第六話
アヤはなかなか戻ってこなかった。
部屋に残ったメンバーは、わたしとオサジがジュンさんのMacでスライドを再度見せてもらっていた。
「この資料欲しいっす」
ジュンさんのプレゼンに感銘を受けたらしいオサジが、ジュンさんにAirDropで資料を送ってもらうことになり、流れでわたしも送ってもらった。
「ちょっと電話してきますね、失礼します」
ユズカは不服そうにスマホをいじったあと、電話がかかってきたようで、スマホを手に持ちよそ行きの声でそう言って、髪をなびかせながら出て行った。
ポンさんは一人でカクテルを作りはじめた。シェイクの自主練をしていたから、シェイカーで作るカクテルが作りたいのかと思ったけれど、静かにステアしてピーチウーロンを作って飲んでいた。喉が渇いたらしかった。
アヤが出て行ってから20分くらいが経ちそうになったとき、ジュンさん、オサジとさすがに戻ってこなさすぎだね大丈夫かな、という話になる。
「見てきますね」
わたしはそう言って、トイレへ向かった。
「うん、よろしく。スイちゃんありがとね」ジュンさんに送り出される。
「俺も行こうか?」オサジが言う。
「大丈夫」とだけ言って断り、女子トイレへ向かった。
女子トイレをのぞくと、一番奥の個室が一つだけ閉まっていた。「アヤいる?大丈夫ー?スイだよ」
「うん、大丈夫。もう出るから」
その個室から声が聞こえて、大きく鼻をすする音が聞こえたあと、カーディガンの長めの袖をギュッと握ったアヤが出てきた。充血した目に、長い睫毛の根元が湿っていた。
「ごめんね、空気悪くしちゃって」
「ううん、気にしないで」
わたしはその場の空気を壊してでも、自分を表現できるアヤのことを嫌うどころか、惹かれ、眩しく思った。
アヤのような接し方の方が、本当は人に対して誠実で優しい態度だとも思った。
アヤは鏡で自分の顔を見て、
「顔やば」と言ってあきれたように少し笑って、ちょっと顔洗うわと言い、手洗い場でバシャバシャと顔を思い切り洗い始めた。
手についた水を振り切って、ズボンのポケットからタオルハンカチを取り出す。
「今日ポッケついてる服着といてほんとよかったぁ」
そう言って顔を拭く。
「すごいわかる、レディースの服ポッケついてないの多いよね」
「そうそう!」
アヤの瞳の中に少しずつ光が戻る。
アヤはバシャバシャ顔を洗ってゴシゴシ顔を拭きあげてもそれをする前と後とで変わらず、大きな魅力的な目が印象的な、ブライスドールみたいな顔をしていた。
「スイちゃん、あ、スイのカクテルすごい綺麗な色だったよね。って……、なんか私スイってなぜかスイちゃんって呼びたくなる」
一緒に部屋へ戻る途中、アヤが言った。
「スイちゃん呼びでも全然いいよ」
「じゃあスイちゃんって呼ばせてもらうね」
アヤにスイちゃんと呼ばれると、よくそう呼ばれていた小学生の頃の自分と、当時すごく仲のよかった友だちの記憶がうっすら蘇った。アヤと話していると、勝手にどこか懐かしさを感じた。
「アヤはアヤでいいの?アヤちゃんって呼んだ方がよかったりする?」念のためアヤに尋ねる。
「アヤはアヤって呼ばれたいの」とアヤは笑う。
アヤの目の中の光がちゃんと回復しているのを見て安心する。
廊下の曲がり角へ差し掛かったとき、非常口のドアが重そうな音を鈍く立てて開いた。
ピンクブラウンの長い髪がなびきながら入ってきて、ワンピースの裾が軽やかに揺らぎ、ふわりとフローラル系の香水の匂いが香った。
ユズカだった。気まずいなと思っていると、ユズカはこちらに気がつく。
「あっ、おつかれぇ」
一瞬気まずそうにしたあと、でも歩みを止めず、何事もなかったかのように明るい口調で私だけに向けて言い、呆気に取られている間にユズカは足早に部屋へと戻った。
アヤの表情は再度硬化しつつあったけれど目の中の光は保たれていた。
「戻れる?」と聞く。
「うん、戻る」
わたしとアヤは部屋へと戻った。
部屋に入ると、入り口付近でユズカはオサジと楽しげに話していて、ジュンさんとポンさんは二人で部屋の奥の方にいた。ジュンさんのMacをポンさんが操作して、それをジュンさんが覗き込むかたちで談笑していた。
「あ、スイたちおかえり〜」
オサジが気を利かせて、ジュンさんとポンさんも気が付くように言う。
「おかえり」
ジュンさんはこちらへやってきて、
「注目ー!」と大きな声で言った。
