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疫病からみたガリア戦記

作者: 銅大

 ローマ帝国。

 古代の地中海世界に生まれたこの国家には、多くの側面がある。

 偉大な国家である。後に伝わる多くの文化が、技術が、ローマで生まれた。

 広大な国家である。元はイタリア半島の都市国家だ。周辺諸国を吸収してアフリカからイギリスまで、ジブラルタルからユーフラテスまでを版図におさめた。

 ローマの数ある側面の中で、ひとつだけを選ぶならば、決まっている。

 ローマは、健康な国だった。

 そして他のすべては、ローマが健康であったから成り立ったのだ。


「どうだ? わたしの後ろ姿は?」


 腰をひねってトーガのひだを確認しながら、ユリウス・カエサルは後ろに立つ友人に声をかけた。


「頭頂部が薄いですね。将来ハゲますよ」

「そこじゃなくて! トーガ!」

「いいんじゃないですかね。よく知りませんけど」

「あのなー。来年はおまえも着るようになるんだから、ちゃんと見ておけよ」

「いや、わたしは元老院議員になりたくて護民官になったわけではありませんよ」


 友人と軽口をたたきながらも、カエサルは機嫌よく身だしなみを整える。

 後の暦でいえば、紀元前六十三年。カエサルこの年、三十七才である。

 同い年の友人は、カエサルの機嫌のよさが何に起因しているか、よく知っていた。


 最高神祇官ポンテイフクス・マクシムスになれたことだ。


 最高神祇官はローマの神々の祭儀を司る、大元締めだ。

 後のカソリック教会の教皇のような、地上における神の代理人ではない。権威も権力も、教皇と比べれば、ずいぶんと下がる。それでも、ローマにおいて最高神祇官は名誉ある官職として尊敬される。何よりカエサルが喜んでいるのは、選挙で勝利して獲得したことだ。


「ラビエヌス、選挙運動では世話になった。おまえのおかげだよ」

「はいはい。感謝してくださいよ。今回の選挙はどぶ板(セルタトーレス)もいいところでしたからね」

「借金は増えたが、まあ、こいつはしょうがない」

「あなた本当に、金使いが荒いですよね」

「ありがとう」

「ほめてませんって」


 平民出のラビエヌスがカエサルと出会ったのは、二十年近く前になる。

 その頃から、カエサルという男は自信たっぷりだった。

 自信過剰が鼻につくところはあったが、たっぷりな愛嬌もあって、憎めない。


「わたしに金を貸したい連中は大勢いる。なら、彼らのためにも金を使ってやるのが、ヴィルトゥスってものだろう」

「でも、返すアテはあるんですか?」

「もちろん。最高神祇官になったのも、ちゃんと理由あってのことだ」

「無料で広い公邸に引っ越すためかと思ってましたよ」

「それもある」


 最高神祇官の公邸は、フォロ・ロマーノの近くにある。

 カエサルは当選翌日には下町スブッラからここに引っ越してきた。

 下町の実家ではしまいっぱなしの地図が、壁にかけられている。

 カエサルは地図の一点に指をのばした。


「我がローマの威徳は、日々、辺境へと広がっている。わたしが狙うのは、ここだ」

「ガリアですか」

「ガリアには森の神々がいるのだが、どうも力を失っているようでな。神官ドルイドたちがどれだけ祭祀を行っても、流行り病がおさまらないのだ」

「それで最高神祇官ですか」

「ああ。ローマの神々をガリアに根付かせる。神殿を建て、神を祀る。そうすれば、ガリアの諸部族も、ちゃんとした恩寵を受けることができる」


 カエサルは、ガリアにいる商人から届いた手紙をラビエヌスにみせた。

 ガリア全土で、病気が流行っていること。

 病気に倒れるのは、きまって働き盛りの成人男女で、すぐに重篤化して多くが死ぬこと。

 ドルイドたちが平癒の儀式を行うも、いっこうに流行り病がおさまらないこと。

 ローマからきた商人たちに流行り病の影響はないこと。


「ふーむ。この手紙の内容は、信じていいのですか?」

「もちろん。帰ってきた商人たちからも話を聞いた。ガリアのどこでも流行り病があって、皆が不安に思っている。人口も減ってきているようだ。どの村も、端っこの方の耕作地から、雑草に覆われている」

