薄明のパン屋
「今の話は本当? あのパン屋で改良されたパンを売り出すっていうのは!」
「あ、ああ……、そうみたいだ。パン屋の窓にその旨が書かれた紙が貼られていた」
栗色の髪を一本に結んだ女性が、目を爛々と輝かせて机の上に身を乗り出してきた。対面していた男性はやや仰け反りながら、相槌を打つ。
彼は彼女がパン好きなのは知っていた。だが、ここまで嬉しそうな反応が見られるとは思ってもおらず、若干引き気味の顔をしていた。
「テレーズ、そんなに気になるのか?」
「ええ! ブーランジェリー・トワイライトのパンはどれも美味しいから、時々買っているのよ。そこのお店の改良版だなんて、期待できるじゃない」
テレーズは両手を力強く握りしめて主張する。そして手帳を取り出して、パラパラと捲って、今月のページを開く。
「それでマチアス、いつ売り出すか、覚えている?」
「たしか……十五日からだったと思う」
マチアスが朧気な記憶から日にちを言うと、テレーズの顔は固まった。
十五日は――明後日だ。
手帳には午前中に予定が書かれている。かなり前から決まっていたもので、日程変更など到底できない事案だ。顔を青ざめながら呟く。
「売りだしって、朝からよね。ああ、仕事が……」
「いや、十五時からだった」
「え?」
マチアスの言葉を聞き、テレーズは目を丸くした。てっきり朝からだと思ったのだ。しかも昼食前ならまだしも、なぜ十五時という中途半端な時間なのだろうか。
難しい顔をしていると、マチアスがふっと表情を緩めた。彼の顔を見て、鼓動が速くなる。
彼は職業柄、普段は難しい顔をしていることが多い。だが、時折見せる表情の柔らかさを目撃すると、付き合っているとはいえ、ドキッとしてしまうことがある。
「行ってみて、話を聞けばいいんじゃないか? 俺、明後日は午後休めそうだし、テレーズが都合付くなら、一緒に行こう」
「そんな急に休めるの? 私はその日の午後なら全然空いているけど」
そう尋ねると、マチアスに肩をすくめられた。
「むしろこの前休日出勤した代わりの休みを早く取れと言われている。明後日は日勤の人間も多いし、問題ないだろう」
彼の上司は休みの取り方について、かなりうるさく言っている人である。昔、その上司と一緒に働いていた後輩が働きすぎて、体調を崩してしまったことが原因らしい。
そういうことならば、彼の言った通り、おそらく休みは取れるはずだ。
二人で二、三点確認ごとをして、明後日の十五時と少し前にパン屋の前で落ち合うことに決めた。
* * *
晴天にも恵まれた翌々日、テレーズはマチアスと十五時より少し早く集合したが、既に人が列をなしているのを見て、顔をひきつらせた。慌ててその列の一番後ろに並ぶ。十人少々だろうか、皆心待ちしながら並んでいる。
売り切れたりしないか心配になる。せっかく都合をつけてきたのだ、是非とも購入したい。
「さっき小耳に挟んだが、十五周年記念で今回のパンを売り出すらしい。……もうそんなに経つのか」
「昔から買ってたの?」
「まあ、たまに」
テレーズは最近この地に来たが、マチアスは生まれも育ちもこの都市だ。少し大通りから外れている店とはいえ、長年営業していれば、彼が店の存在を知っているのも頷ける。
十五年前といえば、二人ともまだまだ幼き頃。それからたくさん遊び、学び、楽しいことや辛いこと、悲しいことを経験して今がある。
その間、このパン屋は毎日せっせとパンをこね続けたのだろう。人々が笑顔になるような、美味しいパンを――。
感慨深く浸っていると、列が動き出した。どうやら十五時になったようだ。
さて、何のパンを買おうか。話題のパンはもちろんのこと、他のパンもいくつか買うつもりだ。
店内は入場制限がかかっているので、すぐには店内には入れない。やがて目の前の人が店に入っていくと、扉のガラス越しから多くのパンが見えた。どうやらどれも数はたくさんありそうだ。
一組客が外に出たので、テレーズたちは店の中に入った。
出来立てパンのいい匂いがしてくる。それを嗅ぐと、途端にお腹が鳴ってしまいそうだ。
改良したパンとはなんだろうか。中央に置いてある机に目を向ければ、手のひらに乗るくらいの丸いパン――メロンパンが大量に並べられていた。
これが周年記念のパンなのか?
