見かけたときには控えめに撫でてあげようと思った。
〈今日はありがとうございました!楽しかったです!〉
家へ帰ると、ユズカからカクテル同好会のLINEグループへメッセージとともに動画が二つ送信されていた。
そのうちの一つ、自分が映った動画を見てさめざめする。
わたしもこのままじゃいけない気がした。でもなにから変えればいいのか、どうしたらこうなる前の自分に戻れるのか、こうじゃなくなれるのか、そんなことはもうまるで検討がつかなかった。
つけてしまった既読に、わたしは親指を立てた、いいね!のリアクションをつけて眠りについた。