「なるほど」

「中には、ローマの商品と一緒に毒の呪いを持ち込んでるんじゃないかって疑われた商人もいてな。暴力沙汰になったって話も聞く」

「そいつは風評被害というものですよ」

「流行り病で心が弱ってるときには、人は根も葉もない噂に踊らされるものだ。だが、だからといって同じローマ人として、このような非道は見過ごせない」


 カエサルは、どこにいても多くの友人知人に囲まれている。

 とにかく面倒見がいいのだ。カエサルの作る借金も、半分くらいは困っている友人知人を救うために使われている。

 未来の利益のためではなく、今の友情のために自分の金を使えるカエサルを、ラビエヌスは高く評価している。月イチで兄貴分パトロネージのポンペイウスとする食事会でカエサルの話題が出たときには、あまりに熱心に語りすぎて「まるで恋人の話をしてるようだぞ」と苦笑されたほどだ。


「さすがに今すぐ、とはいかないがな。ガリアを属州に組み込んで面倒をみるには、十分に根回しをしておかないと」

「ポンペイウスの兄貴にお願いすれば、軍団兵のひとつふたつ、すぐに動かせますよ」

「クラッススの旦那におねだりして、金を集めれば一年二年は暴れられるな。だが、わたしがやりたいのは、火事場泥棒みたいな略奪じゃない。きちんとガリアの各地に神殿を建てて、ローマの信仰を根付かせることだ。そうすれば、流行り病もおさまる」


 ローマの神々によるガリアの平癒祈願──カエサルは、その成功を疑っていない。

 根拠はある。

 ローマ人には罹ることがなく、ガリア人には罹る病があるのだ。

 しかもガリア人でも長くローマの支配下にある地域であれば、病に罹らない。

 両者の違いは、民族ではない。どの神々を信仰するか。ただそれだけだ。

 病に罹るガリア人は、古いケルトの神々を信仰している。

 病に罹らないガリア人は、ローマの神々を信仰している。

 だからこれは迷信ではない。非の打ち所のない論理が、カエサルにローマの神々の優越を教えてくれる。ラビエヌスと組んで根回しをし、最高神祇官の官職を手にしたのも、神々の優越を信じるがゆえだ。


 もちろん──

 いうまでもないが、カエサルは間違っている。


 紀元前一世紀のローマは地中海の全域から人と家畜と産物とが集まる巨大都市だ。その中には、多くのミクロ寄生体も含まれる。寄生虫。細菌。ウィルス。

 ローマ市民は、成人までに一通りのミクロ寄生体の洗礼を受ける。時には半分近くが死ぬこともあるが、生き残った者は、自然免疫を獲得する。以後は同じ病気にかからない。これを小児病と呼ぶ。