みんなの視線が集まる。
「みんな揃ったところだし、会場の撤収時間も迫ってきているので、今日の試飲会をとりあえず締めたいと思います。じゃあみなさん一本締めでお願いします。お手を拝借、よーおっ」
ジュンさんは一本締めの掛け声をした。
みんな考える間もなく調子を合わせてパン!と大きく手を叩いた。
そこだけサークルの飲み会っぽいことをするのだなと意外に思ったけれど、たしかに有無を言わせずあっという間に会が終わって、ちょっとだけ空気が入れ替わってどことなくさっぱりしたような感じもわずかながらしなくはなくて、様式美もあるものだなぁと、その効用に感心した。
アヤが一口だけ飲んだスカーレットオハラはそのままカウンターの上にあって、アヤはそれを飲もうとする。
「残しちゃって大丈夫だよ」ジュンさんは言う。
「いえ、もったいないんで」
アヤはそう言って一気に飲み干す。
「おぉ、アヤちゃんいいねえ」
ジュンさんはやや戸惑いつつもうれしそうだった。
カウンターに置かれた空のグラスや使われたままの道具を見て、片付けはどうするのだろうと疑問に思っていたとき、ユズカはオサジにLINEの連絡先を聞いていた。ユズカは次にポンさんのを聞き、わたしにも聞く。
「じゃあ私グループ作っちゃいますね!」
そう言うと、既に連絡先を交換済みだったアヤとジュンさんの分を含め、全員の連絡先を手に入れたユズカは《カクテル同好会 日程②》という名のLINEグループを作成した。
ユズカは二頭身のうるうる目のうさぎから吹き出しが出ていて、そのなかに《よろしくお願いします》と書かれたスタンプを送る。
LINEを開いていたオサジ、ポンさん、わたしの三人分の既読がついた。オサジが水彩画タッチの猫の“THANK YOU”のスタンプを押した。わたしは線画調のクマがぺこりとお辞儀しているスタンプを押した。
「じゃあ、私ちょっとこのあと予定があって……、すみません、お先に失礼します!」
ユズカは一仕事終えたという感じでそう言って、その場を後にした。
「片付けって……どうするんっすか」
オサジがジュンさんに尋ねる。
「僕とポンくんでやるよ」
「手伝いますよ、俺暇人なんで」オサジが自虐的に言う。
「私も手伝います」とアヤ。
やや出遅れわたしも「やります」と宣言して、五人で後片付けを始めた。
大小のクーラーボックスが二つと体育会系の部活生が持つような大きなボストンバックが一つ、それが、ジュンさんが今回のために準備した持ち物だった。
「ジュンさんって家どこですか?」オサジが尋ねる。
「上野に住んでるよ」
「ここからだと大江戸線乗る感じっすか?」と、ジュンさんの家まで荷物を運ぶことを想定しているのか、オサジが聞く。
「あっ、電車で行くとそうなんだけど、今日親の車借りてるのよ」
どうやらジュンさんの両親は都内に住んでおり、ジュンさんはその都内在住の両親が投資用とセカンドハウスを兼ねて購入したマンションの一室に住んでいるとのことだった。
まだ数年は使う予定がないし、賃貸に出すよりもジュンさんを住まわせたほうがいいという判断らしく、ジュンさんも一人暮らしをしてみたかったそうで、住人および管理人となるのを承諾したという経緯らしかった。
「ジュンのうちからキリン見えるよ」
ポンさんがはにかみながらぼそっと言った。
「え、キリンですか?」
アヤが興味ありげに聞く。
「あの……、動物園のキリンが見えるのよ」
ジュンさんは頭をかきながら補足する。
「え、それって、あの不忍池の方にあるタワマンっすよね……?」オサジが尋ねる。
オサジはわたしと変わらないタイミングで上京してきたはずなのに、オサジの方がわたしの何倍も東京に詳しかった。
世の中には、投資用として、セカンドハウスとして、タワーマンションの一室を購入する人がいることも、それを大学生の息子に住まわせる人がいることも、そういう親がいる大学生が存在するということにも理解が追いつかなかったけれど、一旦驚きも戸惑いも自分のなかへしまって、オサジ、アヤと同じくらいの反応にチューニングさせた。
「俺、ジュンさんちまでお荷物お運びします!」オサジが言う。
「あぁ、ありがとね。うち寄ってく?」
ジュンさんが笑って応える。
「スイとアヤは?」とオサジに聞かれ、わたしとアヤは顔を見合わせ、お互いに行ってみたいねという意向を目で会話して、結局ジュンさんの家へ五人で行くことになった。