「愛なんてのは降り積もった雪みたいなもんだ」なんて事を俺は考えていた。
夜の国道18号線を南下する。
標高が高くなると、路肩に寄せられた雪の壁も高く硬くなっていく。
数ヶ月前の帰省でここを通った時は、緑の木々が生い茂り、景色は色で溢れていた。今は強固なこの雪の壁だって、季節が変わり陽の光に照らされれば、あっという間に溶けてしまうのだろう。
『愛なんてのは、降り積もった雪みたいなもんだ』なんて事を俺は考えていた。
際限なく積み重なっていくクセに、消えてしまうのは一瞬だ。
俺は無言のまま、手持ち無沙汰に何度もハンドルを握り直す。
そして、助手席に座った彼女もまた、同じように無言で、窓ガラスにくっついては消えていく雪の結晶を眺めている。
決定的な何かがあったわけではない。
俺が寒がりで、彼女は暑がりだとか、そんなどうでもいいような小さなズレが、俺達の間に降り積もっていたやわらかな深雪を少しずつ溶かしていた。
気がついた時には、お互いの足は雪解けの泥濘にどっぷりと浸かっていた。
そして二人とも、足を滑らせて転んだ。幸せとか将来だとか、そんな感じの白くて軽薄な何かは、泥水で汚れてしまった。
「ふるさとに帰りたい」暖房器具のない冷えたアパートの一室で、ローテーブルに頬杖をついた彼女は、俺の目を見ないで言った「もう、私達は一緒に暮らしていけない」
俺はそれに答えなかった。
ただ概ね同じ意見である事を彼女は察したのだろう。無言のまま、自分の荷物をまとめ始める。
彼女の荷物は小さなキャリーケース一つに収まった。そのあまりの少なさに、俺の胸は小さく軋んだ。
キャリーケースをコンパクトSUVの後部座席に放り込んで、俺は彼女の故郷である雪国へと車を走らせた。
むず痒い無言が続く。
彼女が嫌がるから暖房はつけていない。
オーディオからキラキラしたクリスマスソングを流してみたが、商店街の側溝に忘れ去られた紙吹雪みたいに、瞬く間に沈黙という汚泥で黒ずんでいく。
国道を逸れると、除雪を免れた山道に新雪が降り積もり、道路と路肩の境界線が曖昧になっていた。ハンドル操作を誤れば、一瞬で土手下の渓流へと転がり落ちるだろう。
横目で助手席を見る。
暗い車内に彼女の白い頬がぼんやりと浮かび上がっている。
その陶器のような肌に、俺は一度だって触れた事がない。愛する女を抱くことが出来ない男の苦しみなど、きっと彼女には小指の先ほども伝わっていないのだろう。
山道はスキー場へと続いている。
一年前に彼女と出会った、思い出のスキー場だ。ナイター営業は20時までのため、21時を過ぎてしまったこの時間は、車の往来も途絶えてしまっている。
道の先ではナトリウム灯のオレンジの明かりと、LEDの白い明かりが混ざり合い、振り続ける雪で霞んで見える。
駐車場に車を停めて外に出ると、強い風が雪を舞い上がらせ、視界がホワイトアウトする。
出会った日と同じだなと、俺は思う。
こんなふうに視界が白く染まり、それが消えた時、目の前に彼女が立っていた。
そんな俺の感傷に気付いたのか、先を歩く彼女が立ち止まり、振り向いた。
「さよならだね」
「ああ」
数時間ぶりに聞いた彼女の声は、音のない雪原を走り回る雪うさぎのように、葉のない木々が立ち並ぶ林の中へと消えていく。
この場所で出会い、積み重ねていった愛も、月日が経てば雪解けの清流となって流れ出ていく。
それを堰き止める事など、きっと出来はしない。
俺は後ろを振り返る。
先程まであった俺達の不揃いな足跡は、新雪によってまっさらに消えていた。新たに舞い落ちた雪が、二人が踏み固めてしまった凸凹を覆い尽くし、再び美しい雪原へと生まれ変わらせる。
俺達も、やり直せないだろうか。
突然、強い感情が、心の底から湧き上がる。
俺達の愛は、一度は溶けて流れてしまった。
でも時間が経てば、降り続ける新雪が、再び心を淡く白く染めてくれるのかもしれない。
それは暑い夏の日。
クーラーをガンガンに効かせた部屋で、彼女は冷やし中華を啜っている。
練りからしがツンとしみて、変な顔で悶絶する。
それを見た俺はゲラゲラと笑う。
きっと愛は常に一定量ではない。
時に溢れ、時に溶けて目減りしていく。
でも、それは共に過ごす日々の中で、繰り返し繰り返し、積み重なっていくものなのだろう。
きっと、やり直せるはずだ。
どんな恋人同士でも。
たとえ、俺が人間で、彼女が雪女だったとしても。
「待ってくれ!」
雪の中へ消えようとする彼女を呼び止める。
振り向いた彼女は、遭難している俺を見つけてくれた一年前のあの日のように、戸惑いの表情を見せていた。
俺は思いの丈を叫ぶ。
無音の雪原の中で、その声はもう一匹の雪うさぎになり、片割れを追って林の中へと消えていく。
彼女は立ち止まり、振り向き、ゆっくりと頷いた。
それを見た俺もまた、大きく頷いた。
俺達の間に新しい雪が降り積もっていく。
異種族同士の恋愛、好きです。