 それでも、ミクロ寄生体は滅びない。ローマの人口は五十万人を数える。この中には常に新たな乳幼児がいる。乳幼児だけであっても、ミクロ寄生体にとっては広大な沃野だ。

 ローマで訓練された軍団兵の最強の武器は、彼らがふるうグラディウスではない。投槍ピルムでも、弩砲バリスタでもない。

 軍団兵が自然免疫を獲得している小児病のミクロ寄生体こそが、蛮族バルバロイに対する最強の武器なのだ。


 ローマの下町にて──


「聞いたか、クァルトゥス。我らがカエサルがいよいよ軍団を編成するぞ」

「おう。農地法も市民集会で通った。次はいよいよガリアだな」

「おまえは四男。おれは三男。ローマに残ってたんじゃ、家も土地も手にはいらない。ここは、カエサルについていって、運を試すときだぞ」


 この時代、財産はないがローマ市民権はあるという若者たちに軍団レギオンは魅力的な就職先だった。

 軍団に志願する若者たちの、後の時代での相似を探すとすれば、新大陸における征服者コンキスタドールがそれになる。

 どちらも、己の未来と信仰に、強い自信があった。

 ローマの神々は強い。生き残りさえすれば、未来は明るい。


「じゃあまず、地区代表のケヌルス老に挨拶に行くか」

「春まで、地獄の教練だぞ」

「へっ、おれとおまえなら、どうってことねえさ!」

「古参兵のしごきは、厳しいってよ」

「なーに。おれらだって下町の喧嘩じゃ負け知らずだぜ」


 かれらは春まで、地獄の教練に悲鳴をあげ続ける。

 それでも新兵は、神々の加護と自分の未来を信じ、厳しい訓練に耐える。

 鍛える古参兵も、神々の加護とローマの未来を信じ、新兵を大事にいたぶる。

 共に訓練を乗り切ることで、軍団兵同士の同胞意識もはぐくまれる。


 ガリアの地にて──


「新しい総督から書状がきた。食料の供出を求められた」

「みかじめ料ということですか。運び込むのは、いつものようにマルセーユで?」

「いいや。指定された場所で引き渡せといってきた」

「どこでしょう」


 開いた書状には、ロダヌス河(ローヌ河)沿いのみなとの名があった。

 去年までドルイドの修行をしていた青年は、一読して部族長の顔を見た。


「品目も数も、細かく指定してありますね」

「できそうか?」

「そうですね……全体量は多いですが、距離は短い。いけそうです」

「すまんな、兄が倒れてまだ半年でこのような大任。読み書きに強いおまえを頼るしかないのだ」

「まかせてください」


 ガリア人の青年は有力氏族の三男だ。長男はゲルマン系部族とのいさかいで早死した。後を継いだ兄の次男は、半年前に突然、流行り病で倒れた。

 ドルイドのネットワークで聞くかぎり、どこの部族も流行り病に苦しんでいる。

 ローマ人のせいだというドルイドも多い。南からくるローマの神々に、ケルトの古き神々が圧迫されて苦しんでいるのだと。

 ドルイドの訓練を受けた青年も、流行り病の原因はローマの神々のせいだと思っている。しかし、単純に排斥すればどうにかなるものでもあるまいと、諦観もある。

 青年は村の倉を回って、麦の袋を確認する。


「この倉は、コルヴァン家のものだったな。主人はいるか?」

「今はわたしだ。すまないが、夫は臥せっている」

「御婦人。あなたの夫が一日も早く癒されますよう、祈らせてください」

「祈りを受け入れよう」


 本題にたどり着く前の挨拶が長いのもケルトの風習だ。

 青年は、まだ若い女主人と、お互いの血縁をさかのぼって共通の相手を見つけるまで、挨拶を続けた。


「御婦人。ここにある麦の袋を、わたしに預けていただきたい」

「なんと! 我が従兄弟の甥は、われらに飢えて死ねとおおせか! 外に広がる麦畑をみよ! 次の収穫までどれだけ日数がかかると思っておられる! 月の一巡りはかかろう! いや二巡りか!」

「もちろん、皆さんが食いつなげる量は残させていただきます」

「我が従兄弟の甥の言葉を疑うわけではないが、未来はわからぬものだ。もし雨が続いて、収穫の時期が伸びたらなんとする」


 ここからが、またさらに長い。

 青年が次兄に代わって家長になっていれば、もう少し強く交渉ができただろう。

 たとえば、次の収穫作業に、一族のものを何人か貸し出して手伝うと約束するとか。

 だが、現実には次兄は臥せってはいるが、生きている。青年はあくまで家長の代理人であり、己の言葉を保証する担保に欠けていた。

 最後には、麦の徴発がローマの王──総督といっても女主人には伝わらない──の命令であると無理に押しきった。


「この書状をごらんなさい。ローマの王からの命令が書いてある。軍勢がここを通るのに、どうしても麦が必要なのです」

「むむう。待て、それは見てのろいのかかるものではないのか? 書いてあるのは、ローマのまじない言葉だろう?」

「そのようなことはありません。この書状は、森の奥にある祭壇で儀式をほどこし、聖別してあります。あなたに呪いがかかることはありません。わたしはドルイドの修行をしたものとして、我が身命を賭して保証させていただきます」