一瞬目を疑ってしまったが、正札にはたしかに『さらに美味しくなったメロンパン!』と大きな文字で書かれている。
見た目を思い出す限り、以前食べたものと変わらないように見える。食べれば違いがわかるのだろうか。
ぱぱっとメロンパンを二個トレーに乗せて、他のパンもいくつか乗せていった。
他の客たちも、メロンパンを始めとして多くのパンを乗せている。山になっているパンたちもあっという間になくなってしまうのかもしれない。
レジでトレーを渡すと、店員がてきぱきとパンを詰めていく。
「あの、どうして十五時から売り出しているのですか?」
忙しいとは思いつつも、どうしても聞いてしまう。店員は害した様子も見せずに、答えてくれた。
「十五周年だから、十五日の十五時にしようって、店長が言ったんですよ、単純ですよね。あとは、ちょうど小腹がすく時間帯なので、軽く食べれるメロンパンを売り出す時間として最適じゃないかとも言っていましたよ。それと薄明の時間帯にも売りたいと言っていて。この店、仕事終わりの人もたくさん買いに来てくれますから」
「薄明って、日が落ちた直後ですよね。十八時くらいまで売り続けるなら、これくらいの時間帯から売り出すのがいいかもしれないですね。教えてくれて、ありがとうございます」
最後に店員におまけと言われて、手で握れるくらいの小さなパンを二つ入れてくれた。
「塩パンです。どうぞ食べてくださいね。いつもお買い求めいただき、ありがとうございます。またのお越しをお待ちしています」
「こちらこそ、いつも美味しいパンをありがとうございます! また買いに来ますね」
爽やかな挨拶をされると、こちらも思わずお礼を言いたくなってしまう。店員は少しびっくりしていたが、にこりと笑ってくれた。
パン屋から出て、近くの公園に移動した。穏やかな晴天のためか、公園には多くの子ども連れの家族が思い思いに過ごしていた。中心から少し離れたところにあるベンチに二人で腰をかける。
目の前には、歩き始めた少女だろうか、よちよちと草っぱらの上を歩いていた。その後ろを両親がハラハラとした表情で追いかけている。少女は何かを見つけたのか立ち止まり、その場に座り込んだ。そして落ち葉を嬉しそうに拾っては、立ち上がって再び歩き出した。
他にも元気いっぱいに走り回る少年たちや、ボールを使って遊んでいる家族など、笑い声が絶えない空間だった。
兄と妹で遊んでいる二人組を見ると、テレーズは死別した兄を思い出してしまい、胸がきゅっと引き締まる思いになる。昔はよく二人で遊んだ。それが当然で、いつまでも続くと思っていたが――。
「テレーズ、焼き立てのうちに食べよう」
彼の声掛けで、我に戻る。意識を逸らすために、気遣ってくれる彼の言葉が有り難い。
軽くうなずき返してから、メロンパンを二つ取りだし、一つをマチアスに差し出した。そして自分のパンを両手で掴み、一口かじった。
周辺はかりっと、中はふわふわの触感。程良い甘さと優しい味わいは、どこか懐かしささえ感じられる。口の中からなくなってしまうと、すぐに二口目を食べた。口の中に入るだけで、幸せな気持ちになれる。
やがて止まらなくなり、あっという間に食べ終わってしまった。
「ああ、美味しかった。前にもメロンパンは食べたことあるけど、それよりもさらに美味しい!」
同じくぺろりと平らげたマチアスもうなずく。
「生地の焼き加減とかが、違う気がする。さすが記念日に売り始めるだけある。――メロンパンは開店当初からあるメニューの一つだ。それだけ思い入れもあるのだろう」
小腹が空いていたらしく、マチアスはおまけでもらった塩パンを口に運んでいた。口に入れた後、目をパチクリしている。そしてゆっくり味わいながら食べていった。
テレーズも真似して塩パンをかぶりついた。素朴な味わいだが、味がついていて、これだけでも十分美味しい。
「十五年前から続いているものを改めて見直して作ったのかな。それは凄いことね」
年月が経過して、変わるか変わらないかは、作り手の意思次第。飽くなき探求心があれば、向上し続けることも可能だろう。
「好きだから続いているっていうのもあるだろう」
マチアスは空を見上げる。
「十五年が長いかどうかはわからない。だが、振り返ってみればあっという間かもしれない」
「ええ、きっと毎日コツコツと作り続けたから、今日があると思う。パンを作り続けてくれたことに、感謝ね」
逆に、これから十五年後、自分たちはどうなっているのだろうか。仕事に邁進しているのだろうか、それとも結婚して子供を産んで、子育てに勤しんでいるのだろうか。――正直に言って、まったく予想が付かない。
ブーランジェリー・トワイライトの店の者たちもまた、今後どのような道を歩むのかはわからない。だが、店が続く限り、誰かが美味しいパンを提供し続けるのではないかと思っている。
地道に頑張り続けることが、確実に成長していく基盤となる。
自分たちも一歩一歩進んでいこう。
お読みいただき、ありがとうございました。
小説家になろう投稿開始15周年記念小説です。久々に執筆しました。
初見の方、拙作を読んだことのあるすべての人に、楽しんていただければ嬉しい限りです。
今後もまったりとですが、物語を綴っていきたいと思います。