 女主人は、渋々といった様子で書状を受け取り、表にしたり裏にしたりした。

 もちろん、女主人にラテン語は読めない。青年が一単語ずつを読み上げていく。


「ぬうう……畑を荒らす猪よりも強欲なローマの王め。我らを軽んじるにもほどがあろう」

「はい。ですが、ローマは強い。餌を投げてやって飼いならし、我らの畑を守らせるのです」

「あいわかった。我が麦をもっていくがよい」

「ありがとうございます」


 青年は、四日をかけて村にある七つの倉から麦を運び出す段取りをつけた。

 さらに二日をかけて、麦を運ぶ家畜と人を借り受ける。

 ここまで準備を整えてようやく、麦を荷車にのせ、河湊へと届けるのだ。

 河湊には、天幕があり、ローマの商人がいた。桟橋はあるが、船はない。

 青年が書状をみせると、商人は値踏みする顔で青年をみた。


「カエサルからの書状か。ラテン語だが、読めるのだな?」

「もちろんだ。数字も理解している」

「そうか……だが、困ったな。みてのとおり、船はきていない」

「書状に指定してあるのは、この河湊までだ。ここまで運んできた荷車と家畜は、麦をおろしたらすぐに村に返す」

「わかってる。なので相談がある。明日には船がくるから、あそこの丘の上に野営地を建設してくれ。麦はその中にしまう」

「丘の上に? 船が来るなら、麦は船で運び出すのではないのか?」

「いいや、船で来るのは第十軍団の先遣隊だ。細かいところはそいつらの指示に従えばいい。まず今日は人を集め、丘の周囲の草木を刈ってくれ」

「無理だ」

「報酬はある。お前さんがもってきた麦だ。出来高しだいで、ここから払おう」


 しばらく交渉した後、青年は渋々と受け入れた。

 せっかく運んできた麦を露天にさらしておくわけにはいかない。もし何かあって麦がローマ軍に届かなければ、青年のとがとなる。

 なら、村から連れてきた男たちに報酬を支払うと約束して手元に残し、麦を守る一方で、商人の頼みを聞く方がいい。日数が余分にかかるが、報酬としていくばくかの麦を持ち帰れば、村の者にも言い訳がたつ。

 その日の残りで、丘の周囲を伐採して道をつくり、荷車を押し上げた。

 青年は周囲を見回す。

 眼下にローヌ河が流れている。丘はローヌ河の西岸にある。東岸には平地が広がる。数百年後には、平地にヴァランスの街ができるが、今は木々に覆われている。

 北を見る。遠くで河が分岐している。東から流れ込んでくるのはイゼール河だ。

 翌日、船が到着してローマ軍団兵が上陸した。第十軍団の先遣隊だ。

 軍団兵は手早く測量し、丘の周囲に四角い壕を巡らせるよう青年に命じた。

 視界を確保するため周辺の草を伐採し、柔らかいものはまぐさにする。


「こんなに広くするのか」

「一個軍団、全員が入るからな。今の第十軍団だと……五千四百と二十三人だな」

「全員か? 用心深いことだ」


 ローマ軍団は、日々、野営地を作る。

 壕を巡らせ、掘った土を盛り上げるまでがガリア人の仕事だ。


「用心もあるが、第一は効率のためだ」

「効率が、そんなに大事なのか?」

「お前さん、ガリア人だな? ここにある麦を運んできたんだろう? どのくらい時間がかかった?」

「麦を運び出す許可を得るのに四日、荷車を用意するのに二日。ここまで届けるのに二日かかった」

「八日か。ローマなら、許可と荷車は事前に用意しておく。麦は倉庫に積み上げておいて、命令がくれば、すぐに運び出す。二日ですむ」

「なるほど。それが効率か。せわしないな」

「文明とは、そういうものだ」


 第十軍団がやってきた。

 壕の内側に入って麦を食べ、翌朝は残りの麦を持って前進する。

 柵は解体して運ぶが、壕はそのままだ。後続の第七軍団が使う。

 第十軍団はローヌ河沿いに前進し、先遣隊がガリア人を使って基礎を用意した野営地で宿泊した。

 軍団の最初の目的地は、ルグドゥヌム(リヨン)だ。

 その手前。現在のビエンヌを見下ろす丘の上の野営地で、カエサルはラビエヌスと一緒に状況を確認していた。


「ヘルヴェティ族は、ヘドゥイ族に取りなしを依頼したようだな」

「三十万人が故郷を捨ててそろって西に移住したいから通過させてくれとは、ずいぶんな言い草ですね。まさかヘドゥイ族はそれを受け入れたりしてませんよね?」

「いや、受け入れた」

「マジですかい」

「正確には、ヘドゥイ族の長老たちが玉虫色の無責任を押し付けあい、双方の交渉役の代理人が、自分に都合のいい解釈をし、結果としてヘルヴェティ族が邪魔されずに前進を続けている、といったところかな」

「ありえないでしょう」

「ガリア人には、よくあることだ。彼らには文明ローマが足りていない。元老院や市民集会のような議決手段はなく、かといって王もいない。記録する手段もないから、誰がどんな権限で決定していいのか、わからないのだ」


 前例があれば、部族の寄り合いはそれなりに機能する。種まきをいつにするか。どの畑から収穫を行うか。次の祭祀は誰が当番になって行うか。過去の積み重ねからくる規定ルーチンがまずあり、それを修正(パッチ)して実行すればいい。

 だが、ヘルヴェティ族が土地を捨てて移住するという、前例のないことが議題として持ち込まれると、たちまち部族の寄り合いは無能をさらす。誰が何を決めたところで、根拠が存在しないからだ。頭は下げても、従う理由がない。


「では、我々はどうするんです」

「もちろん、ヘルヴェティ族を阻止する。強行してくるなら、戦って止める」

「三十万人を相手に? ここに連れてきてるのは第十軍団の五千人だけですよ?」

「三十万人は自称だ。今のヘルヴェティ族は十五万……いや、もっと少ないだろう。十万人もいないかもしれん」

「それでも、こちらの二十倍はいますよ」

「正面からぶつからなければ、楽勝だ」

「どこからその自信はくるんですか」


 ラビエヌスの問いに、カエサルは堂々と答えた。


「わたしは最高神祇官だぞ? ローマの神々がついている」

「はいはい」


 軽く受け流し、ラビエヌスは書状と地図を確認し、メモをとって現状を把握する。

 第七軍団が、一日の距離を置いて、ローヌ河を北上している。

 第八軍団と第九軍団は、後詰としてマルセイユだ。

 もし、カエサルと第十軍団に何かあって敗走することがあっても、一日分を逃げ戻れば、そこには第七軍団が野営地を構えて待っている。


「ところで、ヘルヴェティ族の集団移住の理由。ゲルマン人の圧迫に耐えかねて、という噂も聞きますが……やはり、原因は流行り病でしょうか」

「ああ。流行り病で間違いあるまい。ヘドゥイ族は黙ってるがな。おっかなびっくりで囲んでいるが、近づかないのも状況証拠となろう。我々がくるのを待ってるフシがある」


 カエサルは厳しい顔でいった。

 ヘルヴェティ族が故郷の村や畑を焼き払ったのは、病を浄化するためだ。

 終わらない流行り病が、呪われた土地を捨てる決断をヘルヴェティ族にさせたのだ。

 ゲルマン人が空いた土地に色目を使っているのは事実だろうが、それは副次的なものだ。


「となれば……やはり、戦いは避けられませんね」


 ラビエヌスは沈鬱な顔でいった。

 ヘルヴェティ族が父祖の地を捨てるほどに流行り病に怯えているなら、その決意を翻させることは至難だ。

 流行り病より、ローマ軍が恐ろしい。

 そこまで追い込んで、はじめて移動をやめるだろう。


「そうだな。逆にいえば、我らが勝てば、ガリア諸部族におけるローマの神々の地位は盤石なものとなる。流行り病に負けぬ、最強の加護を与えてくれる神々だと」

「そんなにうまくいきますかね」

「うまくいかせてみせるさ。わたしを誰だと思っている」


 カエサルは一転して、満面の笑みになる。

 苦境にあるほどに、カエサルは朗らかになる。


「はいはい。最高神祇官殿、ですね」


 ラビエヌスは、からかい半分で答えた。

 ラビエヌスも、もちろん紀元前一世紀の人間である。

 ローマの神々への信仰はある。神々の力を信じてもいる。

 だが、それ以上にラビエヌスは、カエサルを信じたかった。

 いかなる困難もローマの神々の恩寵があれば打ち払えると信じているカエサルを、神々はよみしたもうであろうと。


「ですが、忘れてはいけませんよ。カエサル。ローマの神々は永遠でも、あなた自身は死すべき運命さだめにある、定命の人です」

「それはもちろん、わかってるよ。わたしの名は、いずれ消えて忘れられるだろう。遠い未来において残るのは、ローマの神々への信仰だけだ」


 もちろん──

 いうまでもないが、カエサルは間違っている。


 カエサルの名は歴史に刻まれ、皇帝カイザーの語源ともなる。

 対するローマの神々への信仰は、やがてキリストとの試練を経て、消えていく。

 四世紀のミラノ司教アンブロジウスの書簡には、古きローマの神々の力が衰え、疫病から人々を守ってくれなくなったことが書かれている。

 この時期には、ローマの免疫は地中海世界で突出した存在ではなくなっていた。

 ローマ帝国の人々は、新しいキリストの神へと、信仰の軸足をうつしていく。


「まったく。あなたときたら、謙虚なんだか、傲慢なんだかわからない人ですね」

「人間なんだから、どちらもあるさ。一番大事なのは、そのふたつを合わせるための徳、すなわち“寛容”(クレメンティア)だよ」


 カエサルは、そういって笑った